風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第36回 大阪市電

廃線鉄道  第36回  大阪市電(大阪市営電気鉄道) 〔大阪府〕

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戦後復興期の1954年に登場し
大阪市電の全廃となる1969年まで
主力車両だった2201型
※ ウィキペディア画像を拝借

大阪市営電気鉄道(おおさかしえいでんきてつどう)・略称大阪市電(おおさかしでん)は、20世紀の前半・半ばに大阪市が経営していた路面電車である。 大阪市交通局が事業を行っていた。

1903年に開業した日本で最初の公営による電気鉄道及び狭義の『市電』であった(ちなみに、1895年に日本で最初に電気鉄道が開通した京都市では、公営路線としての開通は1912年、全面市営化は1918年との事)。 1969年3月31日限りで全廃されたが、当時の政令指定都市で市電全廃を断行したのも大阪市電が最初である。

大阪市電の路線史は、1903年に第一期線として花園橋(現在の九条新道交叉点)〜築港桟橋(現在の大阪港・天保山)5.1kmの築港線が開業したのに始まる。 その天保山は、同年7月に日本で初めて大阪市自身が建設・運営する港・大阪港が開港したばかりで、その大阪港へのアクセス路線であった。

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大阪市電・路線最盛期の路線図
※ ウィキペディア画像を拝借

続いて1908年の第二期線(東西線・南北線、11.1km)開業で、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成された。 その後路線は第三期線43.2km、第四期線25.2km、そして期外線と急速に延長開業されて、最盛期は118km弱と、市電では東京都電に次いで我が国第2の路線規模となった。

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確かに大阪市電は
大阪の一時代の歴史を担っていた
20年ほど前に所属した
カメラの会の阪堺電車撮影会にて

1950年代後半からの高度経済成長期に入ると、モータリゼーションによる市電遅延や自動車渋滞の常態化により、乗客が減少した。 1960年10月6日に、大阪市北部地域を中心に10時間にわたる交通マヒが起こった事で市電廃止論が強まり、大阪市議会は1966年3月に市電を全廃し高速鉄道(地下鉄)による新交通体系を確立する旨の決議を行い、市電は1969年(昭和44年)3月31日限りで65年半の歴史を終えた。

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さよなら運転の『花電車』となった
都島本道付近を行く都島守口線
※ ウィキペディア画像を拝借

なお、1953年からは大阪市営トロリーバスも運行されていたが、こちらも市電廃止翌年の1970年6月15日に全廃された。

軌間は標準軌(1435mm)、電圧は直流600V。 標準軌は、大師電気鉄道に次ぐ日本で2番目の採用であった。 車両の塗色は、開業当時は御料車と同じ「ため色」と言う赤色一色だったが、戦後は淡いピンク色とインディアンレッドの2色塗りとなった。

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背後の車両・・
これでバレたな
20年ほど前に所属した
カメラの会の阪堺電車撮影会にて

大阪市は市街地の交通を市が掌握する、市街交通市営主義(俗に言う市営モンロー主義)を当初から打ち出しており、基本的に市街地(1925年の大阪市域拡張前の旧市域)へ民営鉄道を入れさせなかった。
この為に他の市電に見られるような民営線の買収は少なく、南海鉄道(旧・大阪馬車鉄道路線の一部区間)と、阪堺電鉄(新阪堺)の2例にとどまっている。

現在、起点だった九条新道交叉点には『大阪市電創業の地』の碑が立つ。 なお九条には九条新道からは400mほど離れているものの、2018年4月の民営化により消滅した大阪市交通局の本庁舎(民営化に伴い発足したOsaka Metroの本社となった)が所在するなど、市営交通には由緒深い地である。

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広島電鉄で今も現役車両として
使用されている旧大阪市電の路面電車
※ ウィキペディア画像を拝借

開業の翌年には二階付き電車を導入し、市民からは「夕涼み電車」「魚釣り電車」と呼ばれた。
これは日本における2階建車両の嚆矢といわれている。 車両の一部が広島電鉄で現在も運行されているほか、Osaka Metro緑木検車場内の市電保存館(開館は不定期)に保存されている。

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大阪市電の創成である第一期線は
大阪市の国家的プロジェクト・大阪港開港に
併せて湾岸アクセス路線として敷設された
※ ウィキペディア画像を拝借

   路線
  第一期線(1903年)
築港線 花園橋西詰~築港桟橋 5.1km 1960年7月末廃止
1903年9月12日に開業した大阪市電築港線の花園橋西詰(後の花園橋)〜築港桟橋(後の大阪港)間5.1kmの路線を大阪市電の第一期線と呼ぶ。

明治維新によって近代国家へと歩みだした日本の経済の中心地(商都)あった大阪市が市政100年の大計として、万難を排して建設した築港桟橋の完成と、誘致に成功した第5回内国勧業博覧会の開催(1903年)が大阪市電開業のきっかけであった。 そして、大阪市電築港線の開業から大阪市電の歴史が始まる訳であるが、この大阪市電築港線の開業は、日本初の公営による電気鉄道の開業でもあった。

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第二期線は上下左右に延びる
大阪市電の骨格として敷設された路線である
※ ウィキペディア画像を拝借

  第二期線(1908年)
東西線 九条中通一丁目~末吉橋 3.7km 1967年7月末全区間廃止
南北線(本線)梅田停車場前恵美須町~恵美須町 5.9km 1966年3月末廃止
南北線(支線)大江橋~渡辺橋 1.1km、梅田停車場前~大江橋 0.4km 1966年6月末廃止

大阪市電の第二期線は、大阪市街を縦横に走る二大幹線から成るもので、その名も東西線および南北線という路線名となった。 なお、第三期線以降に敷設された大阪市街の中心を走る各路線は、堺筋線や靱本町線のように固有名詞で路線名が付けられるようになった。 おおむね東西線は長堀川の北岸、南北線は西横堀川のやや西方を通り、交点となる四ツ橋にダイヤモンドクロッシングが設置された。

1908年8月1日に開業した大阪市電・東西線の九条中通一丁目~末吉橋と、南北線の本線ともいうべき梅田停車場前(後の大阪駅前)〜恵美須町間に加え、梅田停車場前から梅田新道を経由して大江橋まで南下する支線、大江橋から中之島二丁目(後の渡辺橋)まで西進する支線をあわせた路線が、大阪市電の第二期線である。

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上六の交差点をゆく
在りし日の大阪市電
※ ウィキペディア画像を拝借

  第三期線(1909年~1916年)
九条中之島線 渡辺橋~九条新道 3.0km 1968年4月末全線廃止
上本町線 上本町二丁目~天王寺西門前 2.8km 1968年12月18日全線廃止
曽根崎天満橋筋線 梅田新道~天満橋 距離明記されず 1969年1月末全線廃止
谷町線 谷町六丁目~天満橋 距離明記されず 1944年5月末・戦争末期に不要不急路線として廃止
北浜線 北浜二丁目~天神橋 0.5km 1968年4月末廃止
今橋天満橋筋線 天神橋~天満橋 0.6km 1968年4月末廃止
玉造線 末吉橋~玉造 1.9km 1961年10月末廃止
堺筋線 淀屋橋~日本橋筋三丁目 距離明記されず 1968年4月末全線廃止
福島曽根崎線 梅田新道~福島西通 1.9km 1969年1月末廃止
霞町線 恵美須町~霞町 0.4km 1966年3月末廃止
靱本町線 川口町~谷町三丁目 3.3km 1964年9月末廃止
西道頓堀天王寺線 桜川二丁目駅~天王寺西門前 3.5km 1968年9月末廃止
天神橋西筋線 北浜二丁目~天神橋筋六丁目 2.5km 1966年9月末廃止
松島安治川線 松島町一丁目~玉船橋 1.9km 1967年7月末全線廃止
九条高津線 安治川二丁目渡~上本町六丁目 5.6km 1969年3月末全線廃止
難波木津線 賑橋~大国町 1.4km 1963年5月12日廃止
西野田線 船津橋~兼平町 1.9km 1969年5月12日全線廃止
西野田福島線 福島西通〜玉川町四丁目 0.9km 1969年1月末廃止

大阪市電の第一期線は築港線のみで、大阪市電の第二期線は東西線と南北線の2路線のみであったのに対して、大阪市電の第三期線は全13路線・総延長43.2kmに及ぶ巨大プロジェクトで、1933年に大阪市によって御堂筋が整備されるまで、大阪市の南北を走るメインストリートであった堺筋を走る堺筋線や、戦後に千日前通として整備される事になる大阪市の東西の道を走っていた九条高津線も含まれていた。

この計画は、1905年11月の大阪市議会において提案されたものの、その規模が大きいだけあって影響を受ける大阪市民も多く議論はかなり紛糾したが、結局は翌年度への持ち越し議案となったものの、翌1906年6月の大阪市議会において原案どおり可決された。

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戦前の華やかな時を映し出すような
流線形の車両が行き交った
※ ウィキペディア画像を拝借

  第四期線(1918年~1924年)
桜川中之島線 桜川二丁目~堂島大橋 距離明記されず 1968年9月末廃止
霞町玉造線 霞町〜玉造 4.8km 1966年3月末全線廃止
安治川築港線 玉船橋~千舟橋 3.4km 1945年に戦災の為全線休止の上で1960年廃止
松島南恩加島線 松島二丁目~木津川運河 距離明記されず 1967年7月末廃止
梅田善源寺町線 大阪駅前~都島本通 3.0km 1969年3月末全線廃止
西野田桜島線 兼平町~桜島駅前 5.3km 1969年1月末全線廃止
天満橋善源寺町線 天満橋~東野田 1.4km 1968年12月18日全線廃止

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同じような容姿だし
大阪市電・・と言っても
通用するんじゃね?
20年ほど前に所属した
カメラの会の阪堺電車撮影会にて

  期外線(1914年~1957年)
第四期線までは各期毎に一つの纏ったプロジェクトであったのに対し、第四期線以後はその時の輸送需要に応じて補足していく事になった。 それらの延伸開業路線を一括して期外線という。 そして、この期外線にも、日中戦争に突入する1937年までに開業した19路線のみを指す狭義の解釈と、戦中・戦後を通じて開業した6路線を含む計25路線の広義の解釈とがあり、ここでいう期外線とは後者の広義の期外線である。 この期外線の中には、以下の路線が含まれる。

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今も昔も路面電車の
車内情景だけは変わらない
20年ほど前に所属した
カメラの会の阪堺電車撮影会にて

天王寺阿倍野線 天王寺西門前~阿倍野橋 0.7km 1968年12月18日廃止 ※ 南海からの買収路線
大阪市の施策である「市営モンロー主義」に基づき、南海鉄道上町線の一部区間であった天王寺~公園東門を「強制的に」買収し、大阪市営化した

野田線 玉川三丁目~野田阪神電車前 0.6km 1964年3月休止・翌1965年8月末廃止
1964年3月15日に大阪環状線高架化工事の為に休止となり、翌1965年8月末正式に廃止となる。
市電同士を立体交差させて、玉川三丁目から野田阪神前まで軌道を敷いていた。

九条高津連絡線 湊町停車場~新川 5.9km 1969年3月末全線廃止
湊町駅前から賑橋までの間を流れていた水路(難波新川)を挟んだ九条高津線の複々線化路線である。

築港北海岸通線 大阪港・築港桟橋~三条通四丁目 距離明記されず 1960年7月末全線廃止大阪港から天保桟橋経由、三条通四丁目までの単線ループ線であった。

城南線 馬場町~森之宮東之町 1.1km 1964年9月末廃止
陸軍第四師団が置かれた大阪城からの陸軍の出動に配慮して、軌道を道路の片側へ寄せて建設された

都島守口線 沢上江町二丁目(都島本道)~守口町 4.7km 1969年3月末廃止
地権者からの土地の提供を受けて、都島本通から大阪市域外である守口まで軌道を敷いていた

阪堺線 芦原橋~湊ノ浜 距離明記されず
出島〜港ノ浜が1945年8月廃止・芦原橋~出島 1968年9月末廃止で全線廃止
戦時体制化の下、軌道事業を管轄する監督官庁である内務省及び運輸通信省、並びに阪堺電鉄阪堺線が走っていた大阪府道29号大阪臨海線を管理する大阪府からの要請を受けた大阪市が「軌道法第17条」を発動し、阪堺電鉄を強制的に買収して大阪市営化した路線。 大阪大空襲の被害を受けて、出島〜港ノ浜が1945年8月15日に廃止、残る芦原橋~出島 1968年9月末廃止で全線廃止となった。

鶴町線 小林町~大運橋通 距離明記されず 1967年7月末全線廃止
谷町寝屋川線 谷町三丁目~偕行社前(京阪東口) 距離明記されず 1968年12月18日廃止 
上本町下味原町線 上本町六丁目~下味原町 0.9km 1969年3月末廃止
東野田沢上江町線 東野田九丁目~都島車庫前 1.4km 1968年4月末廃止
梅田空心町線 阪急電車前~扇橋 阪急阪神前~扇橋 1.0km 1960年9月20日廃止
三軒家新千歳町線 三軒家~新千歳町 距離明記されず 1967年7月末廃止
堂島大橋線 堂島大橋~福島西通 0.6km 1968年9月末廃止
大手前上本町線 馬場町~上本町二丁目 0.8km 1968年12月18日廃止
鶴橋線 下味原町〜今里終点(今里駅前)1.3km 1969年3月末全線廃止 
長柄橋筋線 天神橋筋六丁目~長柄橋 0.8km 1966年3月末廃止
天王寺大道線 天王寺西門前~寺田町 0.9km 1968年9月末廃止
土佐堀南岸線 川口町~淀屋橋 2.1km 1968年4月末廃止
玉造森之宮線 玉造~森之宮東之町 0.8km 1966年3月末廃止
玉造今里線 玉造~大今里(今里)1.3km 1961年10月末廃止
百済線 寺田町~百済 1.6km 1968年9月末廃止
天満今福線 空心町二丁目~今福 距離明記されず 1969年1月末全線廃止 
森之宮緑橋線 森之宮東之町〜緑橋 距離明記されず 1964年9月末廃止

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終戦後の復興期は
今の市営バス(現 大阪シティバス)の路線並みに
路面電車が網の目のように市内をめぐっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

  1959年(昭和34年)当時の運転系統
天王寺車庫所属色別:
 1甲系統
区間:阿倍野橋~阿倍野橋(循環)
経由地:天王寺西門前~恵美須町〜大国町〜賑橋〜湊町駅前~四ツ橋〜信濃橋~肥後橋~桜橋~
大阪駅前~梅田新道~淀屋橋~北浜二丁目~本町二丁目~長堀橋〜日本橋筋一丁目~日本橋筋三丁目〜
恵美須町〜霞町
 1乙系統
区間:阿倍野橋~阿倍野橋(循環)
経由地:1甲系統の逆周り
 3系統
区間:阿倍野橋~長柄橋
経由地:霞町~恵美須町〜日本橋筋三丁目〜日本橋筋一丁目~本町二丁目~北浜二丁目~南森町〜
天神橋橋筋六丁目
 4甲系統
区間:阿倍野橋~阿倍野橋(循環)
経由地:霞町~恵美須町〜日本橋筋三丁目〜難波駅前~湊町駅前~四ツ橋〜信濃橋~肥後橋〜桜橋~
大阪駅前~梅田新道~淀屋橋~北浜二丁目~天満橋~京阪東口~馬場町〜上本町二丁目~上本町六丁目~
天王寺西門前
 4乙系統
区間:阿倍野橋~阿倍野橋(循環)
経由地:天王寺西門前~上本町六丁目~上本町二丁目~馬場町〜京阪東口~天満橋~北浜二丁目~
淀屋橋~梅田新道~大阪駅前~桜橋~肥後橋〜信濃橋~四ツ橋〜湊町駅前~難波駅前~日本橋筋三丁目〜
恵美須町〜霞町
 14系統
区間:守口~阿倍野橋
経由地:都島本通~東野田〜片町〜京阪東口~馬場町〜上本町二丁目~上本町六丁目~天王寺西門前

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古い車両ってモノクロで撮ると
その状況がより甦るね
20年ほど前に所属した
カメラの会の阪堺電車撮影会にて

今里車庫所属色別:
 5系統
区間:今里~玉船橋
経由地:鶴橋~下味原町~上本町六丁目~日本橋筋一丁目~湊町駅前~桜川二丁目~大正橋~境川町
 6系統
区間:今里~大阪駅前
経由地:鶴橋~下味原町~上本町六丁目~日本橋筋一丁目~長堀橋〜本町二丁目~北浜二丁目~淀屋橋~
梅田新道
 7系統
区間:百済~福島西通
経由地:寺田町駅前~寺田町~天王寺西門前~恵美須町〜大国町〜芦原橋〜桜川二丁目~白髪橋~
岡崎橋~江戸堀北四丁目
 8系統
区間:阿倍野橋~本田町一丁目
経由地:寺田町~桃谷駅前~下味原町〜玉造〜上本町二丁目~長堀橋〜心斎橋〜四ツ橋〜白髪橋~
松島一丁目
 9系統
区間:今里~玉船橋
経由地:中道本通二丁目~玉造~上本町二丁目~長堀橋〜心斎橋〜四ツ橋〜白髪橋~松島一丁目~
本田町一丁目
 27系統
区間:上本町六丁目~鶴町四丁目
経由地:日本橋筋一丁目~湊町駅前~桜川二町目~大正橋~三軒家

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市電の終焉は
この『都島車庫前』行だったのだろうか
※ ウィキペディア画像を拝借

都島車庫所属色別:
 10系統
区間:守口~肥後橋
経由地:都島本通~天神橋筋六丁目~大阪駅前~桜橋
 11系統
区間:守口~阿倍野橋
経由地:都島本通~天神橋筋六丁目~南森町〜北浜二丁目~本町二丁目~長堀橋〜日本橋筋一丁目~
日本橋筋三丁目〜恵美須町〜霞町
 12系統
区間:川口町~大宮町
経由地:江戸堀通四丁目~肥後橋〜淀屋橋~北浜二丁目~天満橋~京阪東口~片町〜東野田〜都島本通
 13系統
区間:都島車庫前~桜川二丁目
経由地:天神橋筋六丁目~大阪駅前~桜橋~福島西通〜江戸堀北四丁目~岡崎橋~白髪橋
 15甲系統(循環)
区間:都島車庫前~都島車庫前
経由地:天神橋筋六丁目~大阪駅前~桜橋~肥後橋〜信濃橋~四ツ橋〜湊町駅前~賑橋〜難波駅前~
日本橋筋三丁目〜日本橋筋一丁目~長堀橋〜本町二丁目~北浜二丁目~南森町〜天神橋筋六丁目
 15乙系統(循環)
区間:都島車庫前~都島車庫前
経由地:15甲系統の逆周り

春日出車庫所属色別:
 16系統
区間:桜島駅前~今福
経由地:玉川四丁目~福島西通〜桜橋~梅田新道~南森町〜空心町二丁目~東野田〜京橋
 17系統
区間:春日出車庫前~天満橋
経由地:玉川四丁目~福島西通〜桜橋~梅田新道~南森町〜空心町二丁目
 18系統
区間:野田阪神前~玉造
経由地:玉川四丁目~川口町〜岡崎橋~信濃橋~本町二丁目~馬場町〜森之宮東之町
 19系統
区間:野田阪神前~緑橋
経由地:玉川四丁目~川口町〜岡崎橋~信濃橋~本町二丁目~馬場町〜森之宮東之町
 20系統
区間:野田阪神前~鶴町四丁目
経由地:玉川四丁目~川口町〜本田町一丁目~松島一丁目~大正橋~三軒家
 28系統
区間:野田阪神前~新千歳町
経由地:玉川四丁目~川口町〜本田町一丁目~松島一丁目~大正橋~三軒家

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こういう後生は鉄道車両にとって
幸せなのかもしれないね
ある幼稚園に寄贈された
大阪市電の路面電車
※ ウィキペディア画像を拝借

港車庫所属色別:
 21系統
区間:野田阪神前~大阪港
経由地:玉川四丁目~川口町〜本田町一丁目~境川町〜三条通四丁目駅 ~[大阪港]〜天保山桟橋~
三条通四丁目 ※ 三条通四丁目~大阪港~天保山桟橋~三条通四丁目は一方通行。
 22系統
区間:都島車庫前~大阪港
経由地:天神橋筋六丁目~大阪駅前~桜橋~肥後橋〜江戸堀通四丁目~川口町〜本田町一丁目~境川町~
三条通四丁目~[大阪港駅]〜天保山桟橋~三条通四丁目 ※ 三条通四丁目~大阪港~天保山桟橋~
三条通四丁目は一方通行。
 23系統
区間:都島車庫前~大阪港
経由地:都島本通~東野田〜片町〜京阪東口~天満橋~北浜二丁目~淀屋橋~肥後橋〜江戸堀通四丁目~
川口町~本田町一丁目~境川町〜三条通四丁目~[大阪港駅]〜天保山桟橋~三条通四丁目
※ 三条通四丁目~大阪港~天保山桟橋~三条通四丁目は一方通行。
 24系統
区間:今里 - 大阪港間
経由地:鶴橋~下味原町〜上本町六丁目~日本橋筋一丁目~湊町駅前~桜川二丁目~大正橋~境川町〜
三条通四丁目駅 ~[大阪港駅]〜天保山桟橋~三条通四丁目 ※ 三条通四丁目~大阪港~天保山桟橋~
三条通四丁目は一方通行。

三宝車庫所属色別:
 29系統
区間:出島〜桜川二丁目
経由地:三宝車庫前~芦原橋
 30系統
区間:三宝車庫前~福島西通
経由地:芦原橋~桜川二丁目~白髪橋~岡崎橋~江戸堀北通四丁目
 31系統
区間:三宝車庫前~上本町六丁目
経由地:芦原橋~桜川二丁目~日本橋筋一丁目

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かつて何百輌という車両を保有した
大阪市電も今はほんの一部が
博物館静態保存されるのみ
※ ウィキペディア画像を拝借

車庫は以下の通り所在した。
 市岡車庫港区市岡元町3丁目):1903年開設 ※ 大阪市電最初の保有車庫
収容10両の小さな車庫。 1908年8月1日i大阪市電の第二期線開業と同時に廃止。 跡地は現在、市岡元町公園になっている。

 九条車庫(西区九条南1丁目):1909年開設
200両収容の大型車庫。 1921年10月に収容車両を新設の築港車庫と鶴町車庫に移動し、廃止された。
跡地は大阪市交通局の本局及び、京セラドーム大阪の敷地の一部になっている。

 梅田車庫(北区小松原町):1910年開設
一時期は大阪市電の車両工場の付属機関としての役割も兼ねるようになり、一部の車両の修繕も行っていた。 車両の出し入れの便宜から、車庫内にループ線が存在したとの事。 1923年4月に廃止され、跡地は大阪富国生命ビルになっている。

 上本町車庫天王寺区上本町西2丁目):1911年開設
125両収容の大型車庫。 1927年8月に廃止され、跡地は住宅地となっている。

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花形車両の集まる路線最大の車庫
阪堺電車の住吉車庫には
京都市電の車両が保存されていた

 天王寺車庫(浪速区霞町2丁目):1912年開設
340両収容の市電最大の車庫。 受け持つ運転系統が大阪市電の主力路線であった為、1919年頃の4車庫時代には、他の車庫(九条・梅田・上本町)が四輪車ばかりであったのに対して、当時の精鋭であった501形や601型が配置されていた。 新型車両の路線投入の際に優先的に配属されるなど、大阪市電の花形車庫であった。

1967年1月16日に廃止され、跡地は大阪市交通局の施設や大阪市営バスの操車場に転用された後、1997年7月に大型遊具や娯楽施設と商業施設を合体させた都市型立体遊園地『フェスティバルゲート』が開業している。

正式名称は『天王寺車庫』だが『霞町車庫』と呼ばれる事が多かった。 なぜなら、天王寺公園には近接するものの、一般的に『天王寺』と称される四天王寺や天王寺駅からは相当離れており、車庫所在地も天王寺区ではなく浪速区となっている為である。

 築港車庫(港区港晴4丁目):1921年開設
築港線と安治川築港線とが合流する地点(千舟橋電停付近)にあり、両線に挟まれる形で8棟から構成され、250両収容可能であった。 だが、1945年6月1日の大阪大空襲の際に被災・全焼し、そのまま廃止された。 戦災復旧される事なく廃止された大阪市電の車庫は、この築港車庫が唯一である。

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晩年は保存車両や他社譲渡予定の
車両改装工事基地となっていた都島車庫
※ ウィキペディア画像を拝借

 都島車庫(都島区都島本通2丁目):1922年開設
220両収容可能の車庫。 国鉄の淀川電車区(初代)と淀川駅(貨物駅)が隣接していた。 
1945年6月1日の大阪大空襲により被災・全焼した。 しばらくはそのまま放棄されていたが、終戦から10ヶ月後の1946年6月にようやく復旧された。 その際に、建坪が戦前の半分に縮小されている。

1964年9月末に靱本町線(川口町〜谷町三丁目)が廃止され、市電車両の車両工場への入出庫が不可能となった為、車庫の建物のうち2棟が森之宮車両工場都島作業所に移築されて手狭となったが、営業路線の縮小で1968年に解消された。

1969年4月1日に、梅田善源寺町線(阪急東~都島本通)の廃止に伴い廃止された。 大阪市電最後の日まで今里車庫とともに残り、晩年には保存車両11両や他社への譲渡予定車両を抱えていた。

跡地には暫くの間保存車を収容した電車庫が残っていたが、やがて保存車が森之宮車両工場に移送されると建物は解体され、地下鉄谷町線延長工事の資材置き場などとして利用された。1980年代になると、大阪市交通局の施設やグランド(地元では車庫跡グランドと呼ばれていた)、および大阪市営バスの操車場として使用されていたが、1990年代初頭には隣接する淀川駅・淀川電車区の跡地とともに再開発されて、桜ノ宮リバーシティーや総合医療センターとなっている。

都島車庫だった部分は、1993年12月に既存の5施設を統廃合して大阪市の中核病院の役割を果たすべく、大阪市立総合医療センターが開院した。 医療センターの東側に不自然な三角形の敷地(駐車場となっている)があるが、これが都島車庫の敷地の名残である。

 鶴町車庫(大正区鶴町2丁目〔初代〕・鶴町4丁目〔2代目〕):1923年〔初代〕・1960年〔2代目〕開設
初代・204両収容可能の車庫。 1945年6月1日の大阪大空襲を受けて全焼したが、間もなく応急的に復旧された。 1954年7月に、大正区鶴町周辺地域の土地の嵩上げ工事の為に廃止されて港車庫へ移転した。

二代目・一度は港車庫へ移転・廃止となったが、その後嵩上げ工事が完了したのを受けて、復活させる事になった。 復活に際しては、位置が鶴町2丁目から路線終点の鶴町4丁目に変更されている。

1967年8月1日に、鶴町線(鶴町車庫~大運橋)の廃止に伴い廃止された。 跡地には大阪シティバス鶴町営業所(旧大阪市営バス)が開設された他、大阪市営住宅(大阪市営鶴町第一住宅・第四住宅・第六住宅)、及び鶴町北公園などが建設された。

 春日出車庫(此花区島屋3丁目):1923年開設
192両収容可能の車庫。 1945年6月1日の大阪大空襲によって全焼し、その後しばらくは復旧されずに放棄されていたが、終戦から2年目の1947年8月にようやく復旧された。

鶴町車庫と同様に海抜の低い低地帯にあったため、度々風水害を受けた。 また、車庫の近隣に国鉄・西成線(現在の桜島線の一部)が通っていた為、他社への譲渡車両の運搬基地となり、さらに余剰となった市電車両の解体場所ともなった。

1969年2月1日に、大阪市電・西野田線(兼平町~島屋町)の廃止に伴って廃止された。 跡地は大阪市営バスの春日出営業所となったが、1994年12月に営業所機能を新設の酉島営業所に移転し閉鎖された。

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大阪市電・・と言いたい所だけど
阪堺電気軌道の車庫だったりする
20年ほど前に所属したカメラの会の
撮影会で撮っていた

 今里車庫(東成区大今里西3丁目):1927年開設
1945年6月27日に大阪大空襲を受けたものの大きな被害も無く、数ある大阪市電の車庫の中で、唯一の焼失を免れた車庫である。

後年、大阪市営地下鉄5号線(大阪市営地下鉄千日前線)の今里検車場の建設のため、規模が一部縮小された。 そして1969年4月1日に、大阪市電で最後まで残っていた鶴橋線(下味原町~今里車庫前)の廃止により、今里車庫も廃止された。 跡地には、大阪市営地下鉄の森之宮検車場今里車庫、及び大阪市営バス東成営業所が開設された。

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三宝車庫は阪堺鉄道買収で
保有した車庫という事で
阪堺電気軌道の住吉車庫おば

 三宝車庫(堺市堺区海山町6丁):1944年に阪堺電気鉄道の買収により保有
戦時体制の下、軌道事業を管轄する監督官庁であった内務省等と、阪堺電鉄・阪堺線が走っていた大阪府道29号大阪臨海線(野田阪神交差点~空道臨海北交差点)を管理する大阪府からの要請を受けた大阪市が、大阪市議会で「阪堺電鉄株式会社の買収に関する議案」の可決を経て、1944年3月27日に芦原橋~浜寺の軌道事業と沿線の宅地開発事業を行っていた阪堺電鉄株式会社を強制的に買収した。

その際に阪堺電鉄が行っていた軌道事業のうち、採算性が見込める芦原橋~湊ノ浜の経営を大阪市電気局(現在の大阪市交通局)に継承させる形で、1944年4月1日に大阪市電の期外線として芦原橋・湊ノ浜間を開業させた事と同時に、堺市堺区海山町6丁にあった阪堺電鉄の工場兼車庫を大阪市電の三宝車庫としたものである。

三宝車庫は、市岡車庫と同様に、営業路線と並行して両側に入庫線、および出庫線があった。 
また、大阪市電の営業所や変電所も置かれていた。(営業所は西加賀屋から、変電所は北加賀屋から移設)

1968年(昭和43年)10月1日、大阪市電阪堺線(通称、三宝線)の廃止に伴い廃止された。跡地の大部分は昭和電工株式会社に払い下げられ、その堺工場となっている。

 港車庫(港区田中3丁目):1954年開設
戦後初の大阪市電の新設車庫として、1954年7月に当時の大阪市港区夕凪町3丁目(現在の大阪市港区田中3丁目)に開設された。 1961年に、大阪市営地下鉄4号線(現在の中央線)の大阪港~弁天町(全線高架)の建設に伴う大阪市営地下鉄港検査場(朝潮橋駅に隣接していたが現在は廃止されている)の建設の為に敷地の一部が転用されて、規模が縮小された。

1968年5月1日、築港線(花園橋~港車庫前)の廃止に伴い廃止された。 跡地は港車庫より転用された市営地下鉄港検査場の跡地と共に、大阪プール・大阪市中央体育館・八幡屋公園となっている。


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パヨクが制定を目指す『人権擁護法案』や
それが名を変えた『ヘイト・差別防止法』と

天皇信奉右翼が制定を目論む天皇への『不敬罪』が
なぜに日本国民の生殺与奪の権限を
奪われる危機な法なのかというと

それはいずれも『申告罪』であるという事
つまり密告によって罪が立件され

その罪の有無を決めるのは
この法を制定した為政者側・・
つまり日本り乗っ取りに成功した
在日チョン共だって事である

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つまり奴らヒトモドキの支配の下で
反政府活動の疑いをかけられたなら
密告によってこの法が適用されて拘束され
即刻この法の下に粛清(処刑)されるのである



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