風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  廃線鉄道 >  廃線鉄道・近畿 >  廃線鉄道 第19回 淡路鉄道

廃線鉄道 第19回 淡路鉄道

廃線鉄道  第19回  淡路鉄道 〔兵庫県〕

h19-t.jpg
さよなら列車運転で賑わう洲本駅
※ 鉄道ピクトリアル第262号より

淡路鉄道(あわじてつどう)は、かつて兵庫県淡路島において、洲本(兵庫県洲本市)~福良(三原郡南淡町・現南あわじ市)間を結んでいた鉄道路線である。

会社は1914年に設立され、1922年に鉄道路線の一部区間営業を開始し、1943年に戦時中の交通統制によって、全淡自動車と統合されて淡路交通となった。 その為に淡路交通となってからは、淡路交通鉄道線という路線名を名乗っていた。 通称は淡鉄(だんてつ)。 鉄道路線は、1966年(昭和41年)に廃止された。

h19(10)
洲本川橋梁を渡るさよなら列車
※ 神戸新聞ウェブページより

淡路島に鉄道を敷設しようという計画は明治時代から存在し、1911年には地元の資産家ら25名によって洲本~福良間の敷設免許が国に申請された。 翌年免許が下付され、1914年に淡路鉄道が設立された。
しかし、干ばつなどによる資金難や第一次世界大戦時の物価上昇などで工事は遅れ、政府の補助金などの援助もあってようやく当初予定の区間の洲本口~市村 16kmを開業させたのが1922年11月22日であった。

これにより淡路島初の蒸気機関車による鉄道運行が開始され、その後1925年に福良までの免許申請区間全てが開通する。 1931年からは、ガソリンカーによる運行に代わった。 1943年に前述の戦時中の交通統制によって、全淡自動車を合併吸収して淡路交通と改称している。

戦後は、1947年より電化工事が始まり、翌1948年に電化が完成して、南海電鉄から購入した電車の運行を開始する。 1952年には、前年の国衙踏切での事故を受け踏切の自動化を、さらに同年には閉塞装置の自動化をそれぞれ成し遂げ、列車本数の倍増、木造車の鋼体化、ドアエンジンの採用、さらには最新の駆動装備の試験的導入などの施策がとられた。

h19 (4)
鉄道最新技術の導入など気をはいたが
モータリーゼションの波には敵わなかった
※ 鉄道ピクトリアル第262号より

しかし、モータリゼーションの進展で自動車の普及が進んだ事などから、旅客・貨物共に低迷、会社側はサービス改善の傍ら、鉄道部門から希望退職者を募ったり、他部署への異動など幾度のリストラ策を取るが、同時に推進していたバス部門の充実を重きに置くようになると、競合する鉄道部門の累積赤字が増加する悪循環に陥った。

さらにこれに追い討ちをかけるように、1965年9月に集中豪雨により鉄道線が寸断され、その間に代行バスへ移った乗客が鉄道復旧後も鉄道利用に戻らなかった事もあり、これ以上鉄道の存続は困難と判断する。 沿線自治体や利用者からの存続要望はあったが、労働組合との交渉も決着した為、1966年9月30日限りで鉄道全線廃止となった。

h19 (3)
華々しいセレモニーを受けて
路線廃止となった淡路鉄道
※ 鉄道ピクトリアル262号より

なお、当路線は改正鉄道敷設法別表の「八七、淡路國岩屋ヨリ洲本ヲ經テ福良ニ至ル鐡道」の一部をなしていた。 1953年には、別表に本土の須磨付近~岩屋付近と福良~鳴門付近の区間が追加され、本四ルートの一つ『本四淡路線』の一部となったが、具体化する前に当路線は廃止となっている。

『本四淡路線』は、その後1973年の本四架橋の基本計画で新幹線規格のみでの建設とされ、事実上四国新幹線に計画が吸収されている。 新幹線の場合は性質上駅間距離が長い為、淡路島内には駅が設置されないか、もしくは淡路島内に駅が設置される場合でも淡路鉄道のような駅配置は望めず、島内に数駅程度となる計画である。 だが、この新幹線の敷設計画も、「交通量から鑑みて高速道路の『神戸淡路鳴門自動車道』のみで事足りる」として、建設計画は全く進展していない。

廃線跡は1980年代前半まで線路と橋脚が取りのぞかれた程度であったが、現在は大部分が道路となって整備されている。 現在の淡路交通宇山車庫(バス)は当時は鉄道の車庫で、淡路交通の本社がある旧洲本バスターミナルは当時の洲本駅であった。

h19 (5)
洲本観光会館のネオンが出された
あか抜けた駅であった洲本駅
※ 鉄道ピクトリアル第262号より

廃線跡に伴う代替路線バスは、鉄道経営母体会社であった淡路交通が全て受け持っている。 
地形の状況や道路改良などで、一部は鉄道跡から離れるものの、概ね鉄道跡に沿って路線バスが運行されている。

市内線(洲本港~洲本~宇山〜県病前~先山~二本松)※1990年代に路線廃止
長田線(洲本〜二本松~広田~長田~掃守~湊)、市線(市~掃守~湊)※1990年代に路線廃止
縦貫線(岩屋~洲本~広田~市~国衙〜福良)、都志線(洲本高速バスセンター~洲本~下加茂〜都志)

h19-m.jpg
淡路鉄道の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線距離:洲本 - 福良間:23.4km・軌間:1067mm・複線区間:なし(全線単線)
駅数:18(起終点駅含む)
洲本・寺町・宇山・下加茂・先山(せんざん)・淡路二本松・納(おさめ)・山添(※路線廃止より前に廃駅)・
淡路広田・淡路長田・掃守(かもり)・自凝島(おのころじま)・一本松・市村・神代(じんだい)・
賀集(がしゅう)・御陵東・福良
下加茂、先山、納、長田、自凝島、神代、御陵東の各駅は、乗車券販売を近隣の商店等に委託する委託駅であった。
電化区間:全線電化(直流600V、1948年より電化)
閉塞方式:単線自動閉塞(当初はタブレット閉塞)

h19 (2)
淡路長田駅
沿線の多くの駅で交換設備があり
30分毎の列車運行が確保できた
※ 鉄道ピクトリアル第262号より

   運行状況
1924年(路線創成期)・運行本数:9往復、所要時間:洲本口~賀集 58~62分
1934年(ガソリンカー導入後)・運行本数:16往復(気動車・汽車混用で、終日おおむね1時間間隔)、
               所要時間:洲本 - 福良 54~84分
1955年(路線最盛期)・運行本数:28往復、日中30分毎で早朝深夜1時間毎、所要時間:洲本~福良 50分
なお、鉄道最盛期には日中30分毎(下り29本・上り31本)の急行運転が行われ、急行電車は洲本~福良を途中無停車で所要時間36分で結んでいた。 また、鳴門の観潮客用に運転(時期によって変化する観潮に適した時間に運航される観潮船に連絡するように運転)される臨時急行の運行もあった。
貨物列車・設定本数:1往復
1965年(廃止前年)・運行本数:30往復(日中30分間隔)、所要時間:洲本~福良 47~55分
なお、廃止直前に減便を行い、日中は1時間に1本の運転だった
旅客輸送密度〔人/日〕:(1950年)2178,(1965年)4960

h19 (6)
洲本駅で発車を待つ
南海電車の雰囲気漂う
南海電鉄からの譲渡車両
※ 鉄道ファン457号(ウェブバックナンバー)より

   淡路鉄道 年表
1911年(明治44年)12月    地方鉄道敷設免許申請
1912年(大正 元年)10月25日 鉄道免許状下付(津名郡洲本町〜三原郡福良町間
1914年(大正  3年)  4月        淡路鉄道の会社設立総会
1922年(大正11年)11月26日  洲本口(後の宇山)〜市村 開業
1923年(大正12年)11月22日  市村~賀集 開業
1925年(大正14年)  5月  1日  洲本~洲本口(後の宇山)開業
           6月  1日  賀集~福良 開業で全線開通。
1926年(大正15年)10月     郵便物の輸送を開始
1927年(昭和  2年)  3月  5日  納〜淡路広田の間に山添駅を設置し開業(後に廃止)
1928年(昭和  3年)  9月     宇山に車両工場設置
1932年(昭和  7年)  5月     ガソリン気動車の使用開始
1938年(昭和13年)      福良の海岸埋め立てにより路線延伸、福良駅を300m移設
           7月   山添停留所廃止
1943年(昭和18年)  6月   全淡自動車を合併し、翌7月に社名を淡路交通と改称
1946年(昭和21年)  1月     洲本~岩屋間の鉄道建設申請書提出
1947年(昭和22年)  1月15日  電化工事起工
1948年(昭和23年)  2月11日  電車運転を開始
1951年(昭和26年)  8月     国衙踏切にて、電車、バス衝突事故。死者2名、重軽傷者7名
               以降、発条転轍機設置や主要踏切に自動踏切警報機や踏切遮断機の設置、
               鋼製車両の導入など、安全運行対策に力を入れ始める。
1966年(昭和41年)  8月  8日  地方鉄道廃止申請書を運輸省に提出
           9月 22日  廃線正式認可
           9月 30日  さよなら運転を実施。 全線無料で開放した。
          10月  1日  全線廃止

h19 (1)
5枚窓流線形から
南海から譲渡の淡路鉄道標準型まで
福良駅構内に揃う様々な形の淡路鉄道車両
※ 鉄道ファン457号(ウェブバックナンバー)より

  使用車両
電化の際には、南海電気鉄道から木製の小型電車(モハニ1003など)を購入して投入していた。
その後は、気動車を改造した電車(モハニ2007など)や、垂直カルダン駆動方式を採用した電車(モハ2008)など、風変わりな車両も投入された。 なお、廃止後すぐに車両は全て解体されて保存車両はない。

淡路島で唯一の鉄道路線という他と全くつながりを持たない鉄道であった為か、戦後も連環式連結器(リングを引っ掛ける方式)を保有していた。 このため、名古屋鉄道(名鉄)が12号機関車や蒸気動車キハ6401を保存する際に、当路線で保管されていた連結器を譲り受け復元にこぎ着けたという逸話がある。

h19 (9)
残されていれば鉄道ファンの
『聖地』となったであろう
雰囲気のある駅舎も全て撤去されている
※ 鉄道ピクトリアル第262号より

   廃線後の状況
・洲本駅は、かつての洲本バスターミナル及び淡路交通本社であった。
・かつての車両基地であった宇山駅は、現在の淡路交通バスの車庫になっている(宇山車庫・宇山
 第2車庫)。
・2020年2月1日に本社運輸部・洲本営業所が、旧洲本駅から旧宇山駅付近に移転している。
・下加茂駅跡(下加茂バス停)にプラットフォームが残っていたが、県道工事により撤去されている。
・納駅から広田駅にかけての旧緑町内の区間の一部の廃線跡は、道路に転用される事なくあぜ道や築堤と
 して残っている。
・福良駅は、現在の福良バスターミナルとなっている。 廃止後も長らく旧ホームがバス乗り場として
 使われたが、老朽化により現在の建物に建て替えられた。
・洲本~福良間の線路跡をたどって行くと河川や用水路を跨ぐ部分に、石造りの橋脚跡が複数見られる。
 一部は上に木の板やコンクリートが載せられ、現在も歩行者のみの橋として利用されている。
・二本松・長田・一本松・賀集など道路となった駅跡は、交差点に転用された場所も多く、今でも
 その部分は道路幅が広い。



h19 (7)
淡路交通旧洲本駅及び
旧淡路交通本社
※ ウィキペディア画像を拝借

洲本駅(すもとえき)は、かつて兵庫県洲本市船場町(現在の栄町一丁目)にあった淡路交通(旧・淡路鉄道)の駅である。 当路線の始発駅であった。 1925年5月1日に、洲本口(後・宇山)から当駅への延伸に伴って始発駅として開業した駅で、1966年10月1日の淡路交通鉄道線全線の路線廃止に伴い、駅廃止となっている。

当駅跡地は洲本バスターミナルと淡路交通本社・洲本営業所となっていたが、バスターミナル機能は洲本バスセンターに新設移転し、本社・洲本営業所機能も2020年2月1日に宇山(本社運輸部・洲本営業所)と賀集(本社総務部)に移転している。



h19 (8)
近代的な建物に建て替えられた
福良バスターミナルと
淡路交通福良営業所
※ ウィキペディア画像を拝借

福良駅(ふくらえき)は、かつて兵庫県三原郡南淡町福良甲(現在は南あわじ市福良甲)にあった淡路交通(旧・淡路鉄道)の駅である。 当路線の終着駅であった。 1925年6月1日に賀集から当駅への延伸に伴って開業した駅で、当該区間の開業によって淡路鉄道の既存区間全線の開通となった。 1966年10月1日の淡路交通鉄道線全線の路線廃止にともない、駅廃止となっている。

鉄道路線廃止後も駅舎はそのままバス待合所として、ホームはバス乗り場に転用し使用されてきたが、建物老朽化のため取り壊され、現在使用されている新しいバスターミナルが建てられた。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
武漢ウイルスの感染拡大が
抑えられてきている
最大の要因は

移動の自粛などではなく
病原体の外国人の入国拒否を
したからである

でも日本政府は緩和する方向を違えて
感染拡大に関係のない移動の自粛を呼びかけて
外国人の入国を緩和しようとする動きが見える

その一つが害を撒き散らす
日本人の敵のヒトモドキ・チョンを
『重要な隣国』との
位置付けに復活させた事だ


危ういね・・日本&日本政府
本来ならチョン・シナとは
交流の断絶に向けて
進まねばならないのに




関連記事
スポンサーサイト



No Subject * by 根室大喜
淡路島に鉄道が走っていた@@;マジで?

Re: No Subject * by  風来梨
根室大喜さん、こんばんは。

戦前から高度成長期時代の陸の王さまは、鉄道だったんですよね。 細々とした規模の路線がいっぱいありました。 沖縄でもあったようですし。

それと、根室大喜さんの御当地・根室にも伝説の鉄道路線・根室拓殖鉄道がありました。 伝説の鳥・鵺(ぬえ)に例えられた地元の大工さんプロデュースの客車を乗せた『銀竜号』や、脱線したら解散の乗車形態など、何から何までレジェンドだったそうです。

いつの日か、この根室拓殖鉄道も書き記したいな・・と。

No Subject * by 木下隆義
ふと、思い出しググっておりましたら、たどり着きました。
故郷の鉄道を詳しく書いていただき、ありがとうございます。
小学校6年生の時に廃線になりました事を思い出しました。

Re: No Subject * by  風来梨
木下さん、こんばんは。

過去記事を見て頂いで有難うございます。
かつては鉄道が陸の王者で、至る所に線路が敷かれました

ですが今は高速道路に取って代わられ、淡路島や四国に渡るのに
高い高速料金を払わねば行けなくなりました。
鉄道も船も減便や航路廃止となる一方で、高速を使っても渋滞で
かつてより時間がかかったりする事もあるようですね。

これって、四国の地盤沈下につながってるなぁって思います。

10年ほど前 * by 月の輪の雷蔵
単身赴任で洲本市内に住んでいました。廃線跡探索の書籍を読んで鉄道の存在は知っていましたが、家の近くのガソリンスタンドの名前が「洲本駅前給油所」となっており、感銘を受けたのを覚えています。
当時の二本松駅付近まで、線路跡の道を車で通勤していました。

Re: 10年ほど前 * by  風来梨
月の輪の雷蔵さん、こんにちは。

廃線を取り上げた記事で、最も多く反響があったのは淡路鉄道ですね。
やはり、今は鉄道がない淡路島の鉄道への思い入れは大きいみたいですね。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No Subject

淡路島に鉄道が走っていた@@;マジで?
2020-05-27 * 根室大喜 [ 編集 ]

Re: No Subject

根室大喜さん、こんばんは。

戦前から高度成長期時代の陸の王さまは、鉄道だったんですよね。 細々とした規模の路線がいっぱいありました。 沖縄でもあったようですし。

それと、根室大喜さんの御当地・根室にも伝説の鉄道路線・根室拓殖鉄道がありました。 伝説の鳥・鵺(ぬえ)に例えられた地元の大工さんプロデュースの客車を乗せた『銀竜号』や、脱線したら解散の乗車形態など、何から何までレジェンドだったそうです。

いつの日か、この根室拓殖鉄道も書き記したいな・・と。
2020-05-27 *  風来梨 [ 編集 ]

No Subject

ふと、思い出しググっておりましたら、たどり着きました。
故郷の鉄道を詳しく書いていただき、ありがとうございます。
小学校6年生の時に廃線になりました事を思い出しました。
2022-03-04 * 木下隆義 [ 編集 ]

Re: No Subject

木下さん、こんばんは。

過去記事を見て頂いで有難うございます。
かつては鉄道が陸の王者で、至る所に線路が敷かれました

ですが今は高速道路に取って代わられ、淡路島や四国に渡るのに
高い高速料金を払わねば行けなくなりました。
鉄道も船も減便や航路廃止となる一方で、高速を使っても渋滞で
かつてより時間がかかったりする事もあるようですね。

これって、四国の地盤沈下につながってるなぁって思います。
2022-03-05 *  風来梨 [ 編集 ]

10年ほど前

単身赴任で洲本市内に住んでいました。廃線跡探索の書籍を読んで鉄道の存在は知っていましたが、家の近くのガソリンスタンドの名前が「洲本駅前給油所」となっており、感銘を受けたのを覚えています。
当時の二本松駅付近まで、線路跡の道を車で通勤していました。
2022-04-23 * 月の輪の雷蔵 [ 編集 ]

Re: 10年ほど前

月の輪の雷蔵さん、こんにちは。

廃線を取り上げた記事で、最も多く反響があったのは淡路鉄道ですね。
やはり、今は鉄道がない淡路島の鉄道への思い入れは大きいみたいですね。
2022-04-24 *  風来梨 [ 編集 ]