風来梨のブログ

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廃線鉄道 第28回 名鉄・福岡線、岡崎市内線、挙母線

廃線鉄道  第28回  名鉄・福岡線、岡崎市内線、挙母線 〔愛知県〕

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岡崎市内線の最終日に
運行された花電車
※ ウィキペディア画像を拝借

名鉄・岡崎市内線(おかざきしないせん)は、愛知県岡崎市内の岡崎駅前と岡崎井田を結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の軌道線〔路面電車〕である。 便宜的には福岡線(ふくおかせん)の福岡町〜岡崎駅前及び、挙母線(ころもせん)の岡崎井田〜大樹寺間を含む福岡町〜大樹寺の区間を指す。

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全身が馬車鉄道だった
名鉄・岡崎市内線
※ ウィキペディア画像を拝借

国鉄岡崎駅と岡崎の市街地が離れていたのを結ぶべく、当初は馬車鉄道として開業した路線である。 1899年に岡崎停車場(現在の岡崎駅)〜明大寺間が開業する。 その後は順次延伸して、1924年に路面電車として岡崎駅前~大樹寺が全通している。

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路面電車が街中を行き交った頃
この国は最も情緒豊かであった
※ ウィキペディア画像を拝借

1951年には福岡町〜岡崎駅前を延伸したが、モータリゼーションの流れに押されて1962年に全線が廃止された。 新設軌道であった福岡町〜岡崎駅前間の廃線跡は名鉄バスのバス専用道路に転用されたが、これも2016年3月末に廃止されている。

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挙母線のサヨナラ列車
※ ウィキペディア画像を拝借

挙母線(ころもせん)は、愛知県岡崎市の岡崎井田駅から同市の大樹寺駅を経て、同県豊田市にある名鉄三河線の上挙母駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。

正式な起点は岡崎井田駅であるが、岡崎井田〜大樹寺は軌道線の岡崎市内線の車両で運行され、実態として岡崎市内線の一部と同様となっていた。 岡崎井田~大樹寺は、岡崎市内線の路線廃止に伴って1962年に廃止されている。

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この路線に代わって
敷設された愛知環状鉄道は
輸送密度8000人超だそうだ
鉄道として十分やっていける
路線だった挙母線
※ グーグル画像を拝借

残る大樹寺~上挙母間も、岡崎市内線廃止で岡崎市中心部への鉄道ルートがなくなって乗客が減少した事や、国鉄岡多線(現愛知環状鉄道線)の建設用地として区間の一部を譲渡する事が決定した為に1973年に廃止となった。

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挙母線内では三河線を介して
特急列車も運行されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

列車は線内折り返しのほか、三河線に直通して豊田市駅や猿投駅・西中金駅・知立駅(上挙母駅でスイッチバック)などへ向かうものがあった。 普通列車のほか、特急列車も運行されていた。

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名鉄・挙母線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
挙母線の路線距離(営業キロ):本線・支線・軌道区間を併せた総延長は13.0km
挙母線全長11.5km(岡崎井田〜大樹寺 0.5km、大樹寺~上挙母 11.0km)
門立支線1.5km(三河岩脇~門立)
軌間:1067mm・複線区間:なし(全線単線)
電化区間:岡崎井田〜大樹寺と三河岩脇~門立(直流600V)
     大樹寺~上挙母(直流1500V、但し岡崎市内線営業時の大樹寺駅構内は直流600V)
駅数:13駅(起終点駅、岡崎井田駅および門立支線2駅含む)
上挙母・トヨタ自動車前・鴛鴨・渡刈・細川(門立支線の廃止以前は上市場)・三河岩脇・八ツ木・
岩津・百々・大樹寺・岡崎井田
※ 鴛鴨・八ツ木・百々は挙母線の廃止以前に駅廃止
門立支線 〔三河岩脇〕・細川(挙母線・本線の細川とは別駅)・門立

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名鉄・岡崎市内線、福岡線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

岡崎市内線・福岡線の路線距離:8.3km
福岡線:福岡町〜岡崎駅前 2.5km
(うち2.4kmが地方鉄道法による鉄道線、0.1kmが軌道法による軌道線)
岡崎市内線:岡崎駅前~岡崎井田 5.8km(軌道法による軌道線)
軌間:1067mm・複線区間:岡崎駅前~康生町間(岡崎市内線)・電化区間:全線(直流600V)
駅数:岡崎市内線 16駅(起終点駅含む)
岡崎井田・伊賀町・八幡社・神明社・能見町・本町・康生町・岡崎殿橋・東岡崎駅前・大学下・
芦池橋・戸崎町・戸崎口・北羽根・岡崎駅前
※ 岡崎井田のも鉄道線における『駅』で、それ以外は軌道線における『電停』であった
駅数:福岡線 5駅(起終点駅含む)
〔岡崎駅前電停〕・桂町・東若松・西若松・福岡町
※ 岡崎市内線と接続する岡崎井田のみ軌道線における『電停』で、それ以外は鉄道線における『駅』
  となっていた

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モータリゼーションの波に
押されて淘汰されていった路面電車
この岡崎市内線もその一つだ
※ ウィキペディア画像を拝借

  名鉄・福岡線・岡崎市内線・挙母線 年表
1898年(明治31年)   2月14日   岡崎馬車鉄道 設立
1899年(明治32年) 1月  1日   岡崎停車場(後の岡崎駅前電停)〜明大寺 軌間762mmの単線
                 軌道で開業
1907年(明治40年)   6月22日   康生町まで延伸
1911年(明治44年) 10月 2日   電気鉄道への脱皮を計画し、社名を『岡崎電気軌道』と改称
1912年(大正元年)   8月31日   電気鉄道の運転開始 同時に1067mm軌間へ改軌
1921年(大正10年)  8月10日 軌道特許状下付(岡崎市康生町〜同市井田町)
1922年(大正11年)  4月20日   岡崎電気軌道に対し鉄道免許状下付(岡崎市井田町~東加茂郡松平村)
1922年(大正11年)       岡崎停車場~殿橋(後の岡崎殿橋電停)間を複線化
1923年(大正12年)  9月  8日   康生町〜岡崎井田 延伸
1924年(大正13年)12月27日   岡崎電気軌道により、岡崎井田〜大樹寺~門立開業
1926年(大正15年)  9月29日   岡崎電気軌道に対し鉄道免許状下付(額田郡岩津村~西加茂郡挙母村)
1927年(昭和  2年)  6月 1日   三河鉄道と岡崎電気軌道の合併が認可される
           7月19日  三河鉄道が岡崎電気軌道を合併
1929年(昭和  4年)12月18日  三河鉄道により三河岩脇~上挙母 開業
               この延伸開業に伴い、1500V電化される
               大樹寺~三河岩脇の架線電圧も600Vから1500Vに昇圧されるが、
               三河岩脇門~門立は600Vで取り残される
               岡崎駅前~上挙母を岡崎線、三河岩脇〜門立を門立支線とする
1931年(昭和  6年) 8月15日   鉄道免許取消(額田郡岩津町門立~東加茂郡松平村九久平                指定ノ期限マテニ工事竣工ササルタメ)
1934年(昭和  9年)        岡崎線(後の挙母線)上挙母から岡崎駅前まで、直通ガソリンカーの
               運転開始
1938年(昭和13年)  5月 1日   門立支線休止
1939年(昭和14年)10月 3日   門立支線廃止
1941年(昭和16年)  6月 1日   三河鉄道が名古屋鉄道に九州合併される 
               同じ頃、ガソリン統制から直通ガソリンカーの運転が休止となる
               鴛鴨 駅廃止(正確な時期不明)

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挙母線(左)と岡崎市内線、福岡線(右)の路線図
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

1948年(昭和23年) 5月16日   岡崎線から挙母線に路線名改称
1949年(昭和24年)12月 1日   上市場を細川に駅名改称
1951年(昭和26年)12月 1日   戦時中に不要不急路線として休止になっていた旧西尾線・岡崎新〜西尾
               のうち、岡崎駅前~福岡町を岡崎市内線と直通運転する福岡線と
               して復活させる
1954年(昭和29年)        殿橋 - 康生町 複線化
1959年(昭和34年)10月  1日  三河豊田をトヨタ自動車前に駅名改称
1962年(昭和37年)  6月17日  バスに転換する形で福岡町〜大樹寺が廃止となる
               岡崎駅前~福岡町の用地は、レール撤去後にバス専用道路となる
1969年(昭和44年) 4月  5日   百々・八ツ木 駅廃止
1973年(昭和48年) 3月  4日   挙母線全線廃止し、バスに転換
2002年(平成14年) 9月30日   代替バス廃止
2016年(平成28年) 3月31日   都市基盤整備事業の為、そのバス専用道路が廃止となる

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福岡線の廃線跡は代替バスの
専用道として使われていたが
2016年に都市整備事業用地に転用された
※ ウィキペディア画像を拝借

   廃線跡
福岡線の廃線跡は、自社グループバス会社による転換バスの専用道路として利用していたが、岡崎市の都市基盤整備事業の為に廃棄されて、都市整備事業用地に転用されている。 上挙母〜トヨタ自動車前の廃線跡は、1976年に開業した国鉄岡多線(現 愛知環状鉄道)の建設に伴い路盤提供されている。



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大正9年の開業以来の
木造駅舎が健在している上挙母駅
かつてこの駅から挙母線が分岐していた
※ ウィキペディア画像を拝借

上挙母駅(うわごろもえき)は愛知県豊田市金谷町にある、名鉄・三河線の駅である。 1973年まで、この駅から挙母線が分岐していた。 駅集中管理システムを導入した無人駅となっており、隣の豊田市駅より遠隔管理されている。 なお、駅舎は開業当時のものである。 2018年度の1日平均乗降人員は4655人との事。

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駅の知立方向には
挙母線の分岐跡が残っている
※ ウィキペディア画像を拝借

20m車6両編成対応の島式1面2線の駅である。 貨物を取り扱っていた頃は4線あった他、貨物廃止後は両面ホームの中線を抱き込んだ2面3線の島式ホームに改造されて中線に挙母線の列車が発着していた。
挙母線廃止後も土橋駅方面には分岐の跡が残っており、保守用車両が留置されている。



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かつてのトヨタ自動車前駅と
同じ位置に設置された
愛知環状鉄道の三河豊田駅
※ ウィキペディア画像を拝借

トヨタ自動車前駅(トヨタじどうしゃまええき)は、かつて愛知県豊田市にあった名鉄・挙母線の駅である。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。 1972年の平均乗車人員は4805人との事。
1976年に、国鉄・岡多線の三河豊田駅が名鉄時代と同じ場所に開業している。



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遊歩道として整備された
廃線跡に設置された渡刈駅跡休憩所
※ ウィキペディア画像を拝借

渡刈駅(とがりえき)は、かつて愛知県豊田市にあった名鉄・挙母線の駅ある。 旧・西加茂郡上郷町の駅であったが、中心地からは大きく離れていた。 1面1線の棒線駅構造の駅で、簡素な待合所が設置されていた。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。 1972年の平均乗車人員は196人との事。

渡刈駅の周辺の挙母線跡は遊歩道の「挙母線跡緑道」として整備されている。 渡刈駅跡は残存していたプラットホームなどを利用し再整備。 プラットホームと待合室が再現され、『渡刈駅跡』という名の休憩所となっている。 但し、当時を忠実に再現したものではない。



細川駅(ほそかわえき)は、現在の愛知県岡崎市細川町にかつて存在した名鉄・挙母線の駅である。
1面1線の棒線駅構造であった。 同線の支線である門立支線に細川駅があった為に、当駅設置当初は上市場駅と名乗っていたが、1939年の門立支線廃止後10年経った1949年に細川駅と駅名を改称している。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。 1972年の平均乗車人員は798人との事。



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長らくホーム跡の石垣があったが
宅地化整備により撤去された三河岩脇駅ホーム
※ グーグル画像を拝借

三河岩脇駅(みかわいわわきえき)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・挙母線の駅である。
門立支線(三河岩脇~門立)の分岐駅であった。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。
1972年の平均乗車人員は636人との事。

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駅跡からの路盤跡は
神社敷地に転用されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

有人駅で、駅舎も存在していたが、1969年(昭和44年)に無人化されている。 島式1面2線のホームで交換設備も設置されていたが、無人駅化の後に合理化のため撤去された。 駅跡は空き地となっている。
ホーム跡が長らく存在していたが撤去され、駅の痕跡は無い。



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岩津天満宮を模した
神殿造りの駅舎だった岩津駅
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

岩津駅(いわづえき)は、かつて愛知県岡崎市東蔵前町にあった名鉄・挙母線の駅である。 
旧・額田郡岩津町(現・岡崎市)の中心駅であり、岩津天満宮の参詣駅であった。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。 1972年の平均乗車人員は820人との事。

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現在に廃止となったなら
駅舎保存運動が起こっていただろうね
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

2面2線のホームで交換設備も設置されていたが、1970年頃に合理化のため撤去されている。
岩津天満宮の参詣駅であったこともあり、駅舎は寺社建築を模した造りであった。 乗降客は多く、また初天神の日は岩津天満宮への参詣者で賑わったという。 挙母線の特急停車駅であった。



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路面電車と鉄道線の実質的な
乗り継ぎ駅だった大樹寺駅
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

大樹寺駅(だいじゅじえき)は、かつて愛知県岡崎市鴨田町にあった名鉄・挙母線の駅である。
挙母線廃止時の終点であった。 駅名は徳川氏(松平氏)の菩提寺である大樹寺に由来している。

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鉄道線の挙母線の1500Vと
軌道線の岡崎市内線の600Vの
配線があった大樹寺駅
※ ウィキペディア画像を拝借

挙母線の大樹寺~岡崎井田の区間は路面電車で運行され、軌道線の名鉄岡崎市内線と実質同一となっていた。 この事もあり、大樹寺駅が挙母線と岡崎市内線の実質上の接続駅であった。 1973年に、同線の廃止により廃駅となった。 1972年の平均乗車人員は3432人との事。

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挙母線で最大の駅だった
大樹駅の駅舎
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

2面4線のホームがあり、駅舎側から1面1線が留置線、2面2線が挙母線(鉄道線)、1面1線が岡崎市内線(軌道線)であった。 軌道線用ホームは高床ホームに階段状の段差で低くして使用されていた。
挙母線の大樹寺~岡崎井田は直流600V、上挙母〜大樹寺間は直流1500Vであった。 この為、大樹寺駅構内は直流600Vと直流1500Vが配線されていた。

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駅跡はバスターミナル
及び駐車場となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

大樹寺駅よりユニチカ岡崎工場(現・岡崎事業所)の引込み線があり、駅構内には貨物用の側線も存在した。 その為に、当駅常備の濃硫酸タンク貨車も存在した。 駅跡は、名鉄バスの大樹寺バス停(バスターミナル)及び駐車場になっている。



細川駅(ほそかわえき)は、現在の愛知県額田郡岩津町(1955年に岡崎市へ合併)細川町にかつて存在した駅で、三河鉄道・岡崎線(後の名鉄挙母線)の支線である門立支線にあった唯一の中間駅である。
1面1線の棒線駅構造であった。

1939年に、同支線の廃止により駅廃止となっている。 当駅の廃止10年後の1949年に、挙母線本線上にあった上市場駅が細川駅に改称されている。



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現在はバス停となっている
門立駅跡
道路を挟んだ向うの草むらが
駅跡のようである
※ ウィキペディア画像を拝借

門立駅(もだちえき)は、かつて愛知県額田郡岩津町(現・岡崎市)にあった、三河鉄道岡崎線(後の名鉄挙母線、廃線)の支線である門立支線の駅である。 門立支線の終点駅であった。 1939年に、同支線の廃止により駅廃止となっている。

三河鉄道は1941年に名古屋鉄道(名鉄)に吸収合併されているが、門立支線はそれ以前に廃止されているため、名鉄へ継承されていない。 また、挙母線の本線は1500Vへの昇圧を受けていたが、当支線は600Vのまま昇圧されずに放置されていた。

旧・門立駅は、現在の名鉄バス門立停留所付近に所在していた。 愛知県道39号岡崎足助線の整備もあり、駅跡の痕跡は残っていない。



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道の真ん中に交換設備が
設けられた岡崎井田駅
※ 名鉄のウェブサイト『名鉄資料館』より

岡崎井田駅(おかざきいだえき)は、かつて愛知県岡崎市井田町にあった名鉄挙母線と岡崎市内線の駅である。 挙母線及び、岡崎市内線の起終点駅であった。 しかし、挙母線の岡崎井田〜大樹寺は軌道線の岡崎市内線の路面電車が乗り入れていた事もあり、挙母線と岡崎市内線の実質の接続駅は大樹寺駅であった。 この事もあり、岡崎市内線廃止時の1962年に駅廃止となっている。

1面1線であったが1955年に交換設備が設置され、 相対式2面2線のホームとなった。 但し、道路との併用軌道上で、安全地帯は設けられなかった。 岡崎井田〜大樹寺間は岡崎市内線と同一であり、直流600V区間であった。



東岡崎駅前電停(ひがしおかざきえきまえでんてい)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・岡崎市内線の停留所である。 軌道線の為に、電停と称している。 名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線の東岡崎駅と接続駅であった。 岡崎市内線廃止に伴い、1962年に電停廃止となっている。

2面2線のホームを有し、東岡崎駅北西の名古屋本線ガードの北に位置していた。 東岡崎駅前と称しているが、東岡崎駅前駅と東岡崎駅は約300m離れていた。 折返し線も設置されていたが撤去されている。 開業時の駅名は是字寺駅で、駅名となった寺は満珠山龍海院の別名であり、松平清康(徳川家康の祖父)に関わる伝説がある。 また、「明大寺駅」とも称していたという説もある。 これは地名が明大寺であり、明大寺駅は通称と推測されるが詳細は不明である。



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西洋風の駅舎と市場のような賑わいがあった
岡崎駅前電停(旧西尾線・岡崎新駅)
※ ウィキペディア画像を拝借

岡崎駅前電停(おかざきえきまえでんてい)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・岡崎市内線、福岡線の駅である。 当時の国鉄・岡崎駅との接続駅であり、岡崎駅の東に存在した。 旧・西尾線の岡崎新駅(おかざきしんえき)は、戦後、岡崎駅前駅に実質吸収されている。 岡崎市内線廃止に伴い、1962年に電停廃止となっている。

2面2線で交換施設を有し、岡崎駅東口の道路上に存在した。 木造2階建ての駅舎も存在し、駅舎内には岡崎乗務区が設置され、乗務員の交代が行われていた。 開業時の駅名は、『岡崎停車場』で、『岡崎駅前駅』に改称した時期は不明であるが、岡崎電気軌道時代には改称していたと推測される。

国鉄岡崎駅との間には貨物連絡線があり、貨物輸送が行われていた。 旧・西尾線との間にも連絡線があり、旧・西尾線の一部が戦後、福岡線として復活したさいはその連絡線が転用されている。
なお、旧西尾線の駅は『岡崎新駅』と称していた。



柱町駅(はしらまちえき)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・福岡線の駅である。 福岡線は鉄道線であったが、実質は岡崎市内線の一部であり、路面電車で運行されていた。 鉄道線であるが路面電車で運行された事もあり、低床のホームと小さな待合所が設置されていた。 交換設備は無く、1面1線構造であった。

旧・西尾線の岡崎新〜土呂を福岡線として復活させた際、新設された駅である。 1951年12月に、戦時中に不要不急路線として休止になっていた西尾線の岡崎新〜西尾のうちの、岡崎新〜土呂を岡崎市内線と直通運転する福岡線(岡崎駅前~福岡町)として復活させた際に開業した駅である。 1962年6月17日に、福岡線廃止に伴い駅廃止となっている。

福岡線の大部分は名鉄バスのバス専用道路となり、駅跡も名鉄バス柱町バス停となっていた。
バス専用道路は2016年に廃止されたが、当駅付近はそれよりも前に区画整理が行われルートが変更されている。



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西若松バス停とバス専用道路
※ ウィキペディア画像を拝借

西若松駅(にしわかまつえき)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・福岡線の駅である。 
福岡線は鉄道線であったが、実質は岡崎市内線の一部であり、路面電車で運行されていた。 
鉄道線であるが路面電車で運行された事もあり、低床のホームと小さな待合所が設置されていた。
交換設備は無く、1面1線構造であった。

旧・西尾線の岡崎新〜土呂を福岡線として復活させた際、新設された駅である。 1951年12月に、戦時中に不要不急路線として休止になっていた西尾線の岡崎新〜西尾のうちの、岡崎新〜土呂を岡崎市内線と直通運転する福岡線(岡崎駅前~福岡町)として復活させた際に開業した駅である。 1962年6月17日に、福岡線廃止に伴い駅廃止となっている。

福岡線の大部分は名鉄バスのバス専用道路となり、駅跡も名鉄バス西若松バス停となっていたが、2016年に廃止された。 廃止後も長い間、西若松駅当時の待合所や石製のホーム跡、駅の看板がそのまま使用されていたが、運行末期はそれらも撤去され。新しい待合室が設置されている。



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路面電車用に駅ホーム高が低い
電停造りとなった終点・福岡町駅
※ ウィキペディア画像を拝借

福岡町駅(ふくおかちょうえき)は、かつて愛知県岡崎市にあった名鉄・福岡線の駅である。
福岡線は鉄道線であったが、実質は岡崎市内線の一部であり、路面電車で運行されていた。 
1962年6月17日に、福岡線廃止に伴い駅廃止となっている。

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福岡町駅は戦時中に
不要不急路線として休止していた
西尾線・土呂駅の再利用であった
※ ウィキペディア画像を拝借

元々は西尾線のうち、西三軌道が開業した区間(岡崎新〜西尾)に存在した土呂駅(とろえき)である。 福岡町駅とされたのは、西尾線の一部が福岡線として復活した時からである。 西尾線(岡崎新〜西尾)の残部はそのまま休止となり、その後に廃止されている。 この為、福岡町駅復活後に西尾線の電車が乗り入れる事は無かった。

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福岡町駅の構内配線図
かつてあった側線をつなげて
行き違いかできるようになっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

土呂駅としての開設当時は鉄道線駅であり、鉄道線用の高床ホームと駅舎も存在した。 戦後、福岡線福岡町駅として復活した際は、岡崎市内線の路面電車の為に低床のホームが新設され、駅舎も小型化されたが新設された。

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駅跡に設置されたバス回転場
※ ウィキペディア画像を拝借

福岡線は専用軌道であった事もあり、廃線跡は名鉄バスのバス専用道路に転用されたが2016年に廃止されている。 駅跡は名鉄バス福岡町バス停となっている。 かつての駅の敷地を利用して、バスの回転場が設置されている。


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これらの災禍は全て起り得なかったのだ



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