2020-08-12 (Wed)✎
廃線鉄道 第29回 茨城交通・水浜線 〔茨城県〕
水浜線(すいひんせん)は、かつて茨城県の水戸市と那珂湊町(後の那珂湊市で現在のひたちなか市)を結んでいた、茨城交通の路面電車である。1966年(昭和41年)に全線が廃止された。
古くから漁業と水運で栄えた磯浜(現在の大洗町)や那珂湊などの茨城県沿岸地域であったが、1889年に内陸部の水戸に水戸鉄道が開通(開通区間は現在の常磐線の一部)し、1896年に日本鉄道が東京の隅田川駅まで開通すると、交通手段が内陸を通る鉄道に移って沿岸地域の経済を支えていた海運業に陰りが見られるようになった。
各地で鉄道や軌道が開通した明治期から、水戸近辺においても海運業が衰退しつつあった沿岸地域と鉄道開業で地域交通の中心になった水戸市を結ぶ鉄道や軌道の敷設が計画され、磯湊鉄道・水浜電気鉄道・水戸水力電車・水戸海岸鉄道などが続々と出願したがいずれも却下あるいは未成に終わり、同地に電気軌道が開通したのは大正も半ば過ぎであった。
その電気軌道の開通であるが、太田町(現・常陸太田市の一部)の勇志が中心になって、水戸と磯浜を連絡する軌道事業と沿線地域への電力事業を目的として、水戸海浜電気軌道の設立を出願し、1920年に路線の特許を申請した事から始まり、翌1921年に社名を改めて水浜電車として設立に至る。
開業当初は偕楽園の観光や
大洗海岸への海水浴客輸送で
続行運転がなされるなど
業績好調だったとの事
※『茨城交通・水浜線』より
1923年12月11日にまず電力事業を開始し、軌道事業は12月28日に水戸市下市の浜田~磯浜が開業し、以降は延長開業により1925年に上市の大工町まで開通した。 開業後の業績は好調であり、春先には偕楽園へ梅見の観光客輸送、夏季は磯浜・大洗海岸への海水客輸送で活況を呈した。 業績の好調を踏まえた水浜電車は、沿線での草競馬の開催など積極的な乗客誘致策の実施と、計画路線の建設に着手する。
1913年に勝田~湊間を開通させていた湊鉄道(現ひたちなか海浜鉄道湊線)に対抗するべく湊町(現・ひたちなか市)方面への路線を計画し、延長が完成するまでの暫定措置として、1923年より涸沼川橋梁横の乗船場から湊町までの連絡汽船を就航させて30分間隔で運行している。 なお、磯浜~祝町の軌道は1926年に延長開業し、連絡汽船の運行は休止となっている。 また、祝町~海門橋は1927年に延長開業している。
4代目海門橋
コンクリート造りの優雅な橋であったが
設計不良&洪水被害によって
完成後僅か8年で水浜線の線路もろとも崩落した
※ ウィキペディア画像を拝借
路線の延伸も積極的行われ、西側の終端である水戸市西側の袴塚へは1928年に延長開業し、近隣の陸軍歩兵第二連隊関係者の利用促進を図っている。 一方の東側の終端は、4代目海門橋の完成に伴い橋上に併用軌道を建設して、1930年に湊町の入口への乗り入れを実現して、設立当初の計画路線をほぼ全通させている。
この路線延長によって、路面電車規格で運転速度は低いものの、水戸市街の中心部と・大洗・湊方面を結ぶ都市間連絡鉄道の性格を持つ軌道線となった。 全通後は既存バス路線との過酷な競合によって一時期軌道部門が赤字に転落するものの、配電事業の地域拡大で乗り切っている。
この頃から、赤字となった軌道を含む運輸部門の経営攻勢に転じていく。 水浜電車は、茨城県東南部の乗合自動車事業者や民営鉄道事業者の経営権取得や買収を積極的に行い、一時期運輸部門を赤字に追い込んだライバルの本橋自動車商会を1932年に買収し、同年10月に新たに設立した傍系の大水戸自動車に事業を引き継がせる事で競争に終止符を打つ。
創生期の水浜電車のライバルだった
乗合自動車の本橋自動車商会
:
乗合自動車業への進出に転じる積極経営で
ライバルも買収して終止符を打った
※『本橋自動車商会』より
また1934年よりは、大宮自動車など地域の乗合自動車の株式を取得して傍系の袋田温泉自動車を設立し、1935年に大水戸自動車から乗合自動車事業を譲渡されて、水浜電車自動車部が営業を開始する。
乗合自動車事業の収入は軌道事業の収入を上回っており、経営の大きな支えになった。
1939年には湊鉄道(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)の株式の90%を買い集めて経営権を握り、翌年には慢性的に経営不振であった茨城鉄道(後の茨城交通茨城線)の経営に参加して、陸運統制令を待つまでもなく、地域交通の事実上の経営の統一を実現する。
地域交通の経営の統一を実現した後であるが、1942年4月の配電統制令によって、収益的に軌道事業を上回っていた配電事業を関東配電への譲渡によって手放す事になり、重要な収益源を失うに至る。
また、本業の軌道事業も、1938年の水害による海門橋流出で湊〜海門橋間の運休を余儀なくされ、経営上苦しい時期に直面する。
だが、戦時色が濃厚になるにつれ、軌道を取り巻く状況が一変する。 それは、乗合自動車に使用する燃料やゴムタイヤが物資統制により入手困難となり、正常な運行が次第に困難になったのである。
満足に走れなくなった乗合自動車の利用客が軌道線に殺到し、1930年上期に9万8000円だった軌道部門の収入が、1943年上期には62万2000円と急増している。 乗車待ちの利用者の列を尻目に、車外まで乗客が鈴なりになった電車が出発していく状態が戦後まで続く。
こういった状況の中、大戦下の国策であった陸運統制令による交通統合に伴い、1944年に茨城交通を設立する。 旧水浜電車の軌道線は同社の水浜線となり、同社の茨城線の上水戸への連絡線を開業して袴塚から起点を移した。
終戦直前の水戸空襲では軌道や架線設備等が被災したが、空襲に備えてあらかじめ郊外に保管していた車両は無事で、破壊された設備の復旧に努めて空襲の3日後には浜田~磯浜間を部分復旧させ、2ヶ月後の10月には全線で運行を再開している。
戦後まもなくは戦後復興需要で
どの列車も満員状態だった
※『茨城交通・水浜線』より
戦後は昭和20年代が全盛で、地元の交通機関としての機能と夏の海水浴客輸送で年間約800万人を輸送した。 1951年より在来の小型車よりも収容力を増した半鋼製ボギー車の新造が開始され、保有する車両は30両を数え、戦後急速に増加し始めた通学客を続行運転で大量輸送する盛況であった。 ラッシュ時の消費電力増大に伴い、1954年に浜田と上水戸の両変電所の容量を増大させている。 1956年には、茨城線の上水戸~大学前間に水浜線電車の直通運転を開始している。
しかし、水浜線の黒字経営は同年が最後で、以降赤字経営に転落する。 この頃から茨城交通は経営の主軸を路線バス事業にシフトし、バス路線を拡充しつつ増発してフリークエントサービスを実施する一方で、軌道事業の経営合理化を進めていく。
1928年の全線開通時には全線通し運転の電車を22分間隔で運転し、さらに間に区間運転が入る頻発ぶりだった。 茨城交通設立から8年後の1952年にも上水戸〜大洗の電車は28分間隔で運転し、水戸駅前や浜田への区間運転が間に入るフリークエントサービスを実施していたが、昭和30年代から始発の切り上げ・終電車の切り下げや運転間隔の間引き、主要駅の無人化などの経費節減策の実施が相次ぎ、待たずに利用できた電車の便利さは次第に失われていく事となる。
モータリゼーションによる利用客の減少と
バス事業への転換促進による
軌道事業の合理化というWパンチで
廃線への坂を転げ落ちていったのである
※ ウィキペディア画像を拝借
それは続々と新車を投入する一方で、1962年までに減便で余剰になった小型の単車を全廃し、保有車両を16両に減車させる。 その一方で、茨城交通は水浜線と並行する区間に路線バスを増発させている。
単線であった水浜線は、対向車との行き違い待避で時間ロスが発生し、表定速度が低い為に目的地までの所要時間が長く、これによって電車の利用客は次第に運転本数も多く待避待ちがないバスに流出していったのである。
利用客誘致の為に途中停留所を新設するなどしたが、昭和30年代後半には年間乗客数が300万人を割るほどにまで減少する。 さらにモータリゼーションが促進されると、水浜線の路面併用区間が水戸市街中心部を通る国道50号線の渋滞の原因とみなされ、渋滞解消を理由に撤去要請が出されるに至る。
1963年10月から大洗発の電車は原則として茨城線の大学前まで直通運転していたが、徹底した合理化によるさらなる始発・終発時刻の切り上げ・切り下げや運転本数削減が利用客離れを促進し、1964年上期には乗客数が約125万7000人、同年下期には約48万人と激減した。
1965年6月に部分廃止となった
上水戸(袴塚)〜水戸駅前の予想路線図
:
先行廃止区間は道路との併用区間が多くを占め
「車の通行の邪魔だ」と地元議会から
路線撤去要請がなされての廃線だった
これらの状況を受けて、1965年6月11日に水戸駅前~上水戸3.6kmの部分廃止を実施する。
短縮廃止と同時に比較的新しい車両10両を仙台市電に売却し、残った車両は戦前に製造された旧型の木造車わずか6両で、合理化で減便されて最盛期の倍の日中48分間隔になっていた運転間隔は、1時間間隔とさらに減便された。
利用客の多数を占めた
水戸駅より北側の区間が
「車の通行の邪魔だ!」と
先に排斥されたのだった
※ 『地方私鉄 1960年代の回想』より
多数の利用客にとっての目的地であった上市地区中心部の商店街・上水戸・茨大前の手前の水戸駅前までしか到達できなくなったあげくに大幅に減便された水浜線は、激減していた利用客を目的地まで直通できる大増発された代替バスにさらに流出させてしまい、同年上期には乗客数約25万1000人、営業収入562万円・営業損失1373万円と赤字額も大きく絶望的な状況となった。
晩年は開店休業状態で
「廃線有りき」の様相を呈していた
※『茨城交通・水浜線』より
事実上軌道事業全廃への準備段階とも言える開店休業に近い状態でかろうじて営業を継続したが、もはや水浜線には自社の路線バスに対する競争力はなく、茨城交通は1966年にバス転換を決定する。
5月23日から造花や看板で飾り付けた廃止記念の装飾電車を運転し、部分廃止後に残っていた水戸駅前~大洗14.4kmの全線を、5月31日の運行を最後に廃止して、翌6月1日より同社の代替バスに転換された。
茨城交通・水浜線(水戸駅前~湊)の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離:上水戸 - 湊 20.5km・軌間:1,067mm・複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V架空単線式)・変電所:浜田・車庫:浜田(検修施設を併設)
併用軌道区間:公園口~水戸駅前、東柵町~浜田、浜田〜大洗は専用軌道
駅数:36駅(起終点駅含む)
袴塚(1944年の上水戸へのターミナル駅変更により停留所休止→1958年正式に廃止)・
上水戸・谷中・馬口労町入口・一中前・砂久保町・公園町・大工町・泉町三丁目・泉町一丁目・
南町四丁目・南町三丁目・局前・〔水戸駅前〕 ※ 1965年6月の部分廃止区間
水戸駅前・棚町・三高下・一高下・東棚町・本一丁目・本三丁目・本三丁目・浜田・谷田・六反田・
栗崎・東前・大串・稲荷小下・塩ヶ崎・平戸・磯浜・大貫・曲松・仲町・東光台・大洗・
祝町・願入寺入口・海門橋・湊 ※大洗~港 1958年に廃止
駅員配置:上水戸、谷中、磯浜、大貫、曲松、東光台、大洗には駅舎があり駅員が常駐した事もあったが、末期は茨城線との接続駅であった上水戸以外は、全て駅員無配置となった。
大洗駅は軌道路線の駅とは
思えぬ程に立派だった
※ 水戸市のウェブサイトより
茨城交通・水浜線 年表
1920年(大正 9年) 4月27日 水戸海浜電気軌道、大工町~磯浜の軌道特許申請、同年8月30日特許。
1921年(大正10年) 8月14日 水浜電車設立。 本社は水戸市柵町。
1922年(大正11年)12月28日 浜田~磯浜が開通。
1923年(大正12年)11月 5日 浜田~東柵町が段階的に開通。
12月20日 水浜電車連絡汽船発着場(涸沼川橋梁横)〜湊 の連絡船の運航開始。
1925年(大正14年) 2月25日 1924年から段階的に東棚町~大工町が開通。
2月26日 磯浜~海門橋の軌道敷設特許。
1926年(大正15年)12月14日 磯浜~祝町が開通。 水浜電車連絡汽船の運行を休止。
1927年(昭和 2年) 1月12日 大工町~袴塚の軌道敷設特許。
2月 3日 祝町~海門橋が開通。
1928年(昭和 3年) 7月10日 1927年から段階的に袴塚~大工町が開通。
11月19日 海門橋~湊の軌道敷設特許。
1930年(昭和 5年)11月22日 海門橋~湊 が開通して全通。
路線の命運を委ねた
落橋4回のいわく付の橋・海門橋
写真は現在の5代目の橋だ
:
橋下にあるコンクリートブロックが
水浜線もろとも崩落した
4代目橋の基礎との事である
※ ウィキペディア画像を拝借
1938年(昭和13年) 6月28日 水害で那珂川に架かる海門橋が流失、祝町~海門橋~湊が休止。
1943年(昭和18年) 5月19日 上水戸(新)〜光台寺裏(谷中付近)の軌道敷設特許。
1944年(昭和19年) 8月 1日 県内交通統合で、水浜電車・茨城鉄道・湊鉄道などが合併し茨城交通
が発足し、同社の水浜線となる。
同時に上水戸(新)〜光台寺裏(谷中付近)の開通と
袴塚~上水戸(旧)~光台寺裏が休止となる。
1945年(昭和20年) 5月 8日 大洗~祝町間が不要不急線に指定され休止。
8月 2日 水戸空襲により全線休止。
8月 5日 浜田~磯浜間が運転再開(10月1日までに全線復旧)。
1952年(昭和27年) 2月 1日 上水戸~大洗間で直通運転開始。
1953年(昭和28年)10月20日 休止中だった袴塚~光台寺裏及び、大洗〜湊を廃止。
1956年(昭和31年) 2月10日 茨城線の上水戸~大学前に乗り入れ開始。
1962年(昭和37年) 8月16日 合理化により運行本数の43.6%を削減。 磯浜駅を無人化。
運転回数の削減に伴って区間運転用の単車を全廃し、営業用車両を
16両に削減。 この年バス交通への転換を表明。
1963年(昭和38年) 9月30日 茨城交通本社を水浜電車設立以来の柵町から、大学前の自動車営業所
敷地内に移転。
10月 日中の運転間隔を48分毎に減便。
1964年(昭和39年)12月12日 水戸市議会が水浜線撤去の要望を決議し、茨城交通社長に通達。
1965年(昭和40年) 6月11日 上水戸~水戸駅前の営業を廃止。 保有車両を16両から6両に削減し、
日中の運転間隔を1時間毎に減便。
1966年(昭和41年) 6月 1日 全線の営業を廃止。
昭和の20年代までは路面区間での
列車交換が頻繁に行われるほどに
活況を呈していたのであるが・・
※ 水戸市のウェブサイトより
運行間隔の推移と廃線後
戦前の全線開業時
袴塚~海門橋の運行は22分間隔、大洗~水戸駅前の所要は44分。
1955年(昭和30年)頃
全線の直通を基本とし、運行は26分間隔。
1963年(昭和38年)10月改正以前
水戸駅前で系統を分割していた。 上水戸~水戸駅前・水戸駅前~浜田〜大洗・水戸駅前~浜田の3系統で、一部列車は大学前へ乗り入れていた。
1963年(昭和38年)10月改正以後
(茨城線)大学前~上水戸~水戸駅前~大洗の直通に改めた。 日中48分間隔で上り最終は大洗発19時、下りは水戸駅前を18時36分発。 他に大学前~水戸駅前と大学前~浜田の折り返し運転があった。
部分廃止以後の運転は不明。
朝の混雑時には2~5両の続行運転が行われていた。 開業から廃止まで運転手と車掌が乗務するツーマン運転で、ワンマン運転は実施しなかった。
水浜線と同じルートをゆく
茨城交通バス・50系統
※『茨城交通バス』より
路線廃止後より現在は、同社の路線バスの〔50系統〕が、茨大前~栄町〜水戸駅~三高下~大洗〜那珂湊でほぼ同じルートを走る。
未成線が開業していたら
港町でこんな光景が見れたのだろうか?
※ 『地方私鉄 1960年代の回想』より
未成線
湊~辰ノ口~湊町に延伸計画があった。 湊は海門橋北側にあり、さらに市街中心部である釈迦町から、八幡下への延伸が計画されていた。
だが、湊町中心部への計画路線は、路線敷設予定地の所有者が土地収用の対価として買収予定価格の4倍程度を要求するなどして進展せず、1931年12月16日付の「辰ノ口、湊町間工事施行認可申請期限延期の件」と、1932年4月28日付の「辰ノ口、湊町間工事竣功期限延期の件」と再々に渡って着工の延期を申請したが、ついには1933年5月9日付の「辰ノ口、湊町間軌道特許失効の件」となって特許を失効してしまう。
最終的には、1934年3月13日付の「辰ノ口、湊町間起業廃止の件」となって、延長計画は消滅した。
なお、企業としての水浜電車による湊町中心部への進出は、水害による海門橋崩落で湊~祝町の運行休止を余儀なくされた翌年の1939年に、湊鉄道(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)の経営権を掌握する事で達成した。
ヤマから帰った直後で勘が狂って
この記事を書くだけで半日かかったよ
それにしても今年は
何かにつけてダメダメだね
ヤマも入っていた全ての日が雨降りで
3日間で歩いた40kmは
全てババ降りの雨の中だったよ
写真も全く撮る機会がなかったしィ
それで寝袋が雨に濡れて
幕営不能となって山荘に泊るハメとなり
持ち金が足りなくなって撤退となったしィ
:
ホント散々・・
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