風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第33回 胆振線 その3 (京極~倶知安)

廃線鉄道  第33回  胆振線 その3 (京極~倶知安) 〔北海道〕

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この記事の為にわざわざ
300円也の有料写真を買っちゃいますた
の第2弾でっす

 〔再掲〕※ 青文字が今回の記事対象区間
胆振線(いぶりせん)は、国鉄が運営していた鉄道路線(地方交通線)である 北海道伊達市(胆振支庁管内)の伊達紋別駅で室蘭本線から分岐し、虻田郡倶知安町(後志支庁管内)の倶知安駅で函館本線に接続していた。 国鉄再建法の制定に伴い、1984年6月に第2次特定地方交通線として路線の廃止が承認され、1986年11月1日に全線廃止となった

胆振線の路線建設の経緯は、軽便鉄道法を準用して建設された京極以北と、私鉄を買収した京極以南に分かれる。 倶知安~京極~脇方は、改正鉄道敷設法制定以前に軽便鉄道法により計画された路線で、1919年から翌年にかけて京極軽便線によって開通している。 その後、1922年の軽便鉄道法の廃止によって、この区間の路線名は京極軽便線より京極線に改称されている。

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京極駅に到着する胆振線列車
この先より脇方支線が
分岐していたのでしょうかね

なお、1920年に敷設された京極~脇方の京極支線区間は、1898年に脇方で発見された褐鉄鉱床の鉄山・倶知安鉱山からの鉱石輸送が建設目的である。 

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胆振線建設の最大の目的は
この鉱山よりの鉄鉱石の搬出であった
※ ウィキペディア画像を拝借

京極以南は、鉄道敷設法別表第131号に規定する予定線「膽(胆)振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈至ル鐵道」に沿い、京極線の延長の形で胆振鉄道が建設し、1928年に喜茂別(初代・後に線路付け替えにより駅移転)まで開業した。

1940年には、胆振縦貫鉄道によって伊達紋別~徳瞬瞥(とくしゅんべつ=後の新大滝)が開業し、翌年には胆振鉄道を合併、そして西喜茂別(後の喜茂別)まで延伸され、伊達紋別~京極間が全通した。

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基線農道の踏切を渡る胆振線列車
※ 『プラットホームの旅』より

1944年には胆振縦貫鉄道が戦時買収され、京極線と合わせて胆振線となっている。 事が合わさるように、戦時買収前日の6月30日の夜頃から昭和新山が噴火し始める。 この噴火によって沿線一帯が激しい隆起に見舞われたが、戦時の鉄鉱石輸送という路線の使命上、列車の運行を休止させる事もできず、各地から保線区員を集めて迂回鉄路を引き直し続けた。 結局、昭和新山の噴火が終息を迎える頃には、元々の鉄路があった場所は山の中腹に位置するほど地形は変化したが、列車の運行を休止する事はなかった。

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羊蹄山たけでなく
ニセコアンヌプリが望める
撮影場所もあったという
・・逃した魚は大きいよ

1940年の胆振線全通によって枝線となった京極~脇方間については、鉱山の閉山により輸送量が減少し、赤字83線には含まれなかったものの、その取組みの中で1970年に廃止されている

残った伊達紋別~倶知安間についても、1980年に国鉄再建法が成立すると、有珠山噴火による運休があった1977年度を含む1979年度までの3か年の輸送密度を元に、第2次特定地方交通線に指定された。
そして、1986年10月31日の旅客営業を以って全線廃止となり、道南バスのバス路線に転換された。

改正鉄道敷設法には、京極から留寿都を経て壮瞥に至る鉄道(別表第132号)も規定されていたが、こちらは全くの未着手に終わった。 この区間には、 国鉄バス(伊達線)が京極駅~豊浦駅間に運行されていたが廃止されている。

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胆振線(京極~倶知安)の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
 青文字が今回の記事対象区間内の駅
区間(営業キロ):伊達紋別~倶知安 83.0km(1986年10月31日廃止)
         京極~脇方 7.5km(1970年10月31日廃止)
軌間:1067mm・複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・
閉塞方式:タブレット閉塞式
駅数:22(起終点駅含む)
〔伊達紋別〕・上長和・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・優徳・新大滝・
尾路園〔仮〕1985年末頃自然消滅・御園・北鈴川・喜茂別・留産・南京極・東京極・京極・北岡・
寒別・参郷・六郷・〔倶知安〕
脇方支線:〔京極〕・脇方
交換可能駅:5 久保内、新大滝、御園、喜茂別、京極
廃止時の簡易委託駅:8 久保内、蟠渓、北湯沢、優徳、御園、南京極、東京極、寒別

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里から国境の山を越えて海の見える街に・・
日本の四季風景を堪能できた路線・胆振線

   国鉄・胆振線 年表  青文字が今回の記事対象区間
脇方の倶知安鉱山は1916年に三井鉱山の所有となり、さらに1918年4月に三井が出資する室蘭の北海道製鐵(旧・輪西製鐵所、現・日本製鉄室蘭製鉄所)へ譲渡し、同年11月1日に開山した。 当時推定鉱量1,000万tと言われた同鉱山への国家的な期待は大きく、当線が建設される主要動機となった。

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趣のある旧字体の駅名標
※ まとめサイトの画像を拝借

  倶知安 - 脇方(京極線)
1919年(大正  8年)11月15日  倶知安~京極 (13.4 km) を京極軽便線として新規開業。
               六郷駅・寒別駅・京極駅を新設。
1920年(大正  9年)  7月15日  京極~脇方 (7.5 km) を日本製鋼所が敷設し、全線を鉄道院に寄付
               して開業。 脇方駅を新設。
1922年(大正11年)  9月  2日  京極線と改称。

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東京極駅を発つ胆振線普通列車
これも300円也の
有料写真だったりして

  京極 - 喜茂別(胆振鉄道)
1928年(昭和  3年)10月21日  胆振鉄道が京極~喜茂別 (11.0 km) を開業。
               川上温泉停留場(後の南京極)・留産駅・喜茂別駅を新設。
1931年(昭和6年)   6月25日   東倶知安停留場(後の東京極)を新設。

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背後には羊蹄山の裾野に展開する
ルスツリゾートがあるが
胆振線に利用客を誘引するモノではなかった

  伊達紋別 - 西喜茂別間(胆振縦貫鉄道)
1940年(昭和15年)12月15日   胆振縦貫鉄道が伊達紋別~徳瞬瞥間 (35.0 km) を開業。
                上長流停留場(後の上長和)・壮瞥駅・久保内駅・蟠渓駅・
                優園停留場(後の北湯沢)・優徳駅・徳舜瞥駅(後の新大滝)を新設。
1941年(昭和16年)  9月27日   胆振縦貫鉄道が胆振鉄道を合併。 東倶知安停留場を東京極駅に改称。
           10月12日   徳瞬瞥~西喜茂別(後の喜茂別駅)(24.2 km) を延伸し、全線開業。
                西喜茂別~喜茂別間 (0.7 km) の旅客営業を廃止。
                尾路遠停留場・御園駅・北鈴川駅・西喜茂別駅(後の喜茂別駅)を新設。
                喜茂別を一般駅から貨物駅に変更。
1943年(昭和18年)12月頃   この頃から昭和新山の火山活動により、壮瞥村(当時)の地盤が
                隆起を始め、上長流〜壮瞥間でたびたび線路が崩壊。
                保線と新線建設が、火山活動の終了まで繰り返される。

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倶知安駅を発車して
胆振線に向けて進んでいく列車

  胆振縦貫鉄道買収後
1944年(昭和19年)  7月  1日   胆振縦貫鉄道の伊達紋別~京極、西喜茂別~喜茂別を買収・国有化し、
                これに京極線を編入して胆振線(伊達紋別~倶知安・京極~脇方)
                とする。 西喜茂別~喜茂別 (0.7 km) を廃止し、喜茂別駅
               (旧西喜茂別駅)構内に併合。 優園駅を北湯沢駅に、川上温泉駅を
                 南京極駅に、西喜茂別駅を喜茂別駅に改称。 東京極駅を廃止。
                 尾路遠を駅から仮乗降場に改める。
1952年(昭和27年)11月15日    徳舜瞥駅を新大滝駅に改称。
1959年(昭和34年)10月  1日    上長流を上長和駅に改称。
1960年(昭和35年)10月  1日  北岡駅・参郷駅を新設。
1962年(昭和37年)12月17日    東京極駅を新設。

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脇方支線の遺構として残る
ワッカタサップ川橋梁の橋台

1970年(昭和45年)11月  1日    京極~脇方 (7.5km) を廃止。 これに伴い、脇方駅を廃止。
1977年(昭和52年)  8月  7日   有珠山の噴火により、伊達紋別~新大滝の運転を見合わせ。
           8月 15日   久保内~新大滝の運転が再開。
           9月 30日   完全復旧。
1984年(昭和59年)  6月 22日   第2次特定地方交通線として廃止承認。
1985年(昭和60年)        尾路遠仮乗降場を廃止。
1986年(昭和61年)11月   1日   全線 (83.0 km) を廃止し、道南バスのバス路線に転換。

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胆振線時刻表
※ JTB時刻表より

  運行形態 ※ 青文字が今回の記事対象区間
路線廃止前(1986年3月3日改正)のダイヤ改正時点では、全線通しの列車のほかに伊達紋別 ~久保内・伊達紋別~新大滝・御園~倶知安といった区間列車があった。 新大滝~御園は胆振支庁と後志支庁の境となり、人口も特に稀薄な為に、この区間での運行便数は少なくなっていた。

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札幌発札幌行・・
これぞ循環急行の証

  札幌から胆振線を経由して札幌に戻っていた循環急行【いぶり】
    ※ 青文字が今回の記事対象区間
胆振線には、路線廃止が表題に挙がり始めた1980年10月のダイヤ改正まで、札幌発着で循環運転を行う準急・急行【いぶり】が運行されていた。 運転されていた経路は、千歳線~室蘭本線~胆振線~函館本線経由で、キハ22形気動車を使用していた。

その歴史は、1962年10月1日より臨時の準急列車として内回り便(札幌→倶知安→伊達紋別→札幌の方向)のみが設定される。 これは単行運転で、土曜・日曜日のみの運行であった。 1年後の1963年10月1日に、内回り便が定期化される。 同時に外回り便(札幌→伊達紋別→倶知安→札幌の方向)の運転も開始された。

この当時は、準急【えりも】(札幌~様似)、準急【ちとせ】(札幌~室蘭)と併結して札幌を出発し、札幌~苫小牧が3階建て列車、苫小牧~東室蘭が2階建て列車、そして【いぶり】単独で胆振線を通過後、倶知安~札幌で準急【ニセコ】(蘭越・岩内~札幌)と連結された2階建て、小沢よりは岩内線・岩内からの準急【らいでん】も併結して、小沢~札幌は3階建て列車として運転されていた。

1965年10月 からは【ちとせ】・【えりも】に加えて、札幌~伊達紋別で準急【とうや】(札幌~洞爺)との連結も開始し、札幌~苫小牧は4階建て、苫小牧~東室蘭は3階建て、東室蘭 - 伊達紋別は2階建て列車となった。

1966年3月5日のダイヤ改正で、急行に格上げとなる。 1967年10月のダイヤ改正で、倶知安~札幌で連結する相手が【ニセコ】から【らいでん】に変更されるが、運転区間はそれまで通りであった。
これは急行【ニセコ】が函館発着に変更され、【ニセコ】旧来の運行区間(蘭越・岩内~札幌)が、急行【らいでん】として割り当てられた為である。

1972年3月のダイヤ改正で、豊浦駅・洞爺駅~札幌を運行していた【とうや】が、【ちとせ】の一部列車による延長運転として統合されるが、運転区間は従来通りだった。 そして、1980年10月1日のダイヤ改正で運行廃止となった。

廃止時の停車駅は以下の通りであった。
札幌・千歳・苫小牧・白老・登別・東室蘭・本輪西・伊達紋別・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・
新大滝・御園・喜茂別・京極・倶知安・小沢・余市・小樽・札幌

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代替バスでも乗客の少ない
国境部分は撤退がありうる
※ ウィキペディア画像を拝借

  胆振線代替バス ※ 青文字が今回の記事対象区間
路線廃止となった胆振線の代替バスは、道南バスが鉄道代替バス路線として運行している。 
2019年10月1日のバス時刻改正時点で、伊達駅前(伊達紋別駅)〜倶知安駅前を通しで運行する便が1日3往復設定されているほか、伊達〜大滝、倶知安~喜茂別に区間便が設定されている。

かつては倶知安駅・喜茂別~鈴川(北鈴川駅)〜御園(御園駅)の系統も存在していたが、2014年に鈴川~御園間の運行補助が打ち切りとなり、2014年10月1日のダイヤ改正をもって同区間は路線廃止となった。 なお、伊達駅前から倶知安駅前の通し系統は、従前より御園には乗り入れていない(御薗駅周辺は経由しない)。

道南バスが運行から撤退した喜茂別~御園は、地元自治体である喜茂別町が2015年6月1日より運行を開始した町営バス〔ウサパラ号〕の『第1ルート』の中に組み込まれる形で運行再開されて現在に至っている。

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京極駅に停車する列車と
蝦夷富士・羊蹄山
※ まとめサイトの画像を拝借

   乗車記(京極~倶知安)
    ※ スンマセン・・ 新たな記事内容はこの項目以降と掲載写真のみのようです。
京極は両端の伊達紋別・倶知安の市・町を覗けば、沿線最大の町だ。 沿線最大といっても、人口3000人足らずと喜茂別町や壮瞥町と「どんぐりの背比べ」の比較ではあるが。

そして、この駅からは1969年の日鉄・倶知安鉱山の閉山に伴って翌1970年に廃止となった脇方支線(京極~脇方 7.5km)が分岐していた。 そもそも、この胆振線の建設の主目的は、この日鉄・倶知安鉱山から採掘された褐色鉱石(鉄鉱石)の輸送の為であり、この鉱山を始めとした沿線の鉱山の閉山によって、廃止となる路線の趨勢は決していたのかもしれない。

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ワッカタサップ川に架かっていた
橋梁の橋台が残っていた
※ ウィキペディア画像を拝借

なお、脇方駅の跡は自然回帰が進行しているようで、駅だった遺構は皆無だが、『日鉄・倶知安鉱山』であった事を示す石碑や、脇方までの途中でワッカタサップ川を渡っていた橋梁の橋台などの鉄道遺構が残っている。

その京極駅では、1980年10月まで運行していた札幌起点の循環急行【いぶり】号の内回りと外回りの列車交換があった駅である。 京極を出ると、程なくビート畑に囲まれた中をゆく北海道らしい車窓風景となる。 喜茂別や留産の辺りでは正面かやや前方にそびえていた羊蹄山が、後方の振り向く位置でそびえ、列車が北上している事が判る。

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一面に広がるビート畑と羊蹄山と・・
この情景が撮りたかった・・
思い返すと今でも悔しくてたまらない

胆振線の代替道路となる国道276号線は畑作地帯を避けて森の中を突っ切るのに対して、胆振線は広大なビートの畑作地帯にある小集落を経由していく。 その小集落に設けられた駅が北岡である。
この駅周辺での「ビート畑の中にポツンとある農道踏切から羊蹄山を入れた」アングルは、路線廃止となった今・・、ワテの撮りたかった情景の1シーンとして頭の中で思い返したりするのである。

京極から分かれて森の中を縫うように通じている国道276号線が、再び寄り添ってくると寒別に着く。
駅には有人駅だった頃からの木造駅舎が建ち、駅舎と駅の入口は国道に沿った集落に面していた。
一方反対側は北岡から続く一面のビート畑だった。 なので、駅ホームに立つと、広大なビート畑の丘が続く北海道らしい情景が望めた。

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雪に埋もれた
寒別駅ホームと胆振線列車
駅撮りだけでも魅かれる写真ですね
撮りたかったなぁ

寒別からは国道とビート畑に挟まれた中をゆく。 やがて碁盤の目の縦方向に延びる基線農道の三号道路が近づくと参郷に着く。 この駅も周囲は国道沿いの小集落とビート畑だ。 この駅の『参郷』は、この基線道路・三号道路付近にある地名『三号』から文字を変えたモノとの事である。

参郷駅を出るとすぐに三号道路を踏切で跨ぎ、すぐに国道276号も跨いで倶知安方向へ延びる国道の上手(北東)側を行くようになる。 周囲の情景は一面のビート畑から水田地帯に変わり、また倶知安の市街地に近づいていく為か、倶知安に近づくにつれて住宅が増えていく。

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参郷を出ると倶知安の市街地に建つ
住宅が見えてきてヤマから
里に下りた事が実感できる

程なく、倶知安町の市街地の端に位置する六郷に着く。 この駅も参郷駅と同じく、基線道路・六号道路に位置する『六号』という地名の字を換えたモノである。 後は倶知安町の市街地の北端を周り込む感じて進んでいき、小沢(札幌)方面からくる函館本線と合流して、倶知安駅の駅母屋寄りの1番線に到着する。
母屋寄りの1番線は胆振線専用ホームで、胆振線が廃止となってからは線路が剥がされて、駅としてはメインのホームに線路が存在しない憐れな姿となっている。



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在りし日の京極駅
元は『京極農場』の農場原野だった為か
沿線最大の駅にしては周囲に住宅地が見当たらず
駅舎も広々とした敷地に建てられた農場事務所のようだった

京極駅(きょうごくえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡京極町字京極にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。 1981年度の1日乗降客数は254人との事。

廃止時点で単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する駅で、列車交換可能な駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と対向ホーム南東側を結んだ構内踏切で連絡していた。
駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、島式ホーム(東側)駅舎側が上りの2番線、外側が3番線(但し1983年時点では側線扱い)となっていた。 その他、1番線の倶知安方から分岐し、駅舎横までの行き止まりの側線を1線有していた。

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貨物列車の長い編成との交換を意識した
千鳥配置の駅だった京極駅

1970年までは脇方駅に至る支線の接続駅で、駅の南方で分岐していた。 業務委託駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置し、単式ホームに接していた。

駅名の由来は町名の由来に準じている。 それは1895年の末に、四国の旧丸亀藩主家であった京極高徳子爵の入植によってこの地に『京極農場』が開かれ、この農場を中心に周辺に多くの開拓農場が開かれて、徐々に発展していった、 やがて京極農場』は市街地を形成するに至り、1903年に北海道庁が新市街地として京極農場の一部返還を求め、通称『東倶知安』市街地が形成された。

1910年の倶知安村からの分村の際に、この市街地名を冠して『東倶知安村』となったが、行政的には市街地や当駅付近は、付近の川名から採った『字ワッカタサップ』であった。 一方の当駅は、本村の先駆者である京極子爵の名前を採って、地名とは全く無関係に『京極駅』と名付けられた。 この駅の命名で、一部の村民から「村長と京極農場管理人の専横である」との強烈な反対運動が起こったエピソードがある。

後に東倶知安駅(後の東京極駅)が開設されると、その開設された隣駅を村の中心地と誤解して当駅で乗り換え、村はずれの隣駅向かう人が多くなったなどの混乱を生じた為、1940年になって村名を京極村と改正したという、駅名が行政地名より先に命名された町史に準じている。

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京極駅跡の敷地は
農協の貯蔵施設となり
更に殺風景な建物となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡は、農協の貯蔵施設の敷地となっている。 当駅跡から倶知安方に行った所に、『ガル川隧道』と呼ばれたトンネルの石積みの坑口が、コンクリートで封鎖されながらも残存しているとの事。




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胆振線の停留所規格の駅は
統一規格でこのような駅構造だったようだ

北岡駅(きたおかえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡京極町字北岡にあった国鉄・胆振線の駅(廃駅)である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日乗降客数は8人との事。

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっていて駅舎は無かったが、出入口附近に待合所を有した。 ホーム東側の出入口は階段となっていた。 駅名は、当駅の所在する地名からとの事である。

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ビート畑の中にポツンと残る
北岡駅で使われていた待合所
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡はビート畑の中に待合所のみが残存しており、農具用の物置として使用されている。
線路跡は、周囲の畑に取り込まれるように編入されている。 附近の道路には、踏切の跡が残っている。



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元は有人駅だった寒別駅
廃線を控えた末期に交換設備が撤去されて
倶知安~京極が1閉塞区間となってしまった

寒別駅(かんべつえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町字寒別にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日乗降客数は26人との事。

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 かつては相対式ホーム2面2線を有する、列車交換可能な駅であった。 使われなくなった1線は、交換設備運用廃止後に線路・ホーム共に撤去されていた。

無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北東側に位置し、ホーム東側に接していた。 駅名の由来は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「ヌプリ・カウン・ベツ」(山のうえに入っていく川)に由来し、その前半の「ヌプリ」が省略されたものである。

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ホーム跡の石垣だけが
放置されて残像しているようだ
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡は周囲のビート畑に取り込まれるように編入されているが、ホーム跡の石垣のみが残存放置されている。



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北岡と同じく停留所規格の駅が
畑の中にポツンとあった参郷駅

参郷駅(さんごうえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町字八幡にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日乗降客数は26人との事。

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。

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参郷駅の当て字はの出自は
「基線農道3号線」からなんですね
事実を知るとやや興醒め
※ 『プラットホームの旅』より

無人駅となっており、駅舎は無いがホームの出入口附近に簡素な待合所を有していた。 ホームはコンクリート製の短いもので、西側の出入口は階段となっていた。 駅名の由来は、当駅が所在した周辺の地名からで、『三号線』の文字を当て換えたものである。

駅跡は全て撤去されて、痕跡は何も残っていない。 また、六郷駅跡~寒別駅跡の線路跡も水田やビート畑に取り込まれて、駅跡同様に痕跡は何も残っていない。 駅跡近辺にある線路跡と道路の踏切跡には、警報機の土台が残されている他に、線路のスペースを埋め立てた痕跡も見られる。



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市街地近くまで下ってきて
駅住所も碁盤目を現わす
北4条東8丁目となった六合駅

六郷駅(ろくごうえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町北4条東8丁目にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日乗降客数は10人との事。

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 かつては、相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な駅であった。 使われなくなった1線は、交換設備運用廃止後に線路・ホーム共に撤去されていた。

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道路側から見ると窓もなく
倉庫的な造りだった六郷駅舎

無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の南西側に位置し、ホーム中央部分に接していた。 無人化後は正面の事務室部分の窓は板材が打ち付けられ、閉鎖されていた。
駅名の由来は隣りの参郷と同じく、開設時の所在地が倶知安町6号線であった事に由来する。

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六郷駅跡のみ
記念公園として整備されている
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡は記念公園として整備され、車止め付きのレールとホーム・駅名標が設置され、ホームに横付けする形で国鉄の旧型客車と貨物用の車掌車の2両が静態保存・展示されている。

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公園用に造られた模擬ホームに
旧国鉄型客車と貨物用車掌車が
静態保存されている
※ まとめサイトの画像を拝借

また、胆振線を行き交った蒸気機関車の動輪も記念碑として展示されている。
踏切警報機付きの踏切も再現されている。 車輌はパークゴルフの休憩場に利用され、乗車可能である。

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展示されている旧型客車は
公園内の休憩所として
車内が解放されている
※ まとめサイトの画像を拝借

だが、駅舎は残っておらず、今公園内に設置されているホームは模擬のモノである。
この記念公園は、胆振線沿線で唯一の記念施設である。

h33-rg (8)
駅跡が公園整備されたのは
この六郷駅のみだ
※ ウィキペディア画像を拝借

なお、本当の駅の位置は公園の西側であり、ホームが雑草に埋もれているものの現存しているとの事である。



h33-om (1)
シンカンセンの機運を盛り上げるべく
お色直しをした倶知安駅舎
シンカンセンの幻想を夢見るのはいいけど
旅客シェアほぼゼロの現実も
見なけりゃならないと思うけど
※ ウィキペディア画像を拝借

倶知安駅(くっちゃんえき)は、北海道虻田郡倶知安町南3条西4丁目3にあるJR北海道・函館本線の駅である。 1904年10月15日に、北海道鉄道(初代、現在の函館本線)の駅として開設された函館本線の主要駅である。 1919年11月15日に京極軽便線(後の胆振線)が開通すると、両路線の分岐駅となった。

元々は、駅舎寄りに単式ホーム1面と島式ホーム2面の計2面3線を有する駅であったが、胆振線廃止に伴い駅舎側の単式ホーム(1番のりば)を撤去し、2・3番のりばのみの1面2線島式ホームとなっている。
その他、構内に留置線がある。 ホーム間の移動は跨線橋で行なう。 

h33-om (2)
シンカンセンに浮かれて表を綺麗に改装しても
かつてあった母屋寄りの
胆振線ホームが取っ払われた裏側は
駅として病的な状態だと思うよ
※ ウィキペディア画像を拝借

かつては、倶知安機関区が設置されていたが1974年12月に廃止となり、1986年11月1日のダイヤ改正時に、函館本線の長万部~小樽からの特急【北海】、急行【ニセコ】・【らいでん】など優等列車の設定がなくなり、胆振線も廃止となった。

社員配置駅であり、管理駅として小沢~目名間の各駅を管理下に置いている。 駅舎内にはみどりの窓口・自動券売機・旅行相談室がある。 駅構内では、夜間滞泊が行われている。 かつては清水立売商会が、立ち食いそば屋『倶知安そば』と共に駅弁を調整し構内売店やホーム立売りなどで販売していたが、駅弁は1990年代に販売を終了している。 その後は『倶知安そば』とキヨスクが駅舎内に残ったが、『倶知安そば』は2010年3月、キヨスクは2015年に閉店している。

2031年度の新函館北斗~札幌の北海道新幹線延伸開業に伴い、駅の設置が予定されている。 
開業後は1日辺りの利用者数が1500人になると想定されているが、そんなに甘いモノではなく、更に拡充する高速道路網と今やシーズン中の値引きなど、所要時間はおろか運賃でも格安となる旅客機に旅客シェアのほぼ全てを奪われて、更に赤字で窮乏するとの意見が識者の大半を占めているとの事。

北海道新幹線の札幌方面延伸の際に、当初は地上に線路が敷設される計画となっていたが、北海道と倶知安町は市街地の分断を避ける為、2016年7月に延伸建設に先がけての駅と周辺1.3 kmの高架化を決定した。 高架化が完成すると、相対式ホーム2面2線の高架駅となる予定である。 この事で、在来線の側に新幹線の高架ホームが設けられる、地方の新幹線設置駅と同じタイプの駅構造となる見込みである。



h33-wk (3)
駅ホームの残骸かも
でも違うだろうね
場所的にはこの辺に脇方駅が
あったそうだけど
※ 廃墟探訪サイトより拝借

脇方駅(わきかたえき)は、北海道虻田郡京極町字脇方にあった国鉄・胆振線の脇方支線の駅である。
国有鉄道・京極軽便線(1922年に京極線に線名改称)の終着駅として1920年に開業した駅で、胆振線建設の主目的である倶知安鉱山から産出する鉄鉱石の輸送の為に設置された駅である。 駅名の由来は、近隣を流れるワッカタサップ川の前半部を当て字にしたものからとの事。

その後、1928年より京極~喜茂別の延伸開業となると、京極~脇方の区間は脇方支線となる。
なお、喜茂別方面への延伸線と伊達紋別からの延伸線が徳瞬別(後の新大滝)でつながって、胆振線が全線開通するのは1941年の事である。

しかし、1969年に倶知安鉱山が閉山すると客貨ともに輸送量が激減し、赤字83線廃止の取り組みの中で、1970年10月末をもって補器方支線の廃止に伴って廃駅となった。

h33-wk (1)
駅跡が道道784号の起点となるのだが
その駅跡は自然回帰によって原野となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

路線廃止後の駅跡周辺は、道道784号黒橋京極線の起点になっている。 路線廃止後半世紀がたった今、駅周辺は自然回帰が進んで北海道開拓前の姿に戻りつつある。


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No Subject * by 鳳山
胆振線って胆振長者と関係あると思い込んでググったらまったく別の話でした。あっちは岩手県と秋田県にまたがる伝説でした。それにしても北海道の旅、私も行ってみたいですね。

Re: No Subject * by  風来梨
鳳山さん、こんばんは。

私は、秋田の鹿角市煮に伝わる「だんぶり長者」の話は初めて知りました。 ハッピーエンド系のいいお話のようですね。

この胆振線は、北海道・後志の国から胆振の国へ向かっていく路線で、建設理由は京極・喜茂別・大滝村といった所にある褐色鉄鉱山からの鉄鉱石の採掘と搬出だったのですね。

北海道の場合は、森林資源が鉱山資源の搬出が目的の開拓路線がほとんどですね。

No Subject * by hanagon60
胆振線は道内においては地味な路線でしたかねぇ?
まだ函館発札幌行きの夜行鈍行があった頃、その列車を小沢で降りて岩内線往復後、倶知安に移動して乗った事は覚えているのですが、線内の記憶はほとんど残っておりません。。
先人は苦労して北海道を開拓していかれたのでしょうが、おっしゃるとおり、近年は人が離れていき元の自然に回帰していっているのでしょう。切なさを感じてしまいます。

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさん、こんばんは。

この胆振線は、興浜南北や美幸線などの一次廃止線優先主義の犠牲となって、満足に舞われなかった悔いを残してますね。 一次廃止線に乘れなかったローカル線通にしたら、贅沢過ぎる悔いなのでしょうけれど、真剣に今でも悔しく思いますね。

羊蹄山バックで撮りたかったなぁ。

コメント






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No Subject

胆振線って胆振長者と関係あると思い込んでググったらまったく別の話でした。あっちは岩手県と秋田県にまたがる伝説でした。それにしても北海道の旅、私も行ってみたいですね。
2020-09-09 * 鳳山 [ 編集 ]

Re: No Subject

鳳山さん、こんばんは。

私は、秋田の鹿角市煮に伝わる「だんぶり長者」の話は初めて知りました。 ハッピーエンド系のいいお話のようですね。

この胆振線は、北海道・後志の国から胆振の国へ向かっていく路線で、建設理由は京極・喜茂別・大滝村といった所にある褐色鉄鉱山からの鉄鉱石の採掘と搬出だったのですね。

北海道の場合は、森林資源が鉱山資源の搬出が目的の開拓路線がほとんどですね。
2020-09-09 *  風来梨 [ 編集 ]

No Subject

胆振線は道内においては地味な路線でしたかねぇ?
まだ函館発札幌行きの夜行鈍行があった頃、その列車を小沢で降りて岩内線往復後、倶知安に移動して乗った事は覚えているのですが、線内の記憶はほとんど残っておりません。。
先人は苦労して北海道を開拓していかれたのでしょうが、おっしゃるとおり、近年は人が離れていき元の自然に回帰していっているのでしょう。切なさを感じてしまいます。
2020-09-11 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさん、こんばんは。

この胆振線は、興浜南北や美幸線などの一次廃止線優先主義の犠牲となって、満足に舞われなかった悔いを残してますね。 一次廃止線に乘れなかったローカル線通にしたら、贅沢過ぎる悔いなのでしょうけれど、真剣に今でも悔しく思いますね。

羊蹄山バックで撮りたかったなぁ。
2020-09-13 *  風来梨 [ 編集 ]