2020-09-15 (Tue)✎
廃線鉄道 第34回 漆生線 〔福岡県〕
急速に炭鉱街から福岡郊外の住宅地に
変りつつある沿線状況の中で
不要物として捨てられようとしている
かつての炭鉱鉄道の路線があった
※ 知人からの譲受け
漆生線(うるしおせん)は、福岡県嘉穂郡稲築町(現・嘉麻市)の下鴨生駅から福岡県山田市(同じく現・嘉麻市)の下山田駅までを結んでいた国鉄の鉄道路線(地方交通線)である。 全線が福岡近郊区間に含まれていた。
漆生駅跡公園の駅跡碑にはめ込まれた
『さよなら漆生線』列車の写真
※ ウィキペディア画像を拝借
1980年の国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1986年4月1日に廃止された路線である。 当初は第1次の廃止対象であったが、漆生〜才田のやや才田駅寄りの沿線に建設される住宅団地(大坪団地)によって乗降客の増加が見込まれるとして、第2次廃止対象とされた経緯がある。
なお、第2次特定地方交通線(全31線区)で、最初に廃止された路線でもあった。
漆生線は明治時代に建設された漆生以北と、太平洋戦争後に建設された漆生以南に分かれる。
漆生以北の区間は、三井鉱山山野炭鉱や同漆生炭鉱から産出される石炭の搬出の為に建設されたもので、現在の後藤寺線の区間の一部を含む山野分岐点~芳雄(現在の新飯塚)〜山野の貨物線が1902年に九州鉄道の手により、九州鉄道買収国有化後の1913年には筑豊本線の貨物支線として、上三緒~漆生が開業している。
国策買収した産業セメント鉄道の区間の内
赤坂(後の下鴨生)から三井山野炭鉱のある
山野(後の鴨生)を含む漆生までの区間が
漆生線として独立線区となった
※ 『レトロ駅舎』より
1920年に旅客営業を開始するのと同時に、芳雄~漆生、上三緒~山野が漆生線となった。
1943年には、赤坂(現在の下鴨生)〜起行の産業セメント鉄道が戦時買収され、芳雄~赤坂、上三緒~筑前山野を分離して漆生線に、漆生線区間以外の産業セメント鉄道買収区間と田川線の後藤寺〜起行(貨物支線)と併合して後藤寺線とした。 この時をもって、漆生線は後藤寺線の支線格となっている。
漆生以南が開業し漆生線が全通した頃には
石炭産業が斜陽化し石炭輸送が全くなく
日に僅か4往復の新線開業だった
※『プラットホームの旅』より
漆生以南の区間は、筑豊地区の炭鉱から産出される石炭を苅田港へ効率的に運ぶために計画された短絡線である油須原線の一部として建設された区間で、1966年に上山田線の上山田~豊前川崎間と同時に開業している。
新しいバラストが撒かれ整備された
漆生線区間を走るのは
朝夕3往復の列車のみだった
しかし、同区間では結局貨物営業は実施されず、油須原線の計画自体も石炭産業の斜陽化と共に頓挫した。 旅客列車は上山田線と一体の運行で、開業当時5往復設定された。 しかし、1967年10月ダイヤ改正に上下とも夜の1本が削減されて4往復に、1972年3月ダイヤ改正では下りは午後の1本、上りが夜の1本が1967年10月時点より削減されて上下とも朝2本、夕方1本の運行となって、以後全廃までその状態で推移した。
そのような列車ダイヤであった為、才田駅から通学する小学生は登校時にしか漆生線を利用できず、下校時は西鉄バス(現・西鉄バス筑豊)の大坪団地バス停から2キロ程歩かなくてはならなかった。
唯一列車がホームを埋める
夕方の通勤時でも乗客の姿は見当たらす
※ 知人からの譲受け
炭鉱の閉山の後、このような運行状況で「使えない路線」として見棄てられた漆生線は、上山田線共々1984年に第2次特定地方交通線に指定され、廃止される事となった。 なお、上山田線の廃止は、JR九州に移管された後の1988年9月1日である。
漆生線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
区間(営業キロ):下鴨生〜下山田 7.9km(嘉穂信号場~下山田 の1.7km)は、上山田線と重複)
漆生〜稲築 1.0km
軌間:1067mm・複線区間:全線単線・電化区間:全線非電化・閉塞方式:タブレット閉塞式
駅数:5駅(起終点駅含む 他に信号場1ヶ所と1968年10月まで貨物支線を有し、貨物駅1駅含む)
〔下鴨生〕・鴨生・漆生・才田・〔下山田〕
〔漆生〕・稲築〔貨〕(1968年10月末廃止)・・書類上は支線扱いだが、漆生線・本線は稲築駅の構内を通る形で才田・上山田方面へ延伸している。
かつては『黒ダイヤ』と呼ばれた石炭貨物の
集配ヤード機能を備えていた下鴨生駅
国鉄・漆生線 年表
1902年(明治35年) 6月15日 九州鉄道が山野分岐点~芳雄~山野を開業(マイル設定なし)、
上三緒・山野の各貨物駅を開業
1907年(明治40年) 7月 1日 鉄道国有法により九州鉄道を買収、官設鉄道となる
1908年(明治41年) 3月28日 山野分岐点~芳雄~山野間にマイル設定 (3.1M)
1909年(明治42年)10月12日 国有鉄道線路名称制定により、山野分岐点~山野(3.1M) が筑豊本線
の貨物線となる
1913年(大正 2年) 8月20日 筑豊本線(貨物線)上三緒~漆生間 (2.3M) を延伸開業し、
鴨生・漆生の各貨物駅を開業
1916年(大正 5年) 2月 1日 (貨)赤坂駅を開業
1920年(大正 9年) 5月10日 芳雄~漆生 (5.4M) 及び上三緒~山野(1.3M) で旅客営業を開始、
山野分岐点を芳雄駅構内に併合して芳雄~漆生・上三緒~山野を
漆生線と改称し、上三緒・赤坂・鴨生・漆生・山野の各貨物駅を
一般駅に改める
1921年(大正10年) 9月11日 山野駅を筑前山野駅に改称
1923年(大正12年) 5月21日 漆生〜稲築間 (0.6M) の貨物支線を開業、(貨)稲築駅を開業
1935年(昭和10年) 2月 1日 芳雄駅を新飯塚駅に改称
1940年(昭和15年)12月 1日 稲築駅で荷物営業を開始、一般駅となる
1943年(昭和18年) 6月10日 稲築駅の荷物営業を廃止、再び貨物駅となる
7月 1日 産業セメント鉄道の起行〜赤坂を買収、漆生線の新飯塚~赤坂、
上三緒~筑前山野、田川線の後藤寺〜起行を併せて後藤寺線とし、
漆生線を赤坂〜漆生 (3.6km) および漆生〜稲築 (1.0km) とする
1956年(昭和31年)12月20日 赤坂駅を下鴨生駅に改称
1958年(昭和33年) 7月 油須原線第1工区であった漆生〜下山田間の工事完了
『黒ダイヤ』の威光を思わせる
立派な建付けの漆生駅舎
:
漆生線が全線開業した時は
既に石炭産業が斜陽化していた時だった
1966年(昭和41年) 3月10日 漆生〜下山田 (4.3km) を延伸開業(新線は漆生〜嘉穂信号場 2.6km
で旅客営業のみ。 厳密には漆生〜稲築は貨物線を転用)、
この新線開業に伴い、才田駅および嘉穂信号場を新設
1968年(昭和43年)11月 1日 漆生〜稲築 (1.0km) の路線を廃止、(貨)稲築駅を廃止
1974年(昭和49年) 9月 1日 下鴨生〜漆生 (3.6km) の貨物営業を廃止
1984年(昭和59年) 6月22日 第2次特定地方交通線として廃止承認
1986年(昭和61年) 4月 1日 全線 (7.9km)(実質は下鴨生〜嘉穂信号場 6.2km)を廃止し、
バス路線へ転換
漆生線での石炭輸送の主力を担ったのは
三井山野炭鉱からの石炭輸送だった
※ 筑豊炭鉱史より
輸送実績 ・・福岡県統計年鑑各年度版より
旅客乗車人員〔人〕(1日平均) 発送貨物 石炭〔トン〕(一日平均)
1952年 594,729 (1630人/日) 688,663 (1887トン/日)
1955年 529,153 (1450人/日) 848,331 (2324トン/日)
1960年 499千 (1367人/日) 1,032,339 (2829トン/日)
1963年 486千 (1332人/日) 838,154 (2297トン/日)
漆生線代替バス
廃止の翌日より西鉄バス(現・西鉄バス筑豊)が、飯塚バスセンター~新飯塚駅~上三緒~鴨生口~稲築学校~漆生〜大坪団地(22番系統)を新設して代替輸送を行っていた。 その際、転換交付金により西鉄バス大隈営業所に新車を1台投入している。
その後のこの漆生線代替バス路線は、2003年度末限りで廃止となった。 なお、1992年6月からは旧漆生線の線路跡の整備により、既設の12番系統(飯塚バスセンター~山野~稲築学校~漆生〜大坪団地)が、旧才田駅跡に隣接する新設の稲築才田バス停まで路線を延長している。
廃止後も永らく残っていた嘉穂信号所も
横を通る県道の拡張工事の為に取り壊された
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後の状況
下鴨生駅から鴨生駅、漆生駅、稲築駅を経て、才田駅の手前までは道路になっている。 鴨生駅跡、漆生駅跡はそれぞれ公園として整備されている。 鴨生駅跡公園には踏切や信号機などが保存され、また漆生駅跡公園には公園の壁面に当時の写真が数枚掲示されており、往時を偲ばせている。 稲築駅跡は団地やスロープになっている。
才田駅跡は待合席とホームが残っている。 そこから上山田線との分岐点となる嘉穂信号場までは深い藪の中となるが、橋梁やレールはほとんど残っている。
路線廃止後も永らく残っていた
嘉穂信号場の施設
※『廃線跡をゆく』より
嘉穂信号場跡は近年まで深い藪の中にその建物や廃線跡が残っていたが、並走する福岡県道443号下山田碓井線の拡張工事に伴い建物は取り壊されている。
建物跡付近から一部路盤が残るが、前述の県道と交差する付近からは埋め立てられ、再び県道の一部となった。 嘉穂信号場と下山田駅との間にあった新原トンネルは撤去されて開削されたが、トンネル跡を示す案内板があり、道路向かいのバス停留所に現役時代の貴重な写真が掲示されている。
下山田駅付近は近隣団地の緑地となり、駅跡を示すものはない。 上山田駅跡には1999年3月まで西鉄バス(嘉穂交通)の山田支社(車体標記は○山)が置かれていたが、現在は山田生涯学習館・図書館となっており、庭の中に踏切遮断警報機と上山田駅跡を示す説明板が設置されている。
『乗り鉄』で唯一利用できる
夕方の漆生行の列車から
新飯塚行の列車に乗り換えた際に
漆生線内で唯一下車した駅が漆生駅だった
※ 『屍の駅』より
乗車記
第二次廃止線のトップを切って廃止となった漆生線だが、思いっきり影の薄い路線であり、余程の廃止ローカル線通でないと記憶すら残ってないような路線である。 そういうワテも、ぢ・つ・わ・・この漆生駅は乗り換えをした際に下車したに過ぎず、入場券も買った記憶はあるのだが紛失してしまったようで手元にないのである。
漆生駅で運行形態が分断されていた漆生線は
漆生以南に乗るのが至難の業だった
※ cIyakuwikiより
漆生線の列車は下鴨生方面からの終着駅であったこの漆生駅で運行形態が分断されていて、下鴨生~漆生は1日8往復の運行があったものの、漆生以南は朝2往復、夕方1往復の僅か3往復しかなく、エトランゼである廃止ローカル線の『乗り鉄』がこの路線に乗るとしたなら、夕方の豊前川崎発の上り列車を使う以外に乗車が不可能であった。
なぜなら朝の2往復は、博多・小倉着の【日南】【かいもん】【ながさき】といった夜行列車から乗り継ぐのは不可能であったからだ(もっとも、これら夜行列車も10年くらい前に全て運行廃止となった)。
詳しく述べると、いくら早朝に小倉や博多に着いた所で、漆生線の列車の発車時刻に始発駅の新飯塚まで向かう事が不可能だった為だ。
要するに、この朝に2往復運行される列車に乗るには、新飯塚で一夜を明かす以外に方法がなかった訳で、そして路線の特徴としても炭鉱輸送の経路として建設された路線で目ぼしい炭鉱跡の情景がある訳でもなく、当時の炭坑跡地の団地建設でローカル線でありながら団地が並ぶ沿線の眺め・・など、到底『撮り鉄』のターゲットとはなり得なかった路線だったのである。
この路線での『撮り鉄』は
漆生駅での駅撮り以外は不可能だったろうね
※ cIyakuwikiより
まぁ、それに加えて漆生以南の運行が僅か3往復であるから、ネットを漁ってもせいぜい漆生駅での交換風景以外に写真を見た事がない路線でもある。 そんな訳だから、ローカル線に熱中していた当時のワテも、乗る事だけが精一杯だった訳である。 『撮り鉄』するにしても、8往復区間以外は撮影不能だしィ~。
・・で、その乗車も、エトランゼのローカル線”ハンター”が使える唯一の便である豊前川崎発の上り最終列車以外に無い訳で、それに合わせるべく比較的本数が多く『撮り鉄』可能な上山田線で昼間時間帯を過ごして、上山田駅16:56発の列車に乗る。 この列車の豊前川崎折り返しが、前述した漆生線完乗で”唯一使える”列車なのである。
漆生線の時刻表
漆生以南は上山田線の閑散区間と
共通運用だった事が判る
※ JTBの時刻表より
このように全く”使えない”漆生線であるが、『乗り鉄』に関しては唯一として有利な点があった。
それは、上山田線の運行本数が4往復しかない閑散区間である上山田~豊前川崎の区間と漆生線は、ほぼ共通運用していた・・と言う事である。
だから、乗車が困難な漆生線の3往復区間の乗車は、同じく乗車が困難な上山田線の閑散区間の乗車も同時にできるという事である。 でも、『駅降り鉄』の視点では、全駅下車をするにはこの辺りで1週間の滞在を経なければ不可能でしょうな。
前置きが長くなったが、こういう訳で、この列車には路線完乗目的の『鉄』が結構な数乗っていたのだった。 まぁ、結構な数といっても10~15人であるが・・。 そして、一般の乗客は見た所1人か2人位か。
これが2両のオールロングシート車のキハ30の座席に分散されていた訳である。
・・以降も上山田線の閑散区間から漆生線に乗った時の『路線の思い出』は続くが、この時の漆生線乗車では”キテレツ”な出来事が発生したのである。 その様相は『路線の思い出 第184回 漆生駅』で記載してるので、宜しければ見て下さい。 我に返るとドン引きする内容ですが、結構”キテレツ”で笑えると思います。
漆生線の路線の状況は、この時の”キテレツ”な出来事があった為に、ほとんど見ていない。
唯一記憶にあるのは、炭鉱路線であるもののポッパーなど炭鉱の積み出し施設は見当たらす、周囲は炭鉱とは無関係な団地化されていて、漆生駅や鴨生駅という棄てられた鉄道線・漆生線の駅のみが、かつての『黒ダイヤ』の威光を示すが如く、屋敷のような立派な木造駅舎だった事だろうか。
列車は完全に日も暮れた18:43に漆生駅に到着。 入場券も買ったと思うのだが、家庭の事情で紛失(我が家の黒歴史・・思い返したくもない)して、漆生線の足跡は皆無となってしまった。 後は漆生駅で新飯塚行の列車に乗り換えて、この日は、確か門司港まで出て、駅のベンチで夜を明かしたのを憶えている。
なぜ駅のベンチで夜を明かしたか・・というと、まだ福岡の旧運炭路線の廃止線めぐりが残っていたからである。
現存する旧炭鉱路線の後藤寺線で
唯一の列車交換駅となる下鴨生駅
※ ウィキペディア画像を拝借
下鴨生駅(しもかもおえき)は、福岡県嘉麻市鴨生にあるJR九州・後藤寺線の駅である。
かつては、漆生線が接続していた。 平成の大合併により2006年3月27日に誕生した嘉麻市の唯一の駅であるが、JTB時刻表には代表駅として記されていない。 1956年12月20日に所在地名をとって駅名を『赤坂駅』から現駅名の『下鴨生駅』に変更しているが、駅名に『下』が付いた理由は、隣に漆生線の鴨生駅があった為である。
島式ホーム1面2線を有する駅で、ホームへの移動は構内踏切によって行われている。 かつては、さまざまな線路(漆生線・赤坂炭鉱貨物支線など)が放射状に伸びる貨物のターミナル駅であった。
後藤寺線内では唯一の交換可能駅で、1994年までは交換のための要員が配置され直営駅であった。
石炭輸送で栄えた頃に建てられた
凝った形の駅舎も無駄な維持費の削減
を理由として取っ払われた
※ 『ブラットホームの旅』より
交換自動化(スプリングポイントの設置)に伴って無人駅となり、2004年には独特の形状をした駅舎も取り壊され、旧駅舎に掲げてあった駅名標のみが設置されている。 現在は囲いだけの待合所内に、近距離きっぷの自動券売機が設置されているのみである。
現在は駅舎は取り壊され
囲いのみの待合所だけの駅となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
同駅は福岡県内のJR線で最後のタブレット交換駅だった。 ポイントは新飯塚寄りと田川後藤寺寄りの何れも右分岐が定位となっており、当駅では通例とは逆に右側通行で列車交換が行われている。
かつての庄屋を思わせる
立派な建付けの駅舎を有していた鴨生駅
※ 『プラットホームの旅』より
鴨生駅(かもおえき)は、かつて福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市)鴨生に設置されていた国鉄・漆生線の駅である。 漆生線の廃止に伴い、1986年4月1日に廃駅となった。
単式1面1線の旅客用ホームを有し、山野炭鉱への貨物支線が何本も分岐していた。 業務委託駅で駅員が配置されていた。 木造でひなびた感じのする駅舎があり、駅前広場があった。 かつてあった三井山野炭鉱の玄関駅で、駅東側には石炭積み込みのホッパーが建てられていた。 1973年3月30日に隣接する三井山野炭鉱が閉山すると、急激に路線・地域共に斜陽化した。
三井鉱山でも主力炭鉱だった
鴨生にあった三井山野炭鉱
※ ウィキペディア画像を拝借
三井山野炭鉱が稼働している折はその中心地で、駅周辺には山野炭鉱関連施設や炭鉱住宅が多く建てられたが、1973年の山野炭鉱閉山後は関連施設が解体され、炭鉱住宅も普通の住宅に建て替えられて住宅街となり周囲の人口は少なくなかったが、地域住民の足は主だってバスの利用であった為に、炭鉱閉山後の当駅の利用者は少なかった。
交通公園となった下鴨生駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
戦前の炭鉱最盛期(1935年頃)には、旅客利用者が年間12万4千人(1日当たり340人)、貨物(石炭)輸送量が34.5万トン(1日当たり945トン)の取り扱いがあった。 なお、駅跡は交通公園となっているが、炭鉱跡の施設は全て撤去されている。
旧き良き時代の駅舎だった
漆生線の中心駅・漆生
※ 『プラットホームの旅』より
漆生駅(うるしおえき)は、かつて福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市)漆生に設置されていた国鉄・漆生線の駅である。 漆生線の廃止に伴い、1986年4月1日に廃駅となった。 1923年より支線の廃止となる1968年まで、当駅の手前で稲築までの貨物支線を分岐していた。
当駅は長らく漆生線の終着駅だったが、油須原線構想により1966年に下山田駅(施設上は嘉穂信号場)まで延長され、途中駅となった。 しかしながらほとんどの列車が当駅止まりで、下山田方面への列車は開通から3年後でも4往復、営業末期は朝夕3往復のみと少なかった。
駅舎寄り(左側)の線路は
下蒲生方向とつながっておらず
中途半端な列車交換駅であった漆生駅
※『プラットホームの旅』より
島式ホーム1面2線と複数の側線を有していたが、末期には石炭輸送が無くなった為に側線は放置されていた。 業務委託駅で、『黒ダイヤ』の威光を思わせる立派な木造の駅舎があった。 駅舎からホームへは、通路と構内踏切で連絡していた。 旅客用ホームのうち、駅舎側の1線は下鴨生方面にはつながっておらず、下蒲生方面からの列車とバッティングする夕方の1往復は漆生止まりの折り返しであった。
駅跡は鉄道遺構に乏しい
駅跡公園となっている
※ウィキペディア画像を拝借
現在の駅跡は公園として整備されているが、駅跡を示すものは公園入口にある公園名を表示した石碑に駅跡だった事の説明書きと廃止日のサヨナラ列車の写真が掲示されるのみで、駅跡の遺構は全くない。
ホームの一部と待合所の屋根が
撤去されずに放置された形で
残っている才田駅跡
ウィキペディア画像を拝借
才田駅(さいだえき)は、かつて福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市)才田に設置されていた国鉄・漆生線の駅である。 漆生線の廃止に伴い、1986年(昭和61年)4月1日に廃駅となった。
1面1線の単式ホームを有する棒線構造の駅で、駅舎はなくホームと待合所のみが設置された無人駅であった。 稲築町の南端部に当たり、周囲には田園地帯が広がっていた。 漆生線が油須原線構想に基づいて、延伸された際に新設された唯一のの駅である。
新線として延長開業された漆生以南の区間は
開業した時には石炭産業が斜陽化し
石炭輸送は全く行われず旅客列車が
日に4往復(後に減便され3往復)行き交うのみだった
※『プラットホームの旅』より
漆生線は1つ手前の漆生で上り方面へ折り返す列車が多いダイヤが組まれており、当駅を含む延伸区間に運転される列車は元より少なく、廃駅直前は上下とも朝夕のみ3本づつの運行であった。
駅跡は、ホームの一部と待合所の屋根が撤去されずに放置された形で残っている。 当駅より漆生側の線路跡は道路となっているが、当駅および当駅から下山田側では線路跡とは別の位置に道路が敷設されており、路盤が残ったままである。
上山田線と漆生線という
共に廃止となった路線の
分岐信号所だった嘉穂信号所
※『ブラットホームの旅』より
嘉穂信号場(かほしんごうじょう)は、かつて福岡県嘉穂郡嘉穂町(現・嘉麻市)大字牛隈に設置されていたJR九州・の信号場である。 上山田線と漆生線の施設上の分岐点であったが、1986年4月の漆生線の廃止と共に分岐信号場としての機能を失い、閉塞境界型棒線信号場となった(タブレット交換風景は、上山田線廃止時まで見られた)。
そのため、信号場としてはJR九州に引き継がれた後、1988年9月1日をもって上山田線の廃止と同時に廃止された。 なお、国鉄再建法による特定地方交通線に指定された路線を複数有して、なおかつ分岐点となっていた信号場は、国鉄・JRの路線では当信号場のみであった。
上山田線と漆生線の分岐ポイント
当信号場は、筑豊炭田と苅田港を短絡する目的で計画された油須原線構想に基づいて建設された漆生線の延長部分と、既設の上山田線の接続点に設置された信号場で、両線が下山田駅に向かって合流する配線である。 上山田線大隈駅との距離は1.1km、下山田駅との距離は1.7km、漆生線才田駅との距離は1.1kmであった。
廃止後は20年近くにわたって施設が残っていたが、2008年頃より順次撤去されて、当信号場の跡地は道路化されている。
『黒ダイヤ』の威光を思わせる
豪勢な造りの駅舎だった下山田駅
※『プラットホームの旅』より
下山田駅(しもやまだえき)は、かつて福岡県山田市(現・嘉麻市)下山田463番地に設置されていた国鉄・上山田線・漆生線の駅である。
漆生線は国鉄末期の1986年4月に、上山田線はJR九州に継承された後の1988年9月に廃止され、それに伴い上山田線の廃止日の同日付(1988年9月1日)に廃駅となった。 駅跡地は公園となっている。
その建付けは
昔の村役場のようであった
※『プラットホームの旅』より
単式1面1線のホームを有する業務委託駅であった。 石炭の積み出し駅であった。 駅舎は木造で、石炭輸送で賑わっていた当時に建てられた立派なものであった。
漆生線の分岐駅であったが
漆生線の列車は上山田まで直通していたので
実質は中間駅だった下山田駅
線路名称上は上山田線と漆生線の分岐駅であったが、実際は当駅から1.7km飯塚寄りの嘉穂信号場で分岐しており、漆生線の列車はすべて上山田線の上山田駅方面へ直通運転されていたため、中間駅としての役割しかもっていなかった。
稲築駅(いなつきえき)は、かつて福岡県嘉穂郡稲築町(現:嘉麻市)大字漆生にあった国鉄・漆生線の貨物駅である。 貨物支線の廃線に伴い、1968年11月1日に廃駅となった。
当駅及び当貨物支線は、書類形式上は漆生駅の手前から分岐して漆生線と平行するように延びていていた路線だったが、実際は漆生線の『本線』が稲築駅の構内の東側を通っていたに過ぎなかった。
前回記事バナー下の続き
:
それは密入国してきたチョンのヒトモドキが
「ウリは日王・ヒロヒトによって
連れ去られた被害者ニダ」とホザいて
日本に居座って金品・特権をタカったのに対して
本来ならばヒロヒトをキチンと
戦争責任で処刑・処罰せねば
ならなかったモノを
「日本人の心の拠り所」という甘えで
すべき事から逃げる最大の愚を犯した為に
居座ってタカるチョンどもに
対して示しが着かなくなったのである
即ちチョンの背乗り・のヒロヒトを助命した事で
タカりにくるチョンのヒトモドキの要求を
陰ながら呑まざるを得なくなったのだ
それが今に毒を撒き散らす『在日特権』なのである
だから甘えに逃げずに
チョンの背乗りのヒロヒトを
戦争犯罪の廉でキチンと処刑・処罰する
責任を果たしてさえしていれば
タカってくるチョンのヒトモドキに対して
「おまエラのいう日王・ヒロヒトはキチンと処罰した」
としてこのヒトモドキどもを
全て国外に追い払う事が適ったのである
:
次の記事のバナー下に続く
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No Subject * by 根室大喜
駅らしい建物が羨ましい><;アタイとこなんか貨車
Re: No Subject * by 風来梨
根室大喜さん、こんばんは。
でも、貨車の中にトイレがあるから、駅寝環境は数百倍上ですよ。 しかも!屋内トイレだしィ。 貨車駅で駅寝した事のあるから、本当ですよ。
そして、漆生線の駅は全て突っ払われて屋根無しの公園となってますね。 ここで駅寝すると、お巡りさんに浮浪者として職務質問されるでしょう。
でも、貨車の中にトイレがあるから、駅寝環境は数百倍上ですよ。 しかも!屋内トイレだしィ。 貨車駅で駅寝した事のあるから、本当ですよ。
そして、漆生線の駅は全て突っ払われて屋根無しの公園となってますね。 ここで駅寝すると、お巡りさんに浮浪者として職務質問されるでしょう。
No Subject * by hanagon60
確かに漆生線は非常に乗り難かったです。当時国鉄線全線完乗を目指していたのですが、当時網の目状に走っていた筑豊線群にあって、ここを最優先で計画を組んだと記憶しています。
手元にある当時の時刻表を見返すと、ここには九州北ワイド周遊券利用で、上り夜行鈍行「ながさき」を使って原田~新飯塚経由で漆生線に入り、上山田線も乗り潰しています。
「ながさき」は夜中、肥前山口で下りから上りに乗換えているので、筑豊線内では絶対寝過ごさないように緊張していた記憶があります。
しかし肝心の漆生線内の記憶はまったくないトホホな状態。やはり影が薄い路線だったんですかね。。
手元にある当時の時刻表を見返すと、ここには九州北ワイド周遊券利用で、上り夜行鈍行「ながさき」を使って原田~新飯塚経由で漆生線に入り、上山田線も乗り潰しています。
「ながさき」は夜中、肥前山口で下りから上りに乗換えているので、筑豊線内では絶対寝過ごさないように緊張していた記憶があります。
しかし肝心の漆生線内の記憶はまったくないトホホな状態。やはり影が薄い路線だったんですかね。。
Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
>「ながさき」は夜中、肥前山口で下りから上りに乗換えているので、筑豊線内では絶対寝過ごさないように緊張していた記憶があります。
俗に言う「夜行リバース」ですね。 これは、根性+若さがないと出来ない芸当ですね。 でも、「夜行リバース」でもしないと、西鹿児島(今は鹿児島中央)からの夜行急行の【日南】・【かいもん】では、朝に2本運行される漆生線直通の上山田行きに乗れなかったんですよね。 もう、新飯塚か下山田で駅寝する以外になかったかと記憶してます。
仰る通り、漆生線は影か薄いですね。 サヨナラ列車がヘッドマーク付けて運行した事なんか、この記事を書いてて初めて知ったくらいですから。 そして、漆生線の走行写真を撮った撮り鉄写真も、ネット中を探しましたが見当たりませんね。
>「ながさき」は夜中、肥前山口で下りから上りに乗換えているので、筑豊線内では絶対寝過ごさないように緊張していた記憶があります。
俗に言う「夜行リバース」ですね。 これは、根性+若さがないと出来ない芸当ですね。 でも、「夜行リバース」でもしないと、西鹿児島(今は鹿児島中央)からの夜行急行の【日南】・【かいもん】では、朝に2本運行される漆生線直通の上山田行きに乗れなかったんですよね。 もう、新飯塚か下山田で駅寝する以外になかったかと記憶してます。
仰る通り、漆生線は影か薄いですね。 サヨナラ列車がヘッドマーク付けて運行した事なんか、この記事を書いてて初めて知ったくらいですから。 そして、漆生線の走行写真を撮った撮り鉄写真も、ネット中を探しましたが見当たりませんね。