区間(営業キロ):伊達紋別~倶知安 83.0km(1986年10月31日廃止)
京極~脇方 7.5km(1970年10月31日廃止)
軌間:1067mm・複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・
閉塞方式:タブレット閉塞式
駅数:22(起終点駅含む)
〔伊達紋別〕・上長和・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・優徳・新大滝・
尾路園〔仮〕1985年末頃自然消滅・御園・北鈴川・喜茂別・留産・南京極・東京極・京極・北岡・
寒別・参郷・六郷・〔倶知安〕
脇方支線:〔京極〕・脇方
交換可能駅:5 久保内、新大滝、御園、喜茂別、京極
廃止時の簡易委託駅:8 久保内、蟠渓、北湯沢、優徳、御園、南京極、東京極、寒別
国境の川・オロウェンシリベツ川を渡って
いよいよ後志の国へ
※ まとめサイトの画像を拝借
国鉄・胆振線 年表
脇方の倶知安鉱山は1916年に三井鉱山の所有となり、さらに1918年4月に三井が出資する室蘭の北海道製鐵(旧・輪西製鐵所、現・日本製鉄室蘭製鉄所)へ譲渡し、同年11月1日に開山した。 当時推定鉱量1,000万tと言われた同鉱山への国家的な期待は大きく、当線が建設される主要動機となった。
胆振線の建設目的は
意外や意外・・鉱山からの鉱石搬出だった
:
かつて貨物側線が並んだ
広い駅構内は雪に埋もれて
※ まとめサイトの画像を拝借
倶知安 - 脇方(京極線)
1919年(大正 8年)11月15日 倶知安~京極 (13.4 km) を京極軽便線として新規開業。
六郷駅・寒別駅・京極駅を新設。
1920年(大正 9年) 7月15日 京極~脇方 (7.5 km) を日本製鋼所が敷設し、全線を鉄道院に寄付
して開業。 脇方駅を新設。
1922年(大正11年) 9月 2日 京極線と改称。
長い編成の貨物列車の
行き違いの為だろうか
駅ホームはかなり離れた千鳥配置だった
※ マップサイトより
京極 - 喜茂別(胆振鉄道)
1928年(昭和 3年)10月21日 胆振鉄道が京極~喜茂別 (11.0 km) を開業。
川上温泉停留場(後の南京極)・留産駅・喜茂別駅を新設。
1931年(昭和6年) 6月25日 東倶知安停留場(後の東京極)を新設。
道央地域では豪雪地帯であった
胆振線の山奥の区間
※ まとめサイトの画像を拝借
伊達紋別 - 西喜茂別間(胆振縦貫鉄道)
1940年(昭和15年)12月15日 胆振縦貫鉄道が伊達紋別~徳瞬瞥間 (35.0 km) を開業。
上長流停留場(後の上長和)・壮瞥駅・久保内駅・蟠渓駅・
優園停留場(後の北湯沢)・優徳駅・徳舜瞥駅(後の新大滝)を新設。
1941年(昭和16年) 9月27日 胆振縦貫鉄道が胆振鉄道を合併。 東倶知安停留場を東京極駅に改称。
10月12日 徳瞬瞥~西喜茂別(後の喜茂別駅)(24.2 km) を延伸し、全線開業。
西喜茂別~喜茂別間 (0.7 km) の旅客営業を廃止。
尾路遠停留場・御園駅・北鈴川駅・西喜茂別駅(後の喜茂別駅)を新設。
喜茂別を一般駅から貨物駅に変更。
1943年(昭和18年)12月頃 この頃から昭和新山の火山活動により、壮瞥村(当時)の地盤が
隆起を始め、上長流〜壮瞥間でたびたび線路が崩壊。
保線と新線建設が、火山活動の終了まで繰り返される。
一帯はリゾートホテルが建ち並ぶ
リゾート温泉郷となったが
鉄道と駅施設だけは取り残されて
旧態依然の光景を晒していた
胆振縦貫鉄道買収後
1944年(昭和19年) 7月 1日 胆振縦貫鉄道の伊達紋別~京極、西喜茂別~喜茂別を買収・国有化し、
これに京極線を編入して胆振線(伊達紋別~倶知安・京極~脇方)
とする。 西喜茂別~喜茂別 (0.7 km) を廃止し、喜茂別駅
(旧西喜茂別駅)構内に併合。 優園駅を北湯沢駅に、川上温泉駅を
南京極駅に、西喜茂別駅を喜茂別駅に改称。 東京極駅を廃止。
尾路遠を駅から仮乗降場に改める。
1952年(昭和27年)11月15日 徳舜瞥駅を新大滝駅に改称。
1959年(昭和34年)10月 1日 上長流を上長和駅に改称。
1960年(昭和35年)10月 1日 北岡駅・参郷駅を新設。
1962年(昭和37年)12月17日 東京極駅を新設。
1970年(昭和45年)11月 1日 京極~脇方 (7.5km) を廃止。 これに伴い、脇方駅を廃止。
1977年(昭和52年) 8月 7日 有珠山の噴火により、伊達紋別~新大滝の運転を見合わせ。
8月 15日 久保内~新大滝の運転が再開。
9月 30日 完全復旧。
1984年(昭和59年) 6月 22日 第2次特定地方交通線として廃止承認。
1985年(昭和60年) 尾路遠仮乗降場を廃止。
1986年(昭和61年)11月 1日 全線 (83.0 km) を廃止し、道南バスのバス路線に転換。
廃止直前の胆振線時刻表
※ JTB時刻表より
運行形態
路線廃止前(1986年3月3日改正)のダイヤ改正時点では、全線通しの列車のほかに伊達紋別 ~久保内・伊達紋別~新大滝・御園~倶知安といった区間列車があった。 新大滝~御園は胆振支庁と後志支庁の境となり、人口も特に稀薄な為に、この区間での運行便数は少なくなっていた。
単行の独りぼっちで雪の荒野をゆく
キハ22急行【いぶり】
※ 写真集・国鉄急行列車〔東日本編〕より
札幌から胆振線を経由して札幌に戻っていた循環急行【いぶり】
胆振線には、路線廃止が表題に挙がり始めた1980年10月のダイヤ改正まで、札幌発着で循環運転を行う準急・急行【いぶり】が運行されていた。 運転されていた経路は、千歳線~室蘭本線~胆振線~函館本線経由で、キハ22形気動車を使用していた。
その歴史は、1962年10月1日より臨時の準急列車として内回り便(札幌→倶知安→伊達紋別→札幌の方向)のみが設定される。 これは単行運転で、土曜・日曜日のみの運行であった。 1年後の1963年10月1日に、内回り便が定期化される。 同時に外回り便(札幌→伊達紋別→倶知安→札幌の方向)の運転も開始された。
内回りと外回りの急行【いぶり】は
京極駅で交換していた
※ まとめサイトの画像を拝借
この当時は、準急【えりも】(札幌~様似)、準急【ちとせ】(札幌~室蘭)と併結して札幌を出発し、札幌~苫小牧が3階建て列車、苫小牧~東室蘭が2階建て列車、そして【いぶり】単独で胆振線を通過後、倶知安~札幌で準急【ニセコ】(蘭越・岩内~札幌)と連結された2階建て、小沢よりは岩内線・岩内からの準急【らいでん】も併結して、小沢~札幌は3階建て列車として運転されていた。
1965年10月 からは【ちとせ】・【えりも】に加えて、札幌~伊達紋別で準急【とうや】(札幌~洞爺)との連結も開始し、札幌~苫小牧は4階建て、苫小牧~東室蘭は3階建て、東室蘭 - 伊達紋別は2階建て列車となった。
1966年3月5日のダイヤ改正で、急行に格上げとなる。 1967年10月のダイヤ改正で、倶知安~札幌で連結する相手が【ニセコ】から【らいでん】に変更されるが、運転区間はそれまで通りであった。
これは急行【ニセコ】が函館発着に変更され、【ニセコ】旧来の運行区間(蘭越・岩内~札幌)が、急行【らいでん】として割り当てられた為である。
急行【いぶり】の愛称サポ
※ Yahoo!オークションの写真より
1972年3月のダイヤ改正で、豊浦駅・洞爺駅~札幌を運行していた【とうや】が、【ちとせ】の一部列車による延長運転として統合されるが、運転区間は従来通りだった。 そして、1980年10月1日のダイヤ改正で運行廃止となった。
廃止時の停車駅は以下の通りであった。
札幌・千歳・苫小牧・白老・登別・東室蘭・本輪西・伊達紋別・壮瞥・久保内・蟠渓・北湯沢・
新大滝・御園・喜茂別・京極・倶知安・小沢・余市・小樽・札幌
胆振線列車と代替バスとなる道南バス
※ ホビーサーチの『バスコレ』
商品パッケージの写真より
胆振線代替バス
路線廃止となった胆振線の代替バスは、道南バスが鉄道代替バス路線として運行している。 2019年10月1日のバス時刻改正時点で、伊達駅前(伊達紋別駅)〜倶知安駅前を通しで運行する便が1日3往復設定されているほか、伊達〜大滝、倶知安~喜茂別に区間便が設定されている。
かつては倶知安駅・喜茂別~鈴川(北鈴川駅)〜御園(御園駅)の系統も存在していたが、2014年に鈴川~御園間の運行補助が打ち切りとなり、2014年10月1日のダイヤ改正をもって同区間は路線廃止となった。 なお、伊達駅前から倶知安駅前の通し系統は、従前より御園には乗り入れていない(御薗駅周辺は経由しない)。
道南バスが運行から撤退した喜茂別~御園は、地元自治体である喜茂別町が2015年6月1日より運行を開始した町営バス〔ウサパラ号〕の『第1ルート』の中に組み込まれる形で運行再開されて現在に至っている。
伊達紋別駅の胆振線用切り欠きホームで
発車を待つ胆振線・倶知安行の列車
※ ウィキペディア画像を拝借
乗車記(伊達紋別~新大滝)
胆振線列車は、伊達紋別駅の駅舎寄りにある1番線(現在は駅舎寄りのホームは3番線となっているようだ)の先にある切り欠きホーム(0番線)より発車する。 駅改札口からは遠く離れた『駅の果て』の立ち位置となっている。 次の上長和は棒線駅。 この駅を出ると、昭和新山が見えてくる。 昭和初期に田圃の中から出現した標高400m程の活火山だ。 当時のワテは、なぜかこれをターゲットに撮影を目論んで、見事『ボツ写真の山』を築いてしまった。
この記事を書くまで
お蔵入りだったボツ写真の御開帳~!
次の壮瞥は温泉街もある洞爺湖畔の観光拠点だ。 駅と鉄道は観光輸送の供にはならなかったが、伊達紋別のバスターミナルより壮瞥駅前と洞爺湖畔の観光地を結ぶバスが頻繁に運転されていたようである。
次の久保内は交換可能駅。 貨物列車の行き違いを想定した千鳥配置のローカル線らしき線形の駅だった。 次の蟠渓は、小さな町工場の工作所のような駅舎で、パッと見は駅とは解り辛かった。
近くに鄙びた温泉があった。 中でも長流(おさる)川の河原にある露天風呂の《オサル湯》は、温泉通には知られている露天温泉との事である。
あの時に途中で1駅でも降りていれば
胆振線の写真も充実していただろうに
※ まとめサイトの画像を拝借
北湯沢も温泉の最寄り駅である。 だが、蟠渓温泉が鄙びた温泉であるのに対して、こちらは温泉旅館が数件ある温泉郷である。 次の優徳は、山間の小駅。 だが、かつては交換設備を要していたらしく、その跡地が残る。
新大滝はこの路線の中間地点で、この駅の先で胆振・後志の国境・オロエン峠を越える。 しかし、峠越えをする乗客はほとんどなく、列車本数もこの峠越え区間は半減する。
※ 新大滝から先は、次回『第32回 胆振線 その2』にて・・
お洒落な造りの伊達紋別駅
:
かつてはこの駅から
胆振線が分岐していた
※ ウィキペディア画像を拝借
伊達紋別駅(だてもんべつえき)は北海道伊達市山下町にあるJR北海道・室蘭本線の駅である。
伊達市の代表駅であり、1925年8月20日に国有鉄道長輪東線(現在の室蘭本線)の駅として開設された。
1940年12月15日に胆振縦貫鉄道(後の胆振線)が開業し、同線との分岐駅となった。
1986年11月1日に胆振線が廃止された後は、室蘭本線の単独駅となっている。
駅構造は、単式ホーム・島式ホーム複合型の2面3線を有する駅で、互いのホームは中央部分に位置する跨線橋で連絡している。 現在は、他の駅とは異なって3番線側に駅舎と改札口があるが、胆振線があった頃は他の駅と同じく駅舎寄りのホームが1番線で、その長万部寄りに胆振線用の切り欠きホームの0番線があった。
現在の伊達紋別構内
:
かつては駅舎寄りのホームの長万部側の端に
胆振線発着の切り欠きホームがあった
※ ウィキペディア画像を拝借
社員配置駅で、みどりの窓口(営業時間:7時00分~19時30分)を設置している。 駅舎は開業時のものを手直しして利用しており、外観は白壁でこげ茶色の柱と梁を有し、天井は大型枡格天井となっている。 胆振線があった1981年の1日平均の乗降人員は2027人、胆振線廃止後の1991年は2810人、直近のデータ収集年である2017年は981人との事である。
駅名は当駅の所在する地名が由来であり、伊達の名は伊達成実の後裔である亘理伊達氏当主・伊達邦成とその家臣団が1870年に入植したことから付けられた。 1900年に伊達村となる前の地名は紋鼈(もんべつ)であり、字を紋別と変えて伊達と併せ駅名に採用したとの事。
棒線ホームと駅外に物置のような
待合室があるのみだった上長和
上長和駅(かみながわえき)は、かつて北海道(胆振支庁)伊達市上長和町に設置されていた国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は6人との事。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅で駅舎はないが、ホーム出入口附近にプレハブ建築の待合所を有していた。
駅名は所在地名からで、元々同地は「上長流(かみおさる)」の名で駅名も同名であったが、1959年4月に『長流』と同時に字名が変更され、同年10月に長流駅と共に駅名が改称された。 その字名及び駅名改称のエピソードとして、同地の中学校が修学旅行での出先で「おサル(長流)の学校」とからかわれた事がきっかけとなった・・という事がある。
現在の上長和駅跡は
サイクリングロードの
休憩所となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
伊達紋別駅と当駅の間の線路跡は、伊達紋別駅構内を出た附近から約4kmに渡りサイクリングロードとして整備されている。 その終点近くに当駅跡があり、当駅跡はサイクリングロードの『上長和休憩所』として、石造りの模擬ホームと駅を模したあずま屋が設置されている。
雨が上がった黄昏時の壮瞥駅
:
駅前のロータリーでは
洞爺湖畔の観光地に向けて
多くのバスが発着していた
※ ウィキペディア画像を拝借
壮瞥駅(そうべつえき)は、かつて北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字滝之町に設置されていた国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は215人との事。
島式ホームの片面使用となった駅・壮瞥駅
乗降ホームと駅舎が離れている光景に
かつて多くの貨物側線を有した事が伺える
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止時点で島式ホームの片面を使用する1面1線を有した駅で、ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 かつては、島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。
使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後も倶知安方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っており、保線用モーターカーの留置に使用されていた。
業務委託駅となっており、駅舎は構内の北東側に位置し、ホームとは側線を渡る構内踏切で連絡していた。 駅前広場にはオンコ(櫟)の木を囲んだロータリーがあった。 駅名の由来は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「ソーペツ」(滝の川)に由来する。 地名の由来となった滝は、洞爺湖から壮瞥川が流れ出す地点にかかる壮瞥滝の事である。
駅名の由来となった壮瞥滝
※ 奥洞爺温泉郷のウェブサイトより
路線廃止となってからもしばらくは島式ホーム跡が残存し、旧駅構内は除雪した雪の捨て場となっていた。 後にホームや線路跡は整地されて道路に転用されており、道南バスの『壮瞥役場前』バス停留所及びバスの転回場となっている。 なお、撤去された駅舎は、1987年3月に日本テレビで放送された『さよなら大放送 おもしろ国鉄スペシャル』においてオークションに掛けられ、奄美大島の奄美アイランドに移設されている。
また、当駅跡から伊達紋別方に行った昭和新山の山麓近くに、上長和駅~当駅間の線路付け替えの名残として壮瞥川に架かっていた鉄橋の橋台が残存している。 以前は現地までの道がなく木々に覆われて探訪が難しい状況であったが、後に『昭和新山鉄橋遺構公園』として公園整備されている。 また、駅跡の伊達紋別方にあるバス停近くの国道沿いに、線路付け替え前の旧線跡を示す『国鉄胆振線跡』と記された案内塔が建立されている。
町工場のような建物だった
久保内駅舎
久保内駅(くぼないえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字久保内にかつて設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。
1981年度の1日乗降客数は69人との事。 駅名は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「クオ・ナイ」(弓の川)に由来する。
廃止時点で単式ホーム2面2線を有する駅で、ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な駅であった。 互いのホームは駅舎側ホーム東側と対向ホーム西側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側ホーム(南側)が上りの1番線、入口部分に短い上屋とベンチが設置された対向ホーム(北側)が下りの2番線となっていた。 その他、1番線の伊達紋別方から駅舎側に分岐する行き止まりの側線を1線有し、保線用モーターカーの留置に使用されていた。
廃線を控えた末期は
新大滝までの間で唯一の交換設備を持ち
廃止まで運転要員が配置されていた久保内駅
※ ウィキペディア画像を拝借
最終営業日まで、無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であった。 駅舎は構内の南側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。 乗車券類は簡易委託化されていた。
かつては鉄鉱石の積み出し駅であった。 線路の有効長は、貨物列車の行き違いに備えて長かった。
胆振線廃止後は、駅舎は撤去されて住宅が建築されている。 住宅地に収用された以外の駅跡敷地は草むらとなっている。
蟠渓駅
コチラの駅も倉庫と見まがう駅舎だった
※ まとめサイトの画像を拝借
蟠渓駅(ばんけいえき)は、かつて北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字蟠渓に設置されていた国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日乗降客数は20人との事。 駅名は当駅が所在した地名からで、その地名はアイヌ語の「パンケ」(川下)に由来する。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 だが、かつては、相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な駅であった。 使われなくなった駅舎の反対側の1線は、交換設備運用廃止後も伊達紋別方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っていた。 但し、路線廃止が近づく路線末期の1983年時点では、対向ホームは撤去されていた。
近くに鄙びた温泉がある為か
棒線駅で利用客が少ないにも関わらず
急行【いぶり】の停車駅だった蟠渓駅
※ まとめサイトの画像を拝借
無人駅(簡易委託駅)となっており、有人駅時代の駅舎は一部改修され、正面の事務室部分の窓は塞がれていた。 駅舎は構内の北西側に位置し、高台にあったホームとは階段付きの通路で連絡していた。
構内が緩くカーブしており、ホームもカーブしていた。
駅舎は路線廃止後に程なく撤去されたが、現在もホームと線路跡が残存しており、駅があった頃の雰囲気が残っている。 また、駅構内に上る階段も残存し、伊達紋別方の築堤やホーム上の備品も残存している。 駅跡の前に、代替バスである道南バスのバス停留所が設置されている。
温泉郷への駅として
急行【いぶり】も停車した北湯沢駅
:
現在は駅の奥の敷地に
温泉リゾートホテルが建っている
※ まとめサイトの画像を拝借
北湯沢駅(きたゆざわえき)は、北海道有珠郡大滝村北湯沢温泉町(現・伊達市大滝区)にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日乗降客数は25人との事。 以前のこの駅は地名通りの優園(ゆうえん)と名乗っていたが、温泉郷として著名になり出した終戦直後に北湯沢に駅名が改称されている。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 その駅舎は構内の西側にあってホーム中央部分に接し、駅舎の妻面に入口のある妻面構造の駅舎だった。 ホームは駅前広場と地続きで、柵で仕切っていた。
ホテルの玄関前に立てられた
『国鉄胆振線・北湯沢駅跡』標柱
※ まとめサイトの画像を拝借
路線廃止後に、駅のあった場所の奥に温泉ホテルが建設され、現在は建設された温泉ホテルに通じる道路となっている。 この温泉ホテルの玄関付近には、『旧国鉄胆振線 北湯沢駅跡地』という標柱がある。

胆振線の駅舎は
倉庫か軽作業場のような建付けが多いね
優徳駅(ゆうとくえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡大滝村字優徳(現・伊達市大滝区優徳町)にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度の1日乗降客数は24人との事。 駅名は、駅の所在する地名から採られている。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。 かつては、相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。 使われなくなった駅舎と反対側の1線は、交換設備運用廃止後も伊達紋別方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っていた。 但し、路線廃止が近づく路線末期の1983年時点では、ホームは撤去されていた。
無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の南東側に位置し、ホームから少し離れていた。 路線廃止後の駅跡は広い空き地となっている。
1993年に、新大滝駅跡より伊達紋別方へ約0.7km戻った地点から、当駅の先までの約5.5kmの線路跡が、サイクリングロードの『平成ふるさとの道』として整備されている。
駅舎というより軽作業場付の
民家という感じの新大滝駅
※ まとめサイトの画像を拝借
新大滝駅(しんおおたきえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡大滝村字本町(現・伊達市大滝区本町)にあった国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い1986年11月1日に廃駅となった。 1980年9月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。 1981年度の1日乗降客数は59人との事。
駅名は当駅の所在する地名に『新』を冠した。 地名(村名・現在は伊達市に編入)は、村の名所である三階滝に由来している。

旧村名の『大滝村』とも共通して
由来となった三階滝
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止時点で単式ホーム2面2線を有する駅で、ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム南側と対向ホーム北側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側ホーム(東側)が上りの1番線、対向ホーム(西側)が下りの2番線となっていた。 その他、2番線の倶知安方から2番線ホーム外側(乗降不可)に分岐し末端部で2線になる行き止まりの側線、その側線途中から分岐する行き止まりの側線を1線有した。 蒸気機関車が入線していた当時は、転車台を備えていた。

駅舎のホーム側は
ローカル線の駅らしい
雰囲気が漂っていた
※ 『プラットホームの旅』より
業務委託駅となっており、駅舎は構内の南東側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。
駅舎の左手側に別棟でトイレを有した。 かつては徳舜瞥鉱山からの鉄鉱石(褐鉄鉱)や硫黄鉱の積み出し駅であった。
路線廃止後は、旧駅構内の一部が『平成ふるさとの道公園』として整備され、ホームのあった位置には旧大滝村を象徴するオブジェが設置されてる。 また、伊達紋別方には、徳舜瞥鉱山から硫化鉄を搬送する為に敷設された引込線の高架橋が残存してる。 一方、優徳方向の廃線跡は遊歩道となっている。
その近くの駅構内跡の端には雇用促進住宅が建っている。
1993年に、当駅跡より伊達紋別方へ約0.7km戻った地点から、当駅の先までの約5.5kmの線路跡が、サイクリングロードの『平成ふるさとの道』として整備されている。