2020-08-29 (Sat)✎
廃線鉄道 第32回 胆振線 その2 (新大滝~京極) 〔北海道〕
羊蹄山バックで撮りたかった
撮れなくなってから悔いる・・
それはタワケにしたって同じ
っていうか後悔は人一倍強いよ
※ まとめサイトの画像を拝借
〔再掲〕※ 青文字が今回の記事対象区間
胆振線(いぶりせん)は、国鉄が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。 北海道伊達市(胆振支庁管内)の伊達紋別駅で室蘭本線から分岐し、虻田郡倶知安町(後志支庁管内)の倶知安駅で函館本線に接続していた。 国鉄再建法の制定に伴い、1984年6月に第2次特定地方交通線として路線の廃止が承認され、1986年11月1日に全線廃止となった。
胆振線の路線建設の経緯は、軽便鉄道法を準用して建設された京極以北と、私鉄を買収した京極以南に分かれる。 倶知安~京極~脇方は、改正鉄道敷設法制定以前に軽便鉄道法により計画された路線で、1919年から翌年にかけて京極軽便線によって開通している。 その後、1922年の軽便鉄道法の廃止によって、この区間の路線名は京極軽便線より京極線に改称されている。
なお、1920年に敷設された京極~脇方の京極支線区間は、1898年に脇方で発見された褐鉄鉱床の鉄山・倶知安鉱山からの鉱石輸送が建設目的である。
京極以南は、鉄道敷設法別表第131号に規定する予定線「膽(胆)振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈至ル鐵道」に沿い、京極線の延長の形で胆振鉄道が建設し、1928年に喜茂別(初代・後に線路付け替えにより駅移転)まで開業した。
1940年には、胆振縦貫鉄道によって伊達紋別~徳瞬瞥(とくしゅんべつ=後の新大滝)が開業し、翌年には胆振鉄道を合併、そして西喜茂別(後の喜茂別)まで延伸され、伊達紋別~京極間が全通した。
留産付近をゆく胆振線列車
定番の羊蹄山は現れる事が稀で
スカの時が大半だったそうである
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
1944年には胆振縦貫鉄道が戦時買収され、京極線と合わせて胆振線となっている。 事が合わさるように、戦時買収前日の6月30日の夜頃から昭和新山が噴火し始める。 この噴火によって沿線一帯が激しい隆起に見舞われたが、戦時の鉄鉱石輸送という路線の使命上、列車の運行を休止させる事もできず、各地から保線区員を集めて迂回鉄路を引き直し続けた。 結局、昭和新山の噴火が終息を迎える頃には、元々の鉄路があった場所は山の中腹に位置するほど地形は変化したが、列車の運行を休止する事はなかった。
1940年の胆振線全通によって枝線となった京極~脇方間については、鉱山の閉山により輸送量が減少し、赤字83線には含まれなかったものの、その取組みの中で1970年に廃止されている。
残った伊達紋別~倶知安間についても、1980年に国鉄再建法が成立すると、有珠山噴火による運休があった1977年度を含む1979年度までの3か年の輸送密度を元に、第2次特定地方交通線に指定された。
そして、1986年10月31日の旅客営業を以って全線廃止となり、道南バスのバス路線に転換された。
改正鉄道敷設法には、京極から留寿都を経て壮瞥に至る鉄道(別表第132号)も規定されていたが、こちらは全くの未着手に終わった。 この区間には、 国鉄バス(伊達線)が京極駅~豊浦駅間に運行されていたが廃止されている。
胆振線(新大滝~京極)の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
※ 青文字が今回の記事対象区間内の駅
区間(営業キロ):伊達紋別~倶知安 83.0km(1986年10月31日廃止)
京極~脇方 7.5km(1970年10月31日廃止)
軌間:1067mm・複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・
閉塞方式:タブレット閉塞式
駅数:22(起終点駅含む)
〔伊達紋別〕・上長和・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・優徳・新大滝・
尾路園〔仮〕1985年末頃自然消滅・御園・北鈴川・喜茂別・留産・南京極・東京極・京極・北岡・
寒別・参郷・六郷・〔倶知安〕
脇方支線:〔京極〕・脇方
交換可能駅:5 久保内、新大滝、御園、喜茂別、京極
廃止時の簡易委託駅:8 久保内、蟠渓、北湯沢、優徳、御園、南京極、東京極、寒別
国鉄・胆振線 年表 ※ 青文字が今回の記事対象区間
脇方の倶知安鉱山は1916年に三井鉱山の所有となり、さらに1918年4月に三井が出資する室蘭の北海道製鐵(旧・輪西製鐵所、現・日本製鉄室蘭製鉄所)へ譲渡し、同年11月1日に開山した。 当時推定鉱量1,000万tと言われた同鉱山への国家的な期待は大きく、当線が建設される主要動機となった。
倶知安 - 脇方(京極線)
1919年(大正 8年)11月15日 倶知安~京極 (13.4 km) を京極軽便線として新規開業。
六郷駅・寒別駅・京極駅を新設。
1920年(大正 9年) 7月15日 京極~脇方 (7.5 km) を日本製鋼所が敷設し、全線を鉄道院に寄付
して開業。 脇方駅を新設。
1922年(大正11年) 9月 2日 京極線と改称。
胆振線の建設の目的だった
鉱山が全て閉山となり
この路線のお客さんは車を持たない
高校生となっていた
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
京極 - 喜茂別(胆振鉄道)
1928年(昭和 3年)10月21日 胆振鉄道が京極~喜茂別 (11.0 km) を開業。
川上温泉停留場(後の南京極)・留産駅・喜茂別駅を新設。
1931年(昭和6年) 6月25日 東倶知安停留場(後の東京極)を新設。
沿線の全ての鉱山が閉山した事で
この路線は末路を彷徨う事となった
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
伊達紋別 - 西喜茂別間(胆振縦貫鉄道)
1940年(昭和15年)12月15日 胆振縦貫鉄道が伊達紋別~徳瞬瞥間 (35.0 km) を開業。
上長流停留場(後の上長和)・壮瞥駅・久保内駅・蟠渓駅・
優園停留場(後の北湯沢)・優徳駅・徳舜瞥駅(後の新大滝)を新設。
1941年(昭和16年) 9月27日 胆振縦貫鉄道が胆振鉄道を合併。 東倶知安停留場を東京極駅に改称。
10月12日 徳瞬瞥~西喜茂別(後の喜茂別駅)(24.2 km) を延伸し、全線開業。
西喜茂別~喜茂別間 (0.7 km) の旅客営業を廃止。
尾路遠停留場・御園駅・北鈴川駅・西喜茂別駅(後の喜茂別駅)を新設。
喜茂別を一般駅から貨物駅に変更。
1943年(昭和18年)12月頃 この頃から昭和新山の火山活動により、壮瞥村(当時)の地盤が
隆起を始め、上長流〜壮瞥間でたびたび線路が崩壊。
保線と新線建設が、火山活動の終了まで繰り返される。
全通から僅か45年で
路線廃止となった胆振線
胆振縦貫鉄道買収後
1944年(昭和19年) 7月 1日 胆振縦貫鉄道の伊達紋別~京極、西喜茂別~喜茂別を買収・国有化し、
これに京極線を編入して胆振線(伊達紋別~倶知安・京極~脇方)
とする。 西喜茂別~喜茂別 (0.7 km) を廃止し、喜茂別駅
(旧西喜茂別駅)構内に併合。 優園駅を北湯沢駅に、川上温泉駅を
南京極駅に、西喜茂別駅を喜茂別駅に改称。 東京極駅を廃止。
尾路遠を駅から仮乗降場に改める。
1952年(昭和27年)11月15日 徳舜瞥駅を新大滝駅に改称。
1959年(昭和34年)10月 1日 上長流を上長和駅に改称。
1960年(昭和35年)10月 1日 北岡駅・参郷駅を新設。
1962年(昭和37年)12月17日 東京極駅を新設。
1970年(昭和45年)11月 1日 京極~脇方 (7.5km) を廃止。 これに伴い、脇方駅を廃止。
1977年(昭和52年) 8月 7日 有珠山の噴火により、伊達紋別~新大滝の運転を見合わせ。
8月 15日 久保内~新大滝の運転が再開。
9月 30日 完全復旧。
1984年(昭和59年) 6月 22日 第2次特定地方交通線として廃止承認。
「幻の仮乗降所」と云われた
尾路遠仮乗降場は
ガートで林道を越えた茂みの
先にあったとの事
※ 『1970年代北海道鉄道写真』より
1985年(昭和60年) 尾路遠仮乗降場を廃止。
1986年(昭和61年)11月 1日 全線 (83.0 km) を廃止し、道南バスのバス路線に転換。
急行【いぶり】があった頃の
胆振線時刻表
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
運行形態 ※ 青文字が今回の記事対象区間
路線廃止前(1986年3月3日改正)のダイヤ改正時点では、全線通しの列車のほかに伊達紋別 ~久保内・伊達紋別~新大滝・御園~倶知安といった区間列車があった。 新大滝~御園は胆振支庁と後志支庁の境となり、人口も特に稀薄な為に、この区間での運行便数は少なくなっていた。
京極駅で交換していた
内回りと外回りの急行【いぶり】
※ まとめサイトの画像を拝借
札幌から胆振線を経由して札幌に戻っていた循環急行【いぶり】
※ 青文字が今回の記事対象区間
胆振線には、路線廃止が表題に挙がり始めた1980年10月のダイヤ改正まで、札幌発着で循環運転を行う準急・急行【いぶり】が運行されていた。 運転されていた経路は、千歳線~室蘭本線~胆振線~函館本線経由で、キハ22形気動車を使用していた。
その歴史は、1962年10月1日より臨時の準急列車として内回り便(札幌→倶知安→伊達紋別→札幌の方向)のみが設定される。 これは単行運転で、土曜・日曜日のみの運行であった。 1年後の1963年10月1日に、内回り便が定期化される。 同時に外回り便(札幌→伊達紋別→倶知安→札幌の方向)の運転も開始された。
この当時は、準急【えりも】(札幌~様似)、準急【ちとせ】(札幌~室蘭)と併結して札幌を出発し、札幌~苫小牧が3階建て列車、苫小牧~東室蘭が2階建て列車、そして【いぶり】単独で胆振線を通過後、倶知安~札幌で準急【ニセコ】(蘭越・岩内~札幌)と連結された2階建て、小沢よりは岩内線・岩内からの準急【らいでん】も併結して、小沢~札幌は3階建て列車として運転されていた。
1965年10月 からは【ちとせ】・【えりも】に加えて、札幌~伊達紋別で準急【とうや】(札幌~洞爺)との連結も開始し、札幌~苫小牧は4階建て、苫小牧~東室蘭は3階建て、東室蘭 - 伊達紋別は2階建て列車となった。
手書きの列車愛称版に
ブレスの手動扉のキハ22単行・・
『遜色急行』の呼び名を欲しい
ままにした急行だった
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
1966年3月5日のダイヤ改正で、急行に格上げとなる。 1967年10月のダイヤ改正で、倶知安~札幌で連結する相手が【ニセコ】から【らいでん】に変更されるが、運転区間はそれまで通りであった。
これは急行【ニセコ】が函館発着に変更され、【ニセコ】旧来の運行区間(蘭越・岩内~札幌)が、急行【らいでん】として割り当てられた為である。
1972年3月のダイヤ改正で、豊浦駅・洞爺駅~札幌を運行していた【とうや】が、【ちとせ】の一部列車による延長運転として統合されるが、運転区間は従来通りだった。 そして、1980年10月1日のダイヤ改正で運行廃止となった。
廃止時の停車駅は以下の通りであった。
札幌・千歳・苫小牧・白老・登別・東室蘭・本輪西・伊達紋別・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・
新大滝・御園・喜茂別・京極・倶知安・小沢・余市・小樽・札幌
この地のメイン道路・国道276号より外れた
北鈴川~御薗は運行補助の打ち切りによって
道南バスによる代替バスより
町のコミュニティバスに運行元が変っている
※ ウィキペディア画像を拝借
胆振線代替バス ※ 青文字が今回の記事対象区間
路線廃止となった胆振線の代替バスは、道南バスが鉄道代替バス路線として運行している。 2019年10月1日のバス時刻改正時点で、伊達駅前(伊達紋別駅)〜倶知安駅前を通しで運行する便が1日3往復設定されているほか、伊達〜大滝、倶知安~喜茂別に区間便が設定されている。
かつては倶知安駅・喜茂別~鈴川(北鈴川駅)〜御園(御園駅)の系統も存在していたが、2014年に鈴川~御園間の運行補助が打ち切りとなり、2014年10月1日のダイヤ改正をもって同区間は路線廃止となった。 なお、伊達駅前から倶知安駅前の通し系統は、従前より御園には乗り入れていない(御薗駅周辺は経由しない)。
道南バスが運行から撤退した喜茂別~御園は、地元自治体である喜茂別町が2015年6月1日より運行を開始した町営バス〔ウサパラ号〕の『第1ルート』の中に組み込まれる形で運行再開されて現在に至っている。
この記事の為にわざわざ
¥300円也の有料写真を買っちゃいますた
乗車記(新大滝~京極)
※ スンマセン・・ 新たな記事内容はこの項目以降と掲載写真のみのようです。
新大滝は胆振・後志の国境越えを控えた地点にある駅で、この駅を基点として伊達紋別と倶知安で運行系統が分かれる。 また、国境越えの区間は利用客が極端に減って、それに従い運行本数も5往復のみとなる。
ギリシャ神話の神殿跡を思わせる
日鉄・徳瞬別鉱山の専用線跡
:
山の上の鉱山採掘場より
鋼索を使って新大滝まで
引き下ろしていたようである
※ まとめサイトの画像を拝借
新大滝から、徳瞬別山の山奥にあった日鉄・徳瞬別鉱山から採掘された褐鉄鉱石を輸送する鉱山専用線が分岐しており、新大滝駅は同鉱山が閉山となる昭和46年まで、鉱山から搬出された褐鉄鉱石の積み出し駅となっていた。 それゆえに駅構内は広く、専用線駅構内貯鉱槽が設置されていた。 新大滝駅の伊達紋別側にはこの鉱山専用線の高架橋の遺構が残って、かつて栄えた鉱山街の栄華を忍ばせている。
「幻の仮乗降場」・尾路遠仮乗降場の
あったと思われる場所には
林道を跨ぐガーター橋があり
かつては開拓農家が居住していたようだ
※ 『1970年代北海道鉄道写真』より
新大滝を出ると、国境の峠・オロエン峠を越える。 この峠の新大滝側に『幻の仮乗降場』といわれた尾路遠仮乗降場があり、乗客がいなければ通過処置をとっていたらしいが、無人地帯で乗降場自体が自然消滅したという。
国境を越えて、峠から集落まで下りてくると御園駅。 峠の入口の駅らしく、小ぶりの駅舎に千鳥配置の長い交換設備を有した駅だった。 次の北鈴川は、駅舎こそ御園駅と同一の造り(無人駅なのでやや小ぶり)だが、山間の棒線小駅という立ち位置だ。
この北鈴川~御薗の区間は、国境を越えるメインの道路である国道276号より離れた山間の小集落地となっていて、路線が廃止となった後も胆振線の代行バスが第三種生活路線指定を受けていた。 2014年にその運行補助金が打ち切られると、代行バスの運行を担っていた道南バスが撤退し、一時期公共交通機関のない地域となったが、翌年の6月より所属自治体の喜茂別町がコミュニティバスの運行を開始して公共交通機関がない状況は回避されている。
背後に羊蹄山がそびえる駅・喜茂別
こういった写真を見る度に
転げ回りたい位に撮れなかった悔しさが募るワテ
『カメカメカメら・胆振線』より
喜茂別は、後志支庁側の最奥行政区で、この路線の後志側を建設した胆振鉄道の終着駅である。
その後買収や国有化で駅の位置が点々と移動したというが、詳しくはその参考文献を見た方がいいだろう。
撮りたかったなぁ・・コレ
:
この写真があったからこの写真集買っちゃったよ
買ったのは遠い昔・・35年も前の事だけど・・
写真集『北海道鉄道百景』より
次の留産は羊蹄山の南東側の裾野に位置し、羊蹄山の眺めが見事である。 また、羊蹄山を背景に胆振線の写真が撮れる胆振線屈指の撮影『お立ち台』であったようである。 次の南京極は駅前に川上温泉という温泉が湧き、駅設置当初は『川上温泉停留所』と呼ばれていた。 川上温泉は、現在も日帰り温泉メインで営業しているようである。
この温泉施設は現在も日帰り温泉メイン
として営業しているとの事
※ じゃらんの掲載写真より
東京極まで下ってくると、周囲の情景は街中をゆく雰囲気となる。 簡易駅舎の小駅だが京極へ通う高校生を中心とした利用客は多かったようで、いつも駅前は駅利用の高校生が乗り着けてきた自転車で占拠された状態であった。
そして、両端を覗く沿線最大の町・京極町の中心駅・京極に着く。 なお、京極~倶知安の区間は、次回の『廃線鉄道 第33回』にて。
広い構内と長大な貨物の行き違いを可能にすべく
遠く離れた千鳥構造の上下線ホームに
かつて日鉄・徳瞬別鉱山より採掘された
褐色鉄鉱石の積み替え駅として栄えた事を物語る
新大滝駅(しんおおたきえき)は、かつて北海道(胆振支庁)有珠郡大滝村字本町(現・伊達市大滝区本町)にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い1986年11月1日に廃駅となった。
1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日乗降客数は59人との事。 駅名は当駅の所在する地名に『新』を冠した。 地名(村名・現在は伊達市に編入)は、村の名所である三階滝に由来している。
廃止時点で単式ホーム2面2線を有する駅で、ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム南側と対向ホーム北側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側ホーム(東側)が上りの1番線、対向ホーム(西側)が下りの2番線となっていた。 その他、2番線の倶知安方から2番線ホーム外側(乗降不可)に分岐し末端部で2線になる行き止まりの側線、その側線途中から分岐する行き止まりの側線を1線有した。 蒸気機関車が入線していた当時は、転車台を備えていた。
業務委託駅となっており、駅舎は構内の南東側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。
駅舎の左手側に別棟でトイレを有した。 かつては徳舜瞥鉱山からの鉄鉱石(褐鉄鉱)や硫黄鉱の積み出し駅であった。
徳瞬別鉱山から鋼索軌道により
鉄鉱石を引き下ろしていたとの事
:
このように遺構が高架なのも高低差を
鋼索にて搬出していた事の証だろう
※ まとめサイトの画像を拝借
路線廃止後は、旧駅構内の一部が『平成ふるさとの道公園』として整備され、ホームのあった位置には旧大滝村を象徴するオブジェが設置されてる。 また、伊達紋別方には、徳舜瞥鉱山から硫化鉄を搬送する為に敷設された引込線の高架橋が残存してる。 一方、優徳方向の廃線跡は遊歩道となっている。
その近くの駅構内跡の端には雇用促進住宅が建っている。
1993年に、当駅跡より伊達紋別方へ約0.7km戻った地点から、当駅の先までの約5.5kmの線路跡が、サイクリングロードの『平成ふるさとの道』として整備されている。
このガーター橋の奥の築堤に
尾路遠仮乗降場があったとの事である
※ まとめサイトの画像を拝借
尾路遠仮乗降場(おろえんかりじょうこうじょう)は、かつて北海道(胆振支庁)有珠郡大滝村字豊里(現・伊達市大滝区豊里町)にあった国鉄・胆振線の仮乗降場である。 末期は利用客が見当たらないと停車せずに通過していて、その内に自然消滅という形で、いつのまにかその存在も消滅していた。
当乗降場が自然消滅したのは1980年頃だという。
廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅であった。 1961年頃までは上下列車用にそれぞれ別の場所に単式ホームがあったが、合理化により1箇所となった。 利用客減少後は、上にも記したように当乗降場付近で列車は徐行し、乗降客のない場合はそのまま通過する扱いを行っていた。 乗降客が皆無となった末期は、全列車通過扱いであった。
国境越えの無人地帯の
尾路遠仮乗降場には
保線員の詰所に供する
「幻の駅舎」があったようだ
なお、こんな利用客皆無の乗降場に駅舎があった事が確認されているが、これは山間の区間である同区間の保線に際しての保線要員の詰所として使われていた為だろうと推測されている。
駅名は、当駅の所在した旧地名に由来する。 もともとこの地域は『オロウエンシリベツ』と呼ばれていたが、当乗降場の位置よりすぐ北側に接して開拓植民地が作られ、1919年の二級町村制施行時に上尾路遠、中尾路遠、下尾路遠の字名が付けられた(後に下尾路遠は村界変更により喜茂別村へ分村して御園となった)。
オロウエンシリベツ原野をゆく
道道695号・清原喜茂別線より
尾路遠仮乗降場のあった築堤を望む
※ まとめサイトの画像を拝借
一方、当乗降場はそれらの植民地より南の字の『オロウエンシリベツ原野』に含まれたが、開業時までに字王朗園となった。 なお開業後間もない1941年12月の字名改正により王朗園は豊里、上尾路遠・中尾路遠は清原や宮城に改正され、大滝村の行政区分からオロウエンに由来する名前は無くなった。
『おろえん』は様々な形で漢字表記されており、行政単位としては上記の通り『王朗園』や『尾路遠』が当てられているが、1971年の実見によると、現地の駅名標は『尾路園』であった(近辺の橋梁名もこの字を使用していた)。 また札幌鉄道管理局運転部では『尾路”遠”』、同施設部では『尾路”園”』と称し、付近のトンネルは『尾路”焉”』(後に平仮名表記となる)と表記していた。
2001年時点では新大滝~御園の線路跡や橋梁が一部林道に転用されながら残存し、当駅跡の御園方には『尾路園架道橋』のガーダー橋も残存している。 この橋は、記載された施工標によると、伊達紋別から46km443mの位置にあるとの事である。 『尾路園架道橋』のすぐ隣りには、『第二尾路園川橋梁』の橋台も残存していた。 また、伊達紋別方に、『おろえんトンネル』の坑口がコンクリートで封鎖された状態で残存している。
後志支庁側の国境駅として
折り返し列車も設定され
運転要員が置かれていた御薗駅
御園駅(みそのえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字金山(かなやま)にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は23人との事。
廃止時点で単式ホーム2面2線を有する駅で、ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な交換駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム北側と対向ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。
駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、入口部分に短い上屋とベンチが設置された対向ホーム(東側)が上りの2番線となっていた。 その他、1番線と2番線の間に伊達紋別方、倶知安方両方の転轍機が撤去された中線を1線有した。
御薗駅で停留する
当駅止まりの折り返し列車
:
折り返し列車は駅舎側の下りホームに
到着し折り返していたようだ
※ まとめサイトの画像を拝借
最終営業日まで、無人駅扱いの運転取り扱い要員のみが配置されていた駅であった。 駅舎は構内の西側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。 乗車券類は簡易委託化されていた。
駅名は当初は地名から『金山』とする予定であったが、根室本線に同名駅が存在する事から隣接集落の名称を採用した。 『御園』の地名は、現在のオロウェン尻別川を指すアイヌ語の「オロウェンヌプキペッ」(底の様子が悪い濁った川)、あるいは「オロウェンシリペッ」〔その中が・悪い・尻別川(の支流)〕、のいずれかに由来するとされる。 当初、これに『御路園』あるいは『御老園』の漢字を当てたが、後年略され『御園』に変わったという。
バス転回場の奥の草むらには
ホーム跡が屍として残っているようだ
駅跡地は道南バス『御園』停留所の転回場になっていたが、運行補助金の打ち切りを受けて同バスは2014年の9月末をもって北鈴川駅前~御薗の運行から撤退し、一時期この区間は公共交通機関がない状態となったが、2015年6月からは、喜茂別町営バス(コミュニティバス)が御園・金山線といて運行を再開している。
山峡へ分け入る入口に
ある小駅・北鈴川駅
※ 『ブラットホームの旅』より
北鈴川駅(きたすずかわえき)は、かつて北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字鈴川にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は47人との事。
廃止時点で1面1線の単式ホームを有する駅で、ホームは線路の北側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 かつては、2面2線の相対式ホームを有する列車交換可能な駅であった。 使われなくなった南側の1線は、交換設備運用廃止後に線路・ホーム共に撤去されていた。 無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は一部改修されて、正面の事務室部分の窓は塞がれていた。 駅舎は構内の北側に位置し、ホームから少し離れていた。
山間の小集落の為の駅だった北鈴川駅
綺麗に清掃された駅に地元の方の
駅や鉄道への愛着が見て取れる
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
もともと同地は上尻別と呼ばれていたが、「鉄道建設の時付近一帯にスズランがあった」事と、当地に1902年に入植した南部出身の鈴木与助の名前から『鈴』、尻別川から『川』をとり『鈴川』とし、すでに静岡県の東海道本線に鈴川駅(現:吉原駅)があった為に『北』を冠したという。 駅跡地は公営住宅の敷地に転用されていて、新しい住宅が建築されている。
胆振線の主要駅は
駅舎というより軽作業場と
いった感じの建物が多い
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
喜茂別駅(きもべつえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字喜茂別にかつてあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は195人との事。
廃止時点で単式ホーム2面2線を有する駅で、ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム西側と対向ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡していた。
駅舎側ホーム(南側)が下りの1番線、対向ホーム(北側)が上りの2番線となっていたが、この2つのホームの間はかなり離れていて、その合間の位置に駅舎が置かれていた。 その他、2番線の倶知安方から分岐し、2番線ホームの外側(乗降可能)への行き止まりの側線を1線有していた。
羊蹄山が出迎える駅・喜茂別駅
この駅から毎日出かける事ができたなんて
一つの幸運だと思うよ・・ワテは
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
業務委託駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。
かつては鉄鉱石や農産物の集荷駅であった。 喜茂別駅を称した駅は、2つ存在した。 それは、胆振線の前身である胆振鉄道が開業した際に終着駅として設置した喜茂別駅(初代)と、胆振鉄道を合併した胆振縦貫鉄道が、伊達紋別方面に路線を延長する際に、喜茂別駅(初代)と留産駅の間に新設した西喜茂別駅(にしきもべつえき)を国有化時に改称した2代目駅とある。
かつての終着駅で貨物の荷捌き場であったせいか
喜茂別駅の駅舎構内はかなり広く
長大編成の貨物列車の受け入れが可能な様に
千鳥配置の上下ホーム間は100m位開いていた
※ まとめサイトの画像を拝借
なお、胆振鉄道時代に開設された初代・喜茂別駅は、2代目喜茂別駅開業後は貨物支線(キロ程0.7km)となっていたが、国有化の際に旧・西喜茂別駅構内に併合され廃止となった。 従って、路線廃止まで存在した2代目の喜茂別駅は、西喜茂別駅からの改称されたものである。
駅名の由来は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「キム・オ・ペツ」(山より来る川)に由来する。 駅跡地には新しい集合住宅が建築され、周辺は住宅街となっている。 その敷地の一角に公園が設けられ、駅跡の記念碑が設置されている。
ジャガイモ畑に囲まれた畑地に
胆振線の小駅規格の駅舎が建っていた
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
留産駅(るさんえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字留産にかつてあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は5人との事。
廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能駅であった。 使われなくなった構内西側の1線は、交換設備運用停止後に線路・ホーム共に撤去されていた。
今・・このアングルを思いついて
より一層悔しくなった
:
そのアングルとは羊蹄山と白いジャガイモの花
を背景に胆振線のキハ22という贅沢極まるアングル
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
無人駅となっており、待合所機能のみの駅舎が残っていた。 駅舎は構内の東側に位置し、ホームから少し離れていて、ホーム北側の出入口は階段となっていた。 駅名は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「ル・オ・サン・イ」(道が・そこで・下る・処)に由来する。
駅跡は、駅在時より周囲を取り囲んでいたジャガイモ畑に取り込まれるような形で畑化されている。
当駅は羊蹄山南東の裾野の位置に所在していた為、当駅から南京極駅にかけては、羊蹄山を背景に胆振線の列車が撮れる絶好の撮影『お立ち台』となっていた。
京極町の区域まで来ると
そろそろ街中の様相を呈してくる
※ 『プラットホームの旅』より
南京極駅(みなみきょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字更進にかつてあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は29人との事。
こういう駅って
ローカル鉄道らしくてソソるなぁ
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の西側に位置し、ホームから少し離れていて、ホーム中央部分の出入口は階段となっていた。
当初は駅を降りて川の対岸にあるこの温泉から
『川上温泉停留場』と名付けられていた
※ じゃらんの掲載写真より
駅名は、所在地(京極町)の南に位置した事から『南京極駅』と名付けられたが、駅開業時は駅前に湧出する温泉の名に由来して『川上温泉(かわかみおんせん)駅』と呼ばれていた。 駅跡は広い空地となっており、駅前に植えられていたイチイの木のみが残っている。
ここまで来ると街中となり
駅前は利用客の高校生の自転車で
占拠されていたという
※ 『プラットホームの旅』より
東京極駅(ひがしきょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字三崎にかつてあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は120人との事。
廃止時点で1面1線の単式ホームと線路を有する駅で、ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の西側に位置し、ホームから少し離れていて、ホーム中央部分の出入口は階段となっていた。
簡易委託駅で近所に住まわれる方が
駅舎を清潔に保っていた為
夏は花壇の花咲く駅だった
※ 『北海道中年(そろそろ初老?)鉄ちゃん戯れ事日記』より
駅名の由来は、当駅が、所在する地(京極町)の東に位置した事からである。 当駅の跡地は空地となっており、建築会社の資材置き場などに使われていた。 駅であった頃に、駅の利用客である高校生の自転車で占拠されていた駅前広場が今も残っている。
なお、京極駅については、次回の『廃線鉄道 第33回』にて
安倍首相辞めちゃいましたね
でもヤメた理由は健康不安ではなく
党内で多数派の媚チョン・シナ派に
抗しきれなくなった=党内での
主導権争いに敗れたからだよ
消費税増税からこのかた失政続きだったけど
その失政は全てこういった
媚チョン・シナ派の御機嫌を取って
政権を維持する為のものだったしィ
だから言ったんだよ
最初にガツンとシナ・チョンと対峙する
姿勢を取る事が重要だと
シナとチョンの領土侵犯や
今回の『武漢ウイルス』に対して
アメリカと緊密な関係を取って
共同歩調で経済報復や侵略軍の
排除に進んでいかねばならなかったのだよ
そしてオリンピック・・
コレは真に安倍政権は元より
我が国に対しても難を及ぼす
ガン細胞となったね
全世界に『武漢ウイルス』の
感染が拡大した時点で
開催は絶対的に不可能なんだから
即座に中止を宣言して
その損害賠償をシナに
請求するべきだったのですね
これでシナが仕掛けてきたとしたなら
国民もやっと目が覚めるだろうし
シナ共産党とその属国チョンを滅ぼさない限り
『武漢ウイルス』災禍は終わらないよ
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