風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第35回 井笠鉄道・本線

廃線鉄道  第35回  井笠鉄道・本線 〔岡山県〕

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駅舎が現存し鉄道記念館となっている
井笠鉄道・本線の旧新山駅
※ ウィキペディア画像を拝借

井笠鉄道・本線(いかさてつどう・ほんせん)は、かつて岡山県笠岡市の笠岡駅と井原市の井原駅を結んでいた井笠鉄道の鉄道路線である。 1913年11月17日に軽便鉄道として開業。 

1924年には省線(国鉄)山陽本線の笠岡駅拡張に伴って笠岡駅に乗り入れるなど、戦前に経営は最盛期を迎える。 だが、終戦後は時代の進化に乗り遅れた軽便鉄道規格が災いして、車両・設備の陳腐化によって経営が傾き始める。

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蒸気機関車からの切り替えに
ガソリンカーを導入するも
戦前からの貨客混合列車の運行を踏襲して
戦後に入って更に旧態依然な姿を晒していた

近代化対策として蒸気機関車の切り替えにガソリンカーを導入するなどしたが、導入したガソリンカーも戦前からの運行スタイルである客車・貨物牽引の混合列車運行を維持するべく単端式(片運転台で転車台が必要)が導入され、時が経つと共に車両や設備の陳腐化がより目立つようになり、経営状況は更に悪化したようだ。

車両・設備の陳腐化対応として、1955年にボギー台車で両運転台の新型車両を投入して蒸気機関車の運用を廃するなどしたが、沿線地域の道路の整備によるモータリーゼ―ションの波が押し寄せ、井笠鉄道の会社自体も鉄道経営からバス経営に切り替えるようになっていく。

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戦後経済成長期の真っただ中の日本で
ガソリンカーが客車と貨車を牽引する
戦前の光景が見られた井笠鉄道

その後は鉄道路線への設備改良投資は行われず、陳腐化しきりの設備に加えて在籍する端端式ガソリンカーによる貨客混合列車牽引という、戦前からの旧態依然のスタイルを踏襲して細々と運行していたとの事である。

そして1969年末頃に、バス事業に転換した自社バス路線と運行系統が被って更なる負債が見込まれるとして鉄道路線の廃止を申請し、2年後の1971年3月末をもって路線廃止となった。 

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最盛期には3路線・総延長37kmの
中国地方随一の軽便鉄道路線だった井笠鉄道
※ 井笠鉄道記念館の展示資料より

井笠鉄道は最盛期には、井原〜神辺の神辺線(11.8kmと北川駅から分岐して矢掛に至る矢掛線(5.8km)を含め3路線・総延長37kmを有していたが、1971年3月末の当線の廃止によって完全消滅したのである。

また、鉄道事業を廃しバス事業に乗り出した井笠鉄道本社も、後に沿線の過疎化と他社バス路線との競合に敗れて、会社破産申請を行って会社解散となった。

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井笠鉄道・本線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線延長:笠岡~井原 19.4km・軌間:762mm
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・閉塞方式:通票閉塞式
駅数:11駅(起終点駅含む)
〔笠岡〕・鬮場(くじば)・大井村・小平井・吉田村・新山・北川・薬師・木之子・七日市・井原

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自社発注の新製ガソリンカーが
戦前からの旧態依然の混合貨車を牽引して

  井笠鉄道・本線 年表
1910年(明治43年)  7月19日   笠岡~井原間19.4kmの敷設免許申請。
           12月  7日   笠岡~井原間の免許認可。
1911年(明治44年)  7月  1日   井原笠岡軽便鉄道設立。
1913年(大正  2年)10月27日   笠岡町〜井原間路線敷設工事完成。
           11月17日   笠岡町〜井原間が開業。 笠岡町・鬮場・大井村・小平井・吉田村・
                新山・北川・薬師・木之子・七日市・井原の各駅を開設。
1915年(大正  4年)11月26日   井笠鉄道に社名変更。
1924年(大正13年)11月27日   笠岡町駅廃止認可申請。 鉄道省山陽本線笠岡駅構内拡張に伴う
                路線乗り入れにより申請。同年11月末日より省線笠岡駅への乗り入れ
                を開始。
1926年(大正15年)  4月19日   鉄道省監督局、井笠鉄道が申請した笠岡町駅廃止申請を「便宜上
                連絡設計変更ノ申請トシテ処理」し、笠岡町を笠岡に改名したもの
                として認可。
1927年(昭和  2年)  3月25日   瓦斯倫(ガソリン)動力併用(笠岡~井原)
1952年(昭和27年)  6月  1日   笠岡~井原で急行運転を開始。 途中停車駅は北川と新山のみ。
                好成績が得られず約半年で中止。
1955年(昭和30年)11月  1日   戦後初の新造気動車であるホジ1形ホジ1~3の竣工。 これに伴い
                蒸気機関車の定期列車運用を休止。
1961年(昭和36年)10月16日   在籍する蒸気機関車全車を用途廃止・除籍し、無煙化完了。
1969年(昭和44年)12月25日   笠岡~井原の廃止許可申請。
1971年(昭和46年)  3月15日   笠岡~井原間の廃止認可。
           4月  1日   全線が廃止。

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最盛期はラッシュ時40分・日中は1時間ヘッドを
実現していた事もあった

  運行形態
開業時は1日6往復で、おおむね2時間から3時間間隔で運転され、所要時間は1時間22分であった。
『軌道自動車』の導入開始時には、従来の蒸気機関車牽引列車の運行本数はそのままに、その間隙を突く形で1日8往復を増発し、この時代の非電化地方私鉄としては異例の高頻度運転(計14往復)を実現している。

だが、戦時中は燃料不足から気動車列車が減便され、1日8往復に抑えられた。 なお、所要時間は1時間9分から1時間11分であった。

戦後の気動車化前は1日に旅客11往復、貨物1往復が設定されていた。 これに対し、気動車化後は1日18往復前後、おおむね朝夕40分毎・日中60分毎の間隔で運転され、気動車の出力向上によるスピードアップもあって所要時間は41分から50分程度に短縮された。

編成は気動車1両+客車1両ないしは2両が基本で、貨物は1968年まで旅客列車に貨車を1両ないしは2両併結した混合列車(最終期には3往復半設定)にて輸送された。 但し、通学時間帯の列車に限っては、客車4両の両端に気動車を各1両連結した6両編成で運転されていた。

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無煙化対策の第一号として発注された
『軌道自動車』と云われた単端式ガソリンカー

  在籍車輌
1913年の開業時には蒸気機関車3両、特等・並等合造客車2両・並等客車4両・有蓋貨車4両、無蓋貨車8両の21両が在籍していた。 この内蒸気機関車3両はドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥル・コッペル社の製品を輸入したもので、これら以外の客貨車18両は全て名古屋の日本車輌製造本店製であった。

その後、輸送量の増大や支線開業に合わせて車両の増備が続いたが、特筆すべきは1927年3月25日より運用を開始したジ1・2と称する、日本車輌製造本店製の小型2軸単端式ガソリン動車である。
当時台頭の兆しを見せていた小型バスをそのまま線路上に乗せたような簡素な外観・構造で、メーカーがそのものずばりの『軌道自動車』と呼称したこの気動車は、高頻度運転によりバスへ対抗する目的で導入された。

この気動車は導入後大きな成功を収め、同年6月には増備車2両が竣工、さらに同年10月22日には軌道自動車乗務車掌廃止特許を申請、つまりワンマン運転を開始するなど、低コストで高頻度運転を実現する手段として絶大な効果を発揮した。

以後、新造および他社からの譲受、あるいは合併した神高鉄道からの編入により気動車の増備が進んだが、これらは戦中戦後の燃料統制で使用困難となり、一部は代燃化されたものの、結局試作要素の多かったボギー車のホジ7~9についてはエンジンを下ろして客車化された。

この際、既存機関車のフル稼働で全運用をまかなったが、これは各機関車に多大な負担を強いるものであった。そのため、戦後、急遽3両の蒸気機関車を購入して運用を代替わりさせた上で、既存機関車の大規模な修繕を順次行っている。

戦後は戦前製気動車のエンジン再搭載によるディーゼル動車化を行い、さらに1955年と1961年の2回に分けて合計5両のディーゼル動車を新造、これにより開業以来の蒸気機関車を全廃した。 1971年3月末当時は、気動車8両・客車10両・貨車10両の28両が在籍していた。

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駅舎を線路と垂直の向きに配し
路線の終着駅を示す井原駅

  路線廃止後
笠岡駅のホームは、1番ホーム北側が井笠鉄道の発着に使用されていた。 その井笠鉄道ホームは撤去され、その後は笠岡駅の関連施設および駐車場として使用されている。

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現在は井笠鉄道の後は全て撤去されて
笠岡駅の駅施設と駐車場となっている

笠岡駅を西側に出発し北側へ大きくRを描いて北上する路線跡は、軌道撤去後にアスファルト舗装されて道路として使用されている。

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交換設備を有する鬮場(くじば)駅
駅舎は割とまともな
木造駅舎が多かったみたいだ
※ 井笠鉄道記念館の展示写真より

井笠鉄道本線の線路跡は、県道34号線の西側に沿って北上していた。 鬮場駅あたりまではそのまま線路跡が道路になっており、自動車で辿る事が出来る。 鬮場駅跡は1980年に放火によって全焼して失われ、現在は笠岡中央病院の老人保健施設となっている。 鬮場駅跡を過ぎると、しばらく北上したのちに県道34号線と平面交差でクロスして、東側に抜ける。 山陽道・笠岡インターチェンジ手前にあった大井村駅は、何も残ってはいない。

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廃屋として現存する小平井駅舎
※『井笠鉄道探索』より

笠岡インターチェンジを北側に抜けると、旧小平井駅の建物がある。 その先で廃線跡は県道48号線と合流している。 笠岡市関戸あたりで、廃線跡は県道48号線から離れて西側に抜け、笠岡市新賀付近では再び県道48号線に合流する。

そのまま笠岡市走出あたりまで北上して、笠岡市立北川小学校の前を西側に県道48号線から離れる。
キューピータマゴ笠岡工場前を通り小田川の南岸を西に進むが、この辺りもアスファルト舗装されて、地元民のための道路として使用されている。 井原市木之子町あたりで、現在の井原線の線路と合流して井原駅に至っていた。

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旧新山駅舎を活用した
井笠鉄道記念館
※ ウィキペディア画像を拝借

  旧新山駅跡の井笠鉄道記念館
井笠鉄道記念館(いかさてつどうきねんかん)は、岡山県笠岡市山口1457-8にある鉄道保存展示施設で、元は井笠鉄道本線の新山駅(にいやまえき)であった。

井笠鉄道の鉄道線のうち、最後まで残った本線も1971年3月31日を限りに運行を取り止めたが、井笠鉄道は数ある軽便鉄道の中でも遅くまで残った為、多くの車両が残されていた。 井笠鉄道の前身である井原笠岡軽便鉄道が創立されてから70周年に当たる1981年を期し、井笠鉄道は旧新山駅舎を流用した『笠鉄道記念館』を設置、残っている車両を保存する事となった。

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記念館ないに保存・展示される
鉄道遺産とも云える
独・コッペル社製の1号蒸気機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

廃止後30年以上経過する現在でも、保存状態は極めて良好である。 廃線当時の新山駅長が館長となり、家族とともに管理していた。 2002年に記念館が産業考古学会の推薦産業遺産に選定・推薦され、また2009年には当記念館館長も産業考古学会の保存功労賞に選ばれた。

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混合列車にしようされた木造客車
も保存展示されている
※ ウィキペディア画像を拝借

しかし、2012年11月に井笠鉄道がバス事業から撤退し事業清算手続に入った事で、同記念館の所有権は井笠鉄道から破産管財人に移り、その管理下に置かれる事になった。 記念館は処分対象資産となって存続の危機に瀕したが、地元からの存続を望む声を受けて、2013年7月に地元の新山地区自治会が記念館の管理を引き受ける意思を示し、笠岡市に建物などを取得するよう求める要望書を提出した。

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保存・展示された車両は
中を見学する事ができる
※ ウィキペディア画像を拝借

市は産業遺産としての資料価値が認められ、地域振興に寄与するとして、2013年8月に記念館の敷地・建物・展示資料の全てを笠岡市が買い取る事で破産管財人と合意し、約180万円で購入して傷みの激しい壁や扉・内装の一部を修繕し、トイレも一新した上で、2014年3月30日に『笠岡市井笠鉄道記念館』としてリニューアルオープンした。 リニューアル後の記念館は笠岡市教育委員会が管理し、運営は笠岡市と新山地区自治会の共同運営となっている。

木造の旧駅舎は建築当時のまま保たれているが、建物前(東側)を通る岡山県道48号笠岡美星線を拡幅した際、建物全体をやや西へ移動させた。 駅舎内にはタブレット閉塞機や往時の写真・切符・沿線観光を織り込んだ路線図・入挟器・レール断面などが展示されている。


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つまり左のパヨクと右の天皇信奉右翼の
目的は『日本国の乗っ取り』と同じだが
隷属支配の手法が異なるってだけなのだ

それに日本を乗っ取ろうとして
日本人を騙す手口も
「日本人の味方のフリ」をする
卑劣極まるものだし

敵対相手や批判先に対しては
チョンの成り済ましそのままに
ファビョって発狂するし
言動の全てが矛盾&ダブスタなのである

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隷属化支配する『日本人民共和国』構想で
ズバリ日本の共産主義化による支配である

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No Subject * by hanagon60
幼かった頃、笠岡駅の一角にボロっちくて可愛い車両を見つけて、あれに乗りたいと親にねだった事を思い出します。
自分にとってはセピア色の光景ですね。
後年、廃線跡を尋ねたのは岡山赴任時の事になりました。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-45.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさん、こんばんは。

お返事遅れてスミマセン。
白馬に行くところが、雪渓の崩壊で八方~五竜になり、さらに一日中の雨で唐松ピストンに三段格落ち変化で不在でしたので。

井笠鉄道の現物をご覧になったのはすこい事ですね。 まるでお伽の国か遊園地ののりものみたいだったですし。 今はじめてこういった鉄道に注目し出した私には羨ましい限りです。

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No Subject

幼かった頃、笠岡駅の一角にボロっちくて可愛い車両を見つけて、あれに乗りたいと親にねだった事を思い出します。
自分にとってはセピア色の光景ですね。
後年、廃線跡を尋ねたのは岡山赴任時の事になりました。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-45.html
2020-09-26 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさん、こんばんは。

お返事遅れてスミマセン。
白馬に行くところが、雪渓の崩壊で八方~五竜になり、さらに一日中の雨で唐松ピストンに三段格落ち変化で不在でしたので。

井笠鉄道の現物をご覧になったのはすこい事ですね。 まるでお伽の国か遊園地ののりものみたいだったですし。 今はじめてこういった鉄道に注目し出した私には羨ましい限りです。
2020-09-28 *  風来梨 [ 編集 ]