風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  路線の思い出 >  路線の思い出 351~400 >  路線の思い出  第385回  名寄本線〔湧別支線〕・湧別駅跡

路線の思い出  第385回  名寄本線〔湧別支線〕・湧別駅跡

路線の思い出  第385回  名寄本線〔湧別支線〕・湧別駅跡 〔北海道

r385-t.jpg
湧別駅跡を記事にすべく訪れた時には
あまりにも簡素な駅跡碑以外には何も残っておらず
「コリャァ記事を書くのはムリだ」と思ったよ

《路線データ》
名寄本線
        営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)  
   名寄~遠軽・中湧別~湧別 143.0km       597  /  1246

       廃止転換年月日               転換処置 
         ’89・ 5・ 1               名士バス・北紋バス

廃止時列車本数
   名寄~遠軽 下り7本・上り4本、名寄~興部 上り1本、名寄~紋別 上り3本
   名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
   中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 2往復

r385-2 (2)
明らかな手彫りの湧別駅スタンプ
湧別支線は『思い出お~い』キャンペーン
の対象外だったようである

湧別駅(ゆうべつえき)は、北海道(網走支庁)紋別郡湧別町栄町にあったJR北海道・名寄本線の湧別支線の駅である。 名寄本線の廃線に伴って、1989年5月1日に廃駅となった。 中湧別駅から分岐する支線〔湧別支線〕の終着駅となっていた。

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北西側(湧別方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北西側に位置し、ホームとは通路で連絡していた。 駅舎は開業当初からのもので、民家の様な木造平屋建ての建物であった。 ホームの有効長は、旅客ホームが50 m・貨物ホームが30 mであった。

かつて(貨物・荷物を取り扱っていた1975年頃)は貨物用の側線を2線有しており、駅舎側から1・2・3番線となっていた。 その他、1番線の延長上から遠軽方に戻る形で駅舎側に分岐し、駅舎北側の貨物ホームに至る側線を1線有していたが、1978年12月の貨物の取り扱いが廃止となった後にほどなく撤去されている(以上の側線は、1981年3月時点で撤去済みであった)。

廃止直前末期のこの区間は列車本数が朝夕の2往復しかなく、国鉄時代には1日1往復の清水港線に次いで旅客列車の少ない区間として鉄道ファンに知られていた。 なお、清水港線は貨物列車の運行が日に数本あった為、1日を通して列車運行本数の最も少ない路線はこの湧別支線とされていた。

r385-2 (1)
貨物の取り扱いも廃止され
列車が朝夕のたった2本では
駅員の仕事は入場券の販売だけだったかも

列車本数は朝夕の1本づつのみの運行だったが、並行する道道204号線には路線バスが日に10往復運行され、交通需要の点では問題はなかったようである。 だが、その様な駅であり、また1978年12月に貨物取り扱い、1984年に荷物の取り扱いが廃止されていながらも、1986年11月1日国鉄ダイヤ改正まで駅員が配置されており、その後廃止時までは簡易委託駅となっていた。 1981年度の1日乗降客数は55人との事。

駅名の由来は、当駅の所在する地名からで、地名はアイヌ語の「ユペ・オッ」(カレイサメが多い)に由来する。 別説として「イペ・オッ・イ」(魚の豊富である所)に由来するという説もある。

r385 (2)
駅跡は消防署の敷地となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡地には遠軽地区広域組合消防署湧別出張所及び湧別町文化センターさざ波が建設されており、消防署前の歩道には『湧別駅の跡』の記念碑が埋め込まれるように設置されている



r385 (3)
湧別支線は往復乗っただけと思っていたら
『お蔵』から貴重なネガ写真が見つかったよ
お蔵の底だったので空気に触れる事が少なく
あまり劣化せずにいたようだしィ

この湧別支線は駅紹介にも記述した通り、路線延長が僅か4.9kmで、しかも列車本数が朝夕の1日2往復しかなく、しかも町道にぴったり沿って直線的に線路が敷設されていたが為に『撮り鉄』の情景として足る路線ではなく、『乗り鉄』であろうが『撮り鉄』であろうが、ほぼ全てが往復折り返して済ませる支線であった。 なので、湧別支線の『撮り鉄』写真は、ウェブサイトでもほぼ見受けられないようだ。

ワテも「それに倣え」で、共通運用だった湧網線列車からの通しで1往復しただけで、写真も撮らずにスタンプと入場券を買って何もせずに立ち去った記憶しか無かったが、お蔵に入ったネガのB級写真を漁ってみると、駅舎と停車中の列車を撮ったコマが見つかったのである。

r385 (5)
コチラの方は劣化していたので
フォトショップでかなり手を加えますた

ワテ・・、リバーサルスライドは全てのスライドケースにそのフイルムに撮った題目とフイルムの通し番号を付けて管理する(今まで撮った1100本近くのフイルム・総計で約37000コマ)など、自分自身の趣味の事となると重箱の隅をつついて指で埃を掬う『アルプスの少女ハイジ』に出てくる『ロッテンマイヤー女史』のような細かい性格となるが、ネガは適用外であまりネットリとした脂っこい管理はしていないのである。

そのネガでも36枚フイルムで約100本分の3000枚程度のストックがあるが、ネガって反転画像なので何が写ってるか判り辛いのだよね~。 しかも、ピントが合ってるかどうかも判らんし、経年劣化して黄色く変色しているのがほとんどなんだよね~。

だが、昨今のパソコンでは、さすがに手ブレやピンボケはムリだけど、露出や経年劣化による黄色の変色はある程度消す事ができるのよね~。 そして、ワテはその写真修正用のソフトとして有料(月1000円)の『フォトショップ』というハイアマチュア向けの奴を使っているのだよね~。
・・つまり、趣味には結構金をかける性格なんだよね。

そういう訳で長年お蔵入りしてたのだけれど、このブログで新たなる企画である『廃線鉄道』を立ち上げたのをキッカケに、ネガも全てチェックする事にしたのである。 そのネガ総チェックを試みた動機は、ただでさえ持ち写真のコマがなくて『ウィキペディア画像』や『グーグル画像』の借りまくりを余儀なくされるこの企画で、「少しでも持ちコマが増えれば・・」という「神頼み」にも似た思惑からである。

r385 (4)
この駅の現物が出てきたおかげで
湧別駅の記事が書けるようになったよ

・・このコマが見つかった事で、『路線の思い出』で湧別駅を記事に上げる事ができるようになったよ。 まぁ、前々から湧別駅は記事として上げたかったのだけれど、あまりにも掲載写真のネタがなくてアップできずにいて、それを解消すべく数年前のGWの『北海道たらい回しツアー』をした際に湧別駅跡の消防署の前にも立ち寄っているのである。

でも、駅跡碑を含めての遺構が余りにも貧相で、記事として書けずにいたのである。 そして、その時は運悪くレンタカーの軽のタイヤがパンクして、その対応に追われて駅跡の『取材!?』も切り上げざるを得ず、今回この写真が掘り出されるまでは「駅跡を訪ねるまでしたのに記事を上げるのが不能な駅(跡)」だったのである。

r385-2 (3)
持ちネタが観光が到底不可能な
1日2往復の路線の
観光案内スタンブと入場券だけでは
さすがに記事は書けないよ

・・で、記事を書きながら思った事が一つあるよ。 それは、訪ねた頃が昭和59年の春とワテがまだ高校生で、そんな機転が思い浮かぶとは到底思えないけど、「日に10往復あるバスで予め湧別駅で待ち伏せしておけば、駅に到着する『湧別支線』列車を撮れたのに・・」という事である。

もし、コレを思いついて撮った写真をウェブページに掲載していたら、恐らくGoogleの画像検索で№1の『最上段の左端』・・、もしくは『ウィキペディアの次』に掲載されて、白糠線巨大フェイスのコレ名寄本線の流氷列車宮原線の麻生釣駅舎に匹敵するドル箱画像になってただろうね。

今は『名寄本線の流氷列車』以外は最上段検索はされなくなったけど、パソコン検索の創生期(2005年頃)は『魅惑の鉄道写真』のキーワードでGoogle検索のほぼ全てを総ナメにしてたんだよ。

r385 (1)
消防署玄関前の歩道に埋め込まれた
駅跡を示す唯一のモノ
※ ウィキペディア画像を拝借

あらら・・、過去の栄光を語るさもしい内容となってしまったね。 それでは、最後にチョロッと駅跡を訪ねた時の感想おば・・。 駅跡は街外れ建つ消防署の玄関前の歩道に埋め込まれるように駅跡を示す石碑があるけど、この石碑自体はあまりそそるモノではなかったよ。 当然、駅跡の遺構などは皆無で、貨物を取り扱っていた駅跡の広い敷地は消防署だけにはとどまらず湧別町の文化センターの建物の敷地にまで被っているそうである。

r385 (6)
貨物を取り扱った駅跡の広大な敷地には
周囲の閉塞感とは真逆の近代的な
町の文化センターが建っていた
※ ウィキペディア画像を拝借

だが、消防署の格納庫や近代的な建物である町の文化センターの立派さとは裏腹に、湧別支線が沿っていた『列車道』と路線バスが走る『バス道』共々、道の両脇に並ぶ商店らしき建物はほぼ全てシャッターが閉まる廃業状態で、道の端にある消防署の敷地の先は道が行き止まりとなって途切れていたよ。

r385-m.jpg
さすがにシャッターの閉まった
商店跡などは撮る気にならず
なので地図で状況説明する事にしますた

その光景はもう、「行き止まり感」というか閉塞感が半端ない感じだったよ。 まぁ、道の途切れた先は海なんだけど・・ね。 漁港も空っぽい倉庫がポツンとあるだけの寂れきった波止場情景で、大漁旗を掲げる漁船などは皆無で何艘か船が繋がれていただけだったよ。 当然、港を行き交う漁師の車もほとんどなかったし。

駅跡を訪問したこの時点では、周囲の光景と駅跡を見渡してみても、到底記事として書けるような内容ではなかったのである。


にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ
先週は四国カルスト他の
ブログネタ取材の小旅行に出たので
記事を書くヒマが皆無だったよ

記事を上げないと人気のないブログの
乱・禁・愚は『立て板に水』の如く滑り落るね

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
だから人気のないワテのブログが
生き残る唯一の手である
「廃止路線」ネタでささやかな巻き返しおば

にほんブログ村 鉄道ブログへ
例えるなら・・溺れる者は
『鉄』をもつかむってか?
でも『鉄』をつかんで
更に溺れたらどうしよう




関連記事
スポンサーサイト



No Subject * by 風旅記
こんばんは。
北海道の廃止になった路線にはどれも惹かれますし、列車に乗ってみたかったと思うのですが、せめて長大路線として廃止が保留されていた4線だけでも訪ねられたならばと悔しく思います。
名寄本線の中でも、こちらの支線まで訪ねていらっしゃるのは本当に貴重なご経験だと思います。
貨物輸送もなくなり、日に2本だけの列車が走るだけとなれば交通手段としてはもう使えないも同然ですが、旅する対象としては全く別の魅力を持ち始めます。移動手段として多くの人に使われる鉄道であることに越したことはないのですが、このような路線を大切に思う気持ちが存在していることを忘れないで欲しいと思っています。
町は寂れてしまっているのですね。鉄道と地域は表裏の関係だと思いますが、こうして長い時間軸の中で、この路線はなくなり町も変わっていくのだとすれば、やはり悲しいことです。
風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com

Re: No Subject * by  風来梨
風旅記さん、こんにちは。

今の地盤沈下が下げ止らない鉄道の状況をみると、輸送密度で言うなら名寄本線は函館本線の山線区間など、残っている幹線区間よりも上なんですよね。 そして、当初からの指摘である「分割民営化を実施すると島三社は持ちこたえる事ができるのか?」という危惧が現実的になり、今や会社の存廃問題にまでなってますね。

また、網走や稚内、芦別や夕張といった都市も、鉄道が消えて町中心部への往来がなくなりお金が入らない&著しい過疎化で衰退し、国境の町が廃れる国土の保全問題も上ってきてます。 これは、都市一極集中の弊害ですね。

そもそも鉄道事業は儲かる様な事業ではなく、民営化は都市部だけの経営しかもたないでしょう。 地域の鉄道を維持していく義務との板挟みとなり、東海道・山陽・東北などの既存のシンカンセンという黙っていても収益を生む術を持たない『島三社』は、これよりますます窮乏化して、その責を在来線に押し付けて切り捨てていかざるを得なくなるでしょうね。

鉄道を維持するなら、「島三社」特に四国と北海道は再国営化しか手はないと思われますね。



No Subject * by hanagon60
私も81年7月にここを訪れています。
中湧別からバスで湧別まで来て、到着した列車で引き返しました。
残念ながら入線してくる写真を撮っていないのです。当時は乗り鉄主体でしたからねぇ…
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-308.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさん、こんばんは。

私も同じく折り返しの乗車で、折り返しの数分で入場券とスタンブを押しただけ・・だと思ってましたが、停車中の列車も撮ってたようです。

私の訪れたのは1984年で、この時はまだこの支線が全く注目されておらず、つけていた旅日記でも乗客は私以外に地元の人が一人のみで、鉄はいないと記してました。

だから、数分の折り返し停車で列車が撮れたようですね。 でも、ネガの現物が出るまで全く忘れてました。 列車と駅舎を撮ってたなんて、凄い掘り出しモノでしたね。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No Subject

こんばんは。
北海道の廃止になった路線にはどれも惹かれますし、列車に乗ってみたかったと思うのですが、せめて長大路線として廃止が保留されていた4線だけでも訪ねられたならばと悔しく思います。
名寄本線の中でも、こちらの支線まで訪ねていらっしゃるのは本当に貴重なご経験だと思います。
貨物輸送もなくなり、日に2本だけの列車が走るだけとなれば交通手段としてはもう使えないも同然ですが、旅する対象としては全く別の魅力を持ち始めます。移動手段として多くの人に使われる鉄道であることに越したことはないのですが、このような路線を大切に思う気持ちが存在していることを忘れないで欲しいと思っています。
町は寂れてしまっているのですね。鉄道と地域は表裏の関係だと思いますが、こうして長い時間軸の中で、この路線はなくなり町も変わっていくのだとすれば、やはり悲しいことです。
風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com
2020-06-24 * 風旅記 [ 編集 ]

Re: No Subject

風旅記さん、こんにちは。

今の地盤沈下が下げ止らない鉄道の状況をみると、輸送密度で言うなら名寄本線は函館本線の山線区間など、残っている幹線区間よりも上なんですよね。 そして、当初からの指摘である「分割民営化を実施すると島三社は持ちこたえる事ができるのか?」という危惧が現実的になり、今や会社の存廃問題にまでなってますね。

また、網走や稚内、芦別や夕張といった都市も、鉄道が消えて町中心部への往来がなくなりお金が入らない&著しい過疎化で衰退し、国境の町が廃れる国土の保全問題も上ってきてます。 これは、都市一極集中の弊害ですね。

そもそも鉄道事業は儲かる様な事業ではなく、民営化は都市部だけの経営しかもたないでしょう。 地域の鉄道を維持していく義務との板挟みとなり、東海道・山陽・東北などの既存のシンカンセンという黙っていても収益を生む術を持たない『島三社』は、これよりますます窮乏化して、その責を在来線に押し付けて切り捨てていかざるを得なくなるでしょうね。

鉄道を維持するなら、「島三社」特に四国と北海道は再国営化しか手はないと思われますね。


2020-06-26 *  風来梨 [ 編集 ]

No Subject

私も81年7月にここを訪れています。
中湧別からバスで湧別まで来て、到着した列車で引き返しました。
残念ながら入線してくる写真を撮っていないのです。当時は乗り鉄主体でしたからねぇ…
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-308.html
2020-06-28 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさん、こんばんは。

私も同じく折り返しの乗車で、折り返しの数分で入場券とスタンブを押しただけ・・だと思ってましたが、停車中の列車も撮ってたようです。

私の訪れたのは1984年で、この時はまだこの支線が全く注目されておらず、つけていた旅日記でも乗客は私以外に地元の人が一人のみで、鉄はいないと記してました。

だから、数分の折り返し停車で列車が撮れたようですね。 でも、ネガの現物が出るまで全く忘れてました。 列車と駅舎を撮ってたなんて、凄い掘り出しモノでしたね。
2020-06-29 *  風来梨 [ 編集 ]