風来梨のブログ

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廃線鉄道 第30回 秋保電気鉄道

廃線鉄道  第30回  秋保電気鉄道 〔宮城県〕

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長町駅で停留する
秋保電気鉄道の電車
地方鉄道であったが集電装置は
軌道時代のままのトロリーポールだった
※ 『地方私鉄 1960年代の回想』より

秋保電気鉄道(あきうでんきてつどう)は、かつて宮城県仙台市の長町と同県名取郡秋保村(現仙台市太白区秋保町)の秋保温泉を結んでいた鉄道である。 1961年(昭和36年)に全線が廃止された。

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秋保温泉の先にある
『百名滝』の秋保大滝
※ ウィキペディア画像を拝借
この路線は古くから栄えた湯治場である
秋保温泉への湯治客と
沿線で産出される『秋保石』の
貨物輸送を目的に敷設された

秋保温泉を利用する湯治客の旅客輸送と、秋保で産出される凝灰岩の秋保石の貨物輸送を目的として、1914年に仙台市街中心部の長町から秋保温泉の間で、馬車軌道『秋保石材軌道』として開業したのが路線の始まりである。 1925年(大正14年)に電化を完了して以後は『秋保電気軌道』、1944年(昭和19年)に『秋保電気鉄道』と改称して運営された。

戦後は設備の老朽化や利用客の減少などにより経営が悪化、1959年に仙南交通自動車と合併して『仙南交通秋保線』と改称した経緯を経たが、1961年に廃止された。

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廃止・遺構となった後に
華やかなお色直しを受けて
失ってからそのものを惜しみ称えるのは
人間の持つ『業』なのか
※ 秋保温泉の紹介サイトより

秋保への鉄道敷設を目指す計画は1911年より始まる。 この年に秋保村の勇志によって、東北本線長町駅前から鉤取・茂庭を経由して秋保の湯元に至る馬車鉄道の建設認可を求める申請書が時の政府に提出され、これに対して翌年の1912年に特許状が発行された。

発起人総会や創立委員会の開催を経て、1913年6月に資本金20万円をもって秋保石材軌道株式会社が発足し、同年8月から軌道の敷設工事が進められた。 これと前後して、秋保の石材会社の取り込みや、陸羽東線開通前に宮城県内で小牛田と古川を結んでいた古川馬車鉄道からの軌道設備などの買い取りが行われた。

1914年10月に秋保から茂庭の間の工事は完了し、同年12月には全線が開通した。 当初設置された停車場は長町・富沢・鈎取・太白山・茂庭・北赤石・湯元の七つで、それらの構内は馬車の行き違いができる構造になっていた。

路線は、概ね改正鉄道敷設法別表の「本州ノ部 21. 宮城県長町ヨリ青根附近ニ至ル鉄道」に沿って敷設されており、長町~赤石は笹谷街道、赤石~秋保温泉は二口街道という江戸時代からの街道に沿っていた。 馬は会社でなく馭者の所有であり、カーブで馭者が吹くラッパの音から「トテ馬車」との愛称があった。

秋保石材軌道はその名称の通りに石材の運搬を主目的に建設されたが、開通後は秋保の鉱山で採掘された鉱石や、沿線で切り出された木材の出荷にも利用された。 秋保石については、鉄道院に対して輸送費用の割引を請願し、これが認められるなどして販路の拡大に成功した。

また、秋保村において、この軌道と接続する乗合馬車が運行されるようになるなどの交通事情の変化をもたらした。 しかし、馬車鉄道であるが故にそれほど速くはなく、時刻表による長町~秋保温泉間の所要時間は2時間20分程度であったが、運用した馬の調子によって前後した。 その為、旅慣れた者が早歩きで要する時間とあまり変わりなかったという。

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旧秋保温泉に静態保存されている
仙台市電の車両
旅客が馬車よりも速さと正確さを求め
それに応じて電車化した頃が
こういった鉄道の全盛期だった
※ ウィキペディア画像を拝借

こうした状況にあって、秋保石材軌道は1917年に路線の電化と軌道の改良を決定する。 新株が発行されて会社の資本金は80万円となり、電力会社との契約や鉄道院と内務省に動力変更の認可申請を行うなど準備が進められ、1922年に秋保石材電気軌道株式会社、1925年には秋保電気軌道株式会社へ改称し、工事費として借り入れた20万円をもって電化工事と軌道工事に着手する。

工事に当たっては同年4月11日から軌道の営業を約2ヶ月間休止し、6月14日から電車や電気機関車が新しい軌道を走り始めた。 この時、秋保電気軌道が保有していた車両は、電気機関車2両・定員36名の旅客用電車3両・定員40名の旅客用付随車2両・2トン貨車8両・3トン貨車2両であった。

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軽便鉄道法全盛時代の
1930年から終戦後数年が
この鉄道の全盛期だった
※ 秋保・里センター(温泉療養施設)
ウェブサイトより

路線の改良によって秋保と長町の間は約1時間20分で結ばれ、1日に10往復の列車が運行されるようになる。 以前は石材が主だった輸送の内訳も、この頃になるとコンクリートの普及によって石材の需要は低下し、反対に旅客が増加した為に貨客に逆転が生じた。

1936年になると、この年に開通した仙台市電・長町線と秋保電気軌道の線路が長町で接続されて、仙台市電の車両の一部が秋保電気軌道の車庫を利用できるようになった。 1937年に地方鉄道補助法が改正されると、秋保電気軌道を地方鉄道に昇格させる陳情が出されるようになり、太平洋戦争中の1944年にこれが実を結んで秋保電気鉄道へと名を変えた地方鉄道となって、省線(戦後の国鉄)との間に連絡運輸を結んだ。

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旧制第二高等学校(現 東北大学)の
沿線への移転により
利用客で賑わう西多賀駅
※ 『地方私鉄 1960年代の回想』より

戦後になると車両メーカー手持ちの注文流れの新車を3台導入し、沿線の三神峯(西多賀付近)の旧陸軍幼年学校に戦災で校舎を失った旧制第二高等学校が移った事から、通学利用者により長町と西多賀の間では列車が満員になるほど混雑し、この区間のみ増発するほどだったという。 しかし、旧制二高が東北大学に統合され、1958年に仙台市の片平(現在の青葉区)に移転するなど、利用者数は減少の一途を辿った。

経営再建の為、軌道のさらなる改良と仙台駅前への路線延伸、仙台市への譲渡、他社との合併の三つの案が検討された。 当初は路線延伸案が有力視されて秋保村もこの案を期待したが、頓挫した。
次に仙台市は、市内交通の一元化と設備近代化のために買収を計画する。 秋保電鉄が以前より老朽化した設備の改善を仙台陸運局から指摘されていた事や、沿線である当時の秋保村と生出村、秋保村観光協会から買収の請願を出されていた事も要因だった。

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長町付近をゆく在りし日の
仙台市電(1976年3月末廃止)
生き残り策として仙台市電との
統合も画策されていた
※ 仙台市ホームページより

仙台市交通局に統合、インターアーバンとして仙台市電と一体化して直通運転するという具体案も出され、長町駅に市電との連絡線を設け、電車の直通試験が行われた事もあったほか、買収価格や詳細も決まっていたと言われている。 市議会でも案が採択されるまで進んだものの、1953年6月の市議会で買収反対派が巻き返して否決された。

営業末期の1950年代後半には沿線の仙台市南部の宅地造成が始まり、朝夕は通勤客で賑わうなど観光電車より通勤電車としての姿も見え始めており、造成地に新駅も設置されたほか、本格的な高速鉄道への規格向上も検討された。

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公営の仙台市電がパンタグラフによる集電化など
設備の近代化を実施したのに対し
民営の秋保電気鉄道はその資力不足から
トロリーポール集電など旧態依然の設備のままであった
※ 『地方私鉄 1960年代の回想』より

だが、悪化した経営状況の中で、鉄道線への設備投資を最小限に留める方針をとった為に、ボギー車化はなされたものの、最後までトロリーポール集電、バッファ付きのねじ式連結器、スタフ閉塞方式のままで、同時期の仙台市電が全車ボギー車、パンタグラフ集電化、自動信号化(トロリーコンタクターによるポイント操作)を完了していたのとは対照的であった。

秋保電鉄は仙台市内での路線バス事業への転換を画策、市内でのバス事業拡充を望んでいた仙南交通自動車との合併が決まり、1959年に仙南交通株式会社(現存する同名の会社とは無関係)となり、仙南交通・秋保線に改称される。 合併後はただちに路線バス事業への転換を進め、1960年に鉄道事業の廃止が決定となり、その決定を受けて翌1961年5月7日をもって営業を取り止め、翌8日に閉業式が行われた。
但し、設備の撤去工事のため、8月まで臨時運行を続けた。

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秋保電気鉄道の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離(営業キロ):長町~秋保温泉 16.0km・軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:全線(直流600V架空単線式)
駅数:12駅(起終点駅含む)
長町・東北特殊鋼(1946年駅廃止)・西多賀・鈎取(かぎとり)・月ヶ丘・旗立・太白山(たいはくさん)・
萩の台・茂庭・北赤石・磊々峡(らいらいきょう)・秋保温泉

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秋保温泉駅跡
旧仙台市電の車両が
お色直しを受けて静態保存されている
※ じゃらんのウェブサイトより

  秋保電気鉄道 年表
1911年(明治44年)      秋保軌道として軌道特許申請。
1912年(大正 元年)10月21日  軌道特許状下付。
1913年(大正  2年)  6月22日  秋保石材軌道株式会社設立。
1914年(大正  3年)12月23日  馬車軌道で長町~湯元(後の秋保温泉)開業。
1922年(大正11年)10月29日  秋保石材電気軌道へ改称。
1925年(大正14年)  6月14日  軌間を762mmから1067mmに改軌、馬車軌道から電気鉄道に切り
               替えて輸送力を増強する。
           9月17日  秋保電気軌道へ改称。

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秋保温泉駅の車庫跡は民家となって
所有者がかつての車両の
モニュメントを展示している
※ ウェブサイト『みんカラ』より

1926年(大正15年)      湯元駅を秋保温泉駅に改称。
1935年(昭和10年)      長町裏町駅(後の東北特殊鋼)開業。 富沢駅を西多賀駅に改称。
1944年(昭和19年)  7月29日  秋保電気鉄道へ改称。
1945年(昭和20年)  1月  1日  軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更。
1946年(昭和21年)      松場駅(後の磊々峡)開業、東北特殊鋼駅廃止(両駅とも月日不詳)。
               その後も月ヶ丘・萩の台と開業する
1950年(昭和25年)      車両のボギー化改造。
            6月27日  仙台市議会によって、秋保電鉄買収案が否決となる。
1959年(昭和34年)   7月  1日  仙南交通自動車と合併し仙南交通設立、仙南交通・秋保線へ改称。
1960年(昭和35年)       秋保線の廃止を決定。

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運行最終日と閉業式に
運行された花電車
※ 交通新聞社『思い出の秋保電車』より

1961年(昭和36年)   5月  7日  秋保線営業運行最終日。 翌5月8日に秋保線廃止となり閉業式が
                行われる。
1970年(昭和45年) 10月  1日  宮城バスおよび宮城中央バスと合併、宮城交通(初代)発足。

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現在は山形自動車道で越えている
標高906mの笹谷峠
秋保電気鉄道はこの峠で
宮城・山形県境を越えて山形市内を結ぶ
壮大な延伸計画を抱いていた
※ ウィキペディア画像を拝借

  幻の延伸計画
全線開通の後、川崎町内の青根温泉へと至る路線延長が計画され、特許も取得していたが実現しなかった。 2007年7月に仙台市内で発見された「仙山電気鉄道秋保笹谷峠間線路踏査図」(1922年作成)によると、路線を山形県まで延長する計画も存在していた事が判明。 これは川崎町から笹谷峠を越えて山形駅を経由し、終点を神町駅とするもので、途中には野上(のじょう)・古関・笹谷の各駅が置かれる予定だった。

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線路跡のバス専用道を
ゆく宮城交通の路線バス
ウィキペディア画像を拝借

   営業実績と路線廃止後の処置
旅客輸送のビークだった昭和20年代の1951年は、年間旅客輸送量が184.5万人であったが、年を経るごとに旅客輸送実績が低下し、末期の廃止前年は年間旅客輸送量が70.2万人にまで落ち込んでいた。

旅客減で営業収入を営業費が大きく上回るようになり、1960年度には従業員数をほぼ半減したにもかかわらず、営業係数162(100円の売上高を上げるのに162円の経費が必要)と末期的症状をきたしているのが見て取れる(ピーク時の1951年の営業係数は94と黒字経営)。 仙南交通との合併後、多額の投資を必要とする高速鉄道化を行わずに、低廉な投資で済むバスに転換したのは賢明な選択だったと言える。


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最近『子供たちの未来の為に』とかいう
チョンの成り済ましのブログが
頻繁に閲覧履歴に足跡を
つけてくるので注意しましょう

幼児の写真を持ち出して
『北朝鮮の子供に罪はあるのか?』とか言って
ミサイルを向けて日本を恫喝する
北朝鮮の援助を乞う悍ましき内容だからです

それに諸悪の根源は安倍政権で
「平和を維持する為に倒さねばならない」とか
PCR検査の更なる拡充の主張とか
反日チョンが牛耳ったマスニダや
パヨクの主張そのままです
案の定これに乗った安倍政権により
これらヒトモドキの思惑通りに
感染者数がぶり返しましたしね

医療感染学の専門家が指摘している
無節操なPCR検査の拡充は
「院内感染や検査待機者への二次感染で
反って感染を拡大させる」という
警告に反したのだから当然の結果でしょうな

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やらねばならんのは
検査の拡充という『魔女探し』ではなく
感染源であるクラスター要因の
徹底的な規制なのに


クラスター要因の胴元が
ほぼ全てチョンやシナなので
このヒトモドキ共もその阻止に必死ですな
一応アクセス拒否をやってみたけど
上手くいくかなぁ




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No Subject * by 鳳山
秋保温泉は名取川の上流にあるんですね。地図を見ると川沿いの景勝地を走っているみたいで、往時は風景を楽しめたんでしょうね。貴ブログのおかげでいろんな地方の情報が知れて勉強になります。

Re: No Subject * by  風来梨
鳳山さん、こんにちは。

私もその路線のあった土地柄の事や、鉄道が敷設された拝啓、廃止に至った経緯など、記事を書いている度に思いっきり学んでいます。 記事をかくのが、色々な事を知り学ぶ機会となってますね。 そして、他のブログさんを見るのも、色々と学べる事が多く有意義ですね。

No Subject * by hanagon60
近代化の遅れ、道路整備と共にその役割を終えたその他の地方鉄道と同じく、秋保電鉄も同様の時期に終焉を迎えたのですね。
ここは仙台赴任時に廃線訪問した事があります。2008年の記録ですが。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-409.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanagon60さん、こんにちは。


>近代化の遅れ、道路整備と共にその役割を終えたその他の地方鉄道と同じく、秋保電鉄も同様の時期に終焉を迎えたのですね。
廃止線を語ると、そのほとんどにこの廃止理由が着いてまわりますね。

逆に今は、気象災害で被害を受けて復旧するお金がなかったり、「金をかけてまで復旧する意味は無し」と断じられたり・・ですね。


>2008年の記録
いろいろ周られてるようで羨ましいです。

コメント






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No Subject

秋保温泉は名取川の上流にあるんですね。地図を見ると川沿いの景勝地を走っているみたいで、往時は風景を楽しめたんでしょうね。貴ブログのおかげでいろんな地方の情報が知れて勉強になります。
2020-08-18 * 鳳山 [ 編集 ]

Re: No Subject

鳳山さん、こんにちは。

私もその路線のあった土地柄の事や、鉄道が敷設された拝啓、廃止に至った経緯など、記事を書いている度に思いっきり学んでいます。 記事をかくのが、色々な事を知り学ぶ機会となってますね。 そして、他のブログさんを見るのも、色々と学べる事が多く有意義ですね。
2020-08-20 *  風来梨 [ 編集 ]

No Subject

近代化の遅れ、道路整備と共にその役割を終えたその他の地方鉄道と同じく、秋保電鉄も同様の時期に終焉を迎えたのですね。
ここは仙台赴任時に廃線訪問した事があります。2008年の記録ですが。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-409.html
2020-08-21 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagon60さん、こんにちは。


>近代化の遅れ、道路整備と共にその役割を終えたその他の地方鉄道と同じく、秋保電鉄も同様の時期に終焉を迎えたのですね。
廃止線を語ると、そのほとんどにこの廃止理由が着いてまわりますね。

逆に今は、気象災害で被害を受けて復旧するお金がなかったり、「金をかけてまで復旧する意味は無し」と断じられたり・・ですね。


>2008年の記録
いろいろ周られてるようで羨ましいです。
2020-08-22 *  風来梨 [ 編集 ]