2020-07-18 (Sat)✎
廃線鉄道 第26回 井笠鉄道・神辺線 〔岡山県・広島県〕
前面に小荷物運搬用のバスケットを
備えた単端式ガソリンカーが
路線の主力だった井笠鉄道
※ ウィキペディア画像を拝借
井笠鉄道・神辺線(いかさてつどう・かんなべせん)は、かつて岡山県井原市の井原駅と広島県深安郡神辺町の神辺駅を結んでいた井笠鉄道の鉄道路線である。
本項目では前身である井笠鉄道・高屋線(いかさてつどう・たかやせん)及び両備軽便鉄道・高屋線(りょうびけいべんてつどう・たかやせん)→両備鉄道・高屋線(りょうびてつどう・たかやせん)→神高鉄道線(じんこうてつどうせん)についても併せて記述する。
岡山県西部の西国街道(旧山陽道)沿いに位置し、紡績業の盛んであった井原町(現・井原市)と、同街道の宿場が置かれて二子縞(この地域の機織物の主要銘柄)などで知られた機業地でもあった高屋町(現・井原市)は、この地域の中心的な街なみを形成していた。
この二つの町は主産品である機織物の物流を西国街道で担っていた関係で、江戸時代より西国街道に沿って隣接する広島県の福山市や神辺町との商業的な結びつきが強く、笠岡と井原を結ぶ井笠鉄道本線が開業した大正初期には紡績業の隆盛もあり、これらの市町村を結ぶ鉄道の建設が求められるようになっていた。
その求めに応じてこの地域に最初に鉄道建設を計画したのは、主に福山をはじめとする広島県側の資本によって設立された両備軽便鉄道(後に両備鉄道と改称)であった。 両備軽便鉄道の社名の『両備』は路線が備中国と備後国にまたがる事を示した通り、当初は広島県東端の城下町である福山と、岡山県側の高屋を結ぶ路線の建設を企図して創設された鉄道会社である。
同社は1910年4月21日に公布された軽便鉄道法に基づいて、福山〜神辺〜高屋と神辺〜府中町間の2線区の敷設免許を1911年に出願して、同年8月に免許が交付されて1913年より建設工事を開始した。
しかし、資金難などの事情から神辺〜高屋間を後回しにして、後に本線となる福山〜神辺〜府中町間の建設を優先的に実施した。
残る神辺〜高屋間の工事については、本線の開業後しばらく業績が低迷した事もあって着工しないまま延期され、そのまま工事未着工により免許が失効する事態に陥ってしまう。 だが、井原・高屋から神辺を経由して福山へ向かう旅客・貨物の輸送需要は多く、また路線建設の要望も大きかった事から、両備軽便鉄道は1918年7月13日に同区間の免許を再度取得し、工事は大幅に遅れたものの1922年4月9日に高屋線として、神辺〜高屋間7.8kmの開業にようやくこぐつけた経緯がある。
路線敷設の際に右往左往した
路線史を持つ井笠鉄道
両備軽便鉄道による高屋線の建設工事が進捗し、完成の目処が立った頃、同社と笠岡(笠岡町)〜井原間の鉄道建設を行っていた井笠鉄道の2社の間で、両社線を結ぶ高屋〜井原間4.0kmの鉄道敷設免許が競願となる事態となった。
この区間の免許については、井笠鉄道が当該区間の経営で利益があるのに対し、両備軽便鉄道の経営では井笠鉄道に不利益が生じる事と、沿線集落の物流が笠岡と強く結びついている事を主理由に井笠鉄道に交付され、両備軽便鉄道の申請は却下された。 こうして1923年4月20日に免許を得た井笠鉄道は資金難からの多少の工期の遅れはあったが、1925年2月7日に井原〜高屋間4.0kmの営業を開始する。
なお、小田川と経ヶ丸山に挟まれて南東から北西に向けて細長く伸びる井原の街の地形的な制約から、先行して市街の中心部に設置された井笠鉄道井原駅は南北方向の頭端式ホーム配置となっており、神辺線もここを起点として本線と併走後に分岐して西の神辺方面へ向かう線形とした為、神辺方面からやってきた神辺線の列車は井原に停車せずに本線の笠岡方面へ向かう事ができなかった。
だが、笠岡・矢掛から神辺方面に直通する需要は旅客・貨物共に少なく、本線への直通運転は実施される事はなく、高屋線(両備軽便鉄道からの直通列車を含む)の列車は全て井原で折り返しとなり、同駅で本線列車との連絡を行っていた、
この鉄道の歴史は
広島県・福山から岡山県・総社への
直通運行の歴史だった
※ ウィキペディア画像を拝借
以上のような事情で高屋を挟んで2社に分かれた井原〜神辺間の鉄道であったが、両社共に軽便鉄道規格の762mmの軌間であった為に技術的には両者間の直通運転は可能で、後に両者間で連結器高さなどの調整を行った上で直通運転を行う事となった。
こうして、両備鉄道(両備軽便鉄道より社名変更)の井笠鉄道・高屋線への車両乗り入れによって、事実上一体の路線として運行される事となった当線であるが、1933年になって両備鉄道が鉄道省に買収される事となって事態は一変した。
福塩線の電化区間は
井笠鉄道の前身である
両備軽便鉄道が敷設した路線だった
:
福山〜神辺の買収・国有化が
この地域鉄道の一大転換期となった
ウィキペディア画像を拝借
この買収に当たって鉄道省は両備鉄道線の路線全てを買収せず、後に福塩線となる本線の両備福山〜神辺〜府中町間のみを買収し、高屋線はその対象から外すという措置を採ったのである。 鉄道省による買収の対象外となった高屋線は、新会社を設立して民営のまま運行を継続する事となり、鉄道省買収前日の1933年8月31日に資本金百万円にて新たに設立された神高鉄道に、鉄道用地や車両など高屋線運行に関わる全ての譲渡を受けている。
現在は買収された福塩線区間が古くなり
旧井笠鉄道用地を利用して建設された
井原鉄道が真新しい線路を延ばしている
※『井笠鉄道』より
神高鉄道では、鉄道省福塩南線となった元の本線と井笠鉄道高屋線を直通する列車が従来通り運行されたが、これも1935年12月14日に福塩南線の1,067mm軌間への改軌工事が完成した事で終了となり、以後はわずか7.8kmの自社線と4.0kmの井笠鉄道高屋線を合わせた11.8kmの区間のみで列車を運行する事となった。
その為に経営改善を目指して、福山直通列車の廃止前から不要車両の整理が進められ、旅客輸送は両備鉄道から引き継いだ小型ガソリン動車と神高鉄道で追加新製した同型のガソリン動車と、両備鉄道から引き継いだ2両の木造ボギー客車で賄われる事となった。
だが、地場産業の輸送需要が鉄道建設の目的だったこの地域は、元々は沿線人口が少なく輸送需要が決して大きいとはいえず、それも当初計画はともかく実際には本線格の路線に対する培養線として建設された短い路線を、それ単独で存続させる事には無理があったのである。
それに加えて神高鉄道が設立された時期には、岡山県西部から広島県東部にかけて同路線が存在する地域にバス事業者が複数出現し出しており、それらとの競合による乗客の逸走は、財政基盤の脆弱な神高鉄道に致命的な打撃となった。
窮地に追いやられた神高鉄道首脳陣は、高屋で接続する井笠鉄道に自社線およびその関連資産の買い取りを持ちかける。 だが、乗り入れ相手として、輸送実績などにおける神高鉄道の窮状を良く知る井笠鉄道首脳陣は神高鉄道側の提示した価格の半額での買い取りを主張して折り合わず、同社への路線売却を断念した神高鉄道首脳陣は、1937年12月9日に会社の解散と路線の廃止を鉄道省に対して申請するに至った。
この申請は井原町や高屋町といった沿線自治体のみならず、岡山県庁にまで大きな衝撃を与える事となる。 井原・高屋の両町と、両町の産品の消費地であった福山市を結ぶ最短経路として機能していた路線が同社路線の廃止によって高屋止まりとなると、従来当線を使用していた繊維産業をはじめとした沿線の工場などに対する影響が非常に大きかった為である。 つまり、当初の路線建設の目的が、水泡に帰す事態となってしまうのである。
そこで危機感を覚えた沿線自治体の首長、商工会議所の幹部、そして岡山県知事などが両社の説得に当たった。 だが、こうした説得は極端に乖離した両社の希望売買価格差を埋めるに至らず、実におよそ2年にわたって事態が紛糾したまま膠着し、遂には岡山県知事の要請で鉄道免許を統括する鉄道省監督局が仲介に乗り出す事態となった。
この鉄道省監督局による仲裁の結果、両社の主張額の中間値に近い71,500円での譲渡として交渉がまとまる。 こうして神高鉄道線は1940年1月1日をもって井笠鉄道に譲渡され、既存の高屋線と合わせて井原〜神辺の11.8kmを神辺線と改称する事となった。
戦前の機回しを必要とする単端式気動車が
貨車を牽引する旧態依然の運行形態が
四半世紀に渡って続けられていた
※ 地方私鉄1960年代の回想より
神辺線となって以降の当線は、1960年代にモータリゼーションが到来するまで、特に大きな変化もないままに運行が続けられた。 両備鉄道・神高鉄道由来の小型気動車や機回しを必要とする単端式気動車が単行で、あるいは1両ないしは2両の客貨車を牽引し、客貨車の牽引時には井原・神辺の両ターミナルで機回しを行うという旧態依然とした運行形態が、神高鉄道の合併後から約四半世紀に渡って続けられた。
だが、モータリゼーションの進展に伴う乗客数減少の影響に加え、鉄道建設公団が総社~井原 ~神辺間を結ぶ国鉄吉備線の延長線として井原線の建設を開始した事から、当線はより高規格な鉄道である井原線に線路用地を譲る形で、路線廃止と自社路線バスへの転換が実施される事となった。
旧井笠鉄道敷地の上に高架路線として
建設された井原鉄道
その志は軌道用地という形で
井原鉄道へ引き継がれている
※ 上下2枚いずれも
ウィキペディア画像を拝借
この為、1964年10月7日に井原線と路線が重複する矢掛線と併せて路線廃止申請が提出され、1967年4月1日に路線廃止が実施された。 なお、この廃止の際には、前日に当たる1967年3月31日に井原駅で閉業式が行われ、9時42分井原発神辺行としてお別れ列車が運行されている。
井笠鉄道・神辺線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線延長:井原〜神辺 11.8km・軌間:762mm・
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・閉塞方式:票券閉塞式・
駅数:9駅(起終点駅含む)
井原(いばら 0.0 km)・出部(いずえ 1.5km)・下出部(しもいずえ 2.5km)・
高屋(たかや 4.0km)・両備金光(りょうびこんこう 5.1km)・御領(ごりょう 7.4km)・
両備国分寺(りょうびこくぶんじ 8.6km)・湯野(ゆの 9.8km)・神辺(かんなべ 11.8km)
車庫:井原 2線の小規模なものが使用されていた
単端式ガソリンカーが貨物や客車を牽引する
貨客兼用が運行形態の基本であった
※ 地方私鉄1960年代の回想より
運行形態
井原駅は笠岡からの本線と同方向に併走して到着するスイッチバック式の配線となっており、列車は機関車の付け替えや方向転換、あるいは乗務員の移動を行わねば直通できなかった。 途中の交換可能駅は、両備軽便鉄道・高屋線の開業時にターミナルであった高屋のみで、それ以外は1面1線の停留所同然の簡素な施設であった。
高屋は高屋線開業時に設置された頭端式プラットホーム2面2線と、間に機回り線を配した対向式プラットホーム(内1面は頭端式の1面と連続していた)2面3線を組み合わせた大規模な構内配線を備えていた。 また福塩線改軌後の神辺では、国鉄神辺駅の北隅を間借りする形で小さな待合室のついた短いプラットホーム1面1線を設置し、気動車が木造客車を牽引していた事から、機回り線が最後まで残されていた。
福山から井原への直通の志は
今も昔も福塩線への接続
という形で成されている
※ ウィキペディア画像を拝借
神高鉄道からの路線譲受後は、本線列車の井原着発と国鉄福塩線列車の神辺着発に合わせる形でダイヤが編成され、1日13往復から15往復の運行で所要時間は28分から29分程度だった。 運行間隔は概ね40分から50分程度であったが、昼間の閑散時間帯には最大1時間半間隔と実質1運用飛ばす形でダイヤが設定されていた。
神高鉄道時代に自社発注した
両運転台式のガソリンカー
※ ウィキペディア画像を拝借
車両
両備軽便鉄道・高屋線の開業当初は本線との共通運用が実施され、井笠鉄道・高屋線開業に伴う直通乗り入れの開始時にも、当時在籍していた客貨車全車の他に6両の蒸気機関車の乗り入れの認可を得ている。
その後、1927年6月の両備福山〜府中町間電化で本線と機関車運用が分離され、最終的には井笠鉄道への乗り入れ認可を得ていた独・コッペル社製のC形タンク機3両が充てられる事となった。
また、その一方で1931年には当線のフリークエントサービスの改善を企図して、井笠鉄道などで大きな成功を収めていた小型気動車の導入が図られた。 それは、井笠鉄道が1927年7月から先行導入していた終着駅で方向転換が必要な単端式気動車ではなく、車体の両端に運転台のついた当時最新設計の両運転台式ガソリンカー2両の新製投入であった。
本線の国有化に伴う両備鉄道から神高鉄道への車両や路線付帯設備などの譲渡は、このように分離後を見据えて車両の置き換えが急速に進む中で実施された。 神高鉄道の分離独立後は、両備鉄道から継承した中で最後まで残っていた機関車3両が、福山への福塩線直通運用の廃止などで不要となって売却され、一方で両運転台式の小型ガソリンカーを増備するという、路線規模や輸送需要に見合った車両構成への転換の徹底が図られている。
一方、井笠鉄道・高屋線の開業に当たっては、更に機関車を1両独・コッペル社から購入して運用の増加に対応し、また神高鉄道が新製した両運転台式の小型ガソリンカーに呼応する形で、神高鉄道車両よりやや大型の8.5m級2軸ボギー車を新製投入している。 また、井笠鉄道本線でのフリークエント・サービス実現で競合するバスを圧倒した単端式気動車群の一部も、戦前から当線に入線・運用されていた。
神高鉄道線の井笠鉄道への譲渡後は、開業時に新製投入された車両が長らく主力車として運用されたが、戦後は本線への新車投入で余剰となった本線用の車両が投入され、1949年~1952年に機関のディーゼルエンジン換装が実施された。
井笠鉄道の廃線跡はほぼ全て
井原鉄道用地として転用された
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡
ほぼ全線を西国街道(旧山陽道)と併走し、井原〜高屋間では小高い山の北裾を回るようにして、そして高屋〜神辺間では高屋川と西国街道に挟まれるようにして敷設されていた。 井原と神辺で大きくカーブしている以外はほぼ一直線に近く、最大勾配15.2パーミルで井原から神辺に向かって下り勾配が連続する平坦な線形であった。 また、神辺を出て高屋川を渡る付近までは、鉄道省によって国策買収されて後に1067mmに改軌された元々の自社路線である国鉄・福塩線と並走していた。
河川の少ない地域である事から、橋梁は神辺を出てすぐの所にあった高屋川橋梁(プレートガーダー桁5連)と、高屋〜下出部間で再び高屋川を渡る橋梁(コンクリート桁3連)を除くと、農業用水を渡る小規模なものが架設されている程度であった。 また、トンネルは存在しなかった。
路線廃止後、自社車両と無蓋貨車の組み合わせにより軌条の撤去作業が実施された。 用地は井原駅周辺を除く大半が井原線建設用地として日本鉄道建設公団へ払い下げられた為、ほぼ全線に渡って同線に転用されている。
井笠鉄道の遺構として残る
湯野駅付近のコンクリートガーター跡
:
井原鉄道用地として
転用されずに残った廃線跡は
井笠鉄道の遺構として残っている
※ ウィキペディア画像を拝借
但し、井原鉄道湯野駅前に残るコンクリート桁を用いた橋梁など、直接井原線建設に影響しない施設が一部が現存している。
クラスター原因で病原体を撒き散らす
夜の接待業・パチンコ・芸能活動など
エンターティメント関連の規制を放置して
観光業の救済に『Go toキャンペーン』を
実施しようなんて順番が違うだろ!
安倍政権がここまで空気が
読めないとは思わなんだよ
それで感染拡大を移動(都会に住む者)
のせいにするとは言語道断だ
対策の基本は原因の封じ込めと
原因を起こした者(シナ共産党)に
対する制裁だろうがよ
原因である『3密』の権化である
エンタメ関連を封じ込まないと
何をやっても「気が緩んだ時」にぶり返すし
いつまでたっても同じ事が繰り返されるのだ
そして事を起こした責任を取らせないと
世界覇権を目論み続けるシナ共産党より
また同じ災禍が繰り返されるのだ
それは日本がチョンの背乗り天皇・ヒロヒトを
処罰せずに以降70年以上チョンやシナに
タカられて侮辱されつづけているが如く
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No Subject * by 鳳山
井笠鉄道・神辺線、初めて知りました。こちらのブログで紹介されたものを地図で確認するのが秘かな楽しみです。
No Subject * by hanagon60
子供の頃、電車に乗って国鉄笠岡駅を通る際、ホームの片隅に小さなボロっちい車両が止まっており、あれに乗りたいとダダこねた記憶があります。
神辺線は見たことないのですが、その当時はまだ運行していたはずです。
これは岡山赴任時に行った廃線跡です。(神辺線ではないです)
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-45.html
神辺線は見たことないのですが、その当時はまだ運行していたはずです。
これは岡山赴任時に行った廃線跡です。(神辺線ではないです)
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-45.html
Re: No Subject * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。
私も記事を書く事が、知識となりますね。 今回の路線史も、会社清算の有り様を知る事ができて、これは現代の会社清算のやり取りにつながる事だなぁ~と思いました。
ツイッターなどではできない、「調べて学んで書く」というブログは、本当に楽しいです。
私も記事を書く事が、知識となりますね。 今回の路線史も、会社清算の有り様を知る事ができて、これは現代の会社清算のやり取りにつながる事だなぁ~と思いました。
ツイッターなどではできない、「調べて学んで書く」というブログは、本当に楽しいです。
Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
小さい時に目にして心動かされた事は、生涯の趣味となりえますね。
私も鉄道好きになったキッカケが、家の窓から見る近鉄南大阪線の電車でした。
でも、走っているハズの無いムーミン顔の2代目ビスタ・カーを南大阪線で見た錯覚が
未だに頭にこびりついてるのですよね~。
小さい時に目にして心動かされた事は、生涯の趣味となりえますね。
私も鉄道好きになったキッカケが、家の窓から見る近鉄南大阪線の電車でした。
でも、走っているハズの無いムーミン顔の2代目ビスタ・カーを南大阪線で見た錯覚が
未だに頭にこびりついてるのですよね~。