風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第18回 防石鉄道

廃線鉄道  第18回  防石鉄道 〔山口県〕

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防石鉄道さよなら列車
※ 小野活性化協議会のウェゥブサイトより

防石鉄道(ぼうせきてつどう)は、かつて山口県防府市と佐波郡徳地町(現山口市)の間を結んでいた鉄道路線である。

社名の由来は周防と石見を結ぶ目的からつけられたもので、津和野を通り益田へ抜けて山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡鉄道として計画されたが、第一次世界大戦開戦による物価高騰により資金調達と工事がはかどらず、やがて国鉄山口線が全通したため陰陽連絡の夢は破れた。 その後、津和野や海岸方向の中関地区への路線延長も計画されたが実現せず、防府~堀間を開業したのみに終わり、1960年代のモータリゼーションの進行に勝てず1964年7月1日 に路線廃止となった。

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防石鉄道バス時代の塗装のまま
吸収合併先の防長交通に継承されたバス車両
※ ウィキペディア画像を拝借

会社はその後バス事業者に転換したが、1992年に地域大手で親会社となっていた防長交通に吸収合併されて消滅している。

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辛うじて見つけた
防石鉄道の路線『絵』図
※ 小野活性化協議会のウェブサイトより

防石鉄道の成り立ちは、1912年7月に三田尻停車場(防府駅)を起点とし佐波郡柚野村(徳地町を経て現在は山口市)大字横山にいたる軽便鉄道(軌間1067mm)敷設の申請書を提出した事から始まる。
当初のこの申請路線は『石三軽便鉄道』と名付けられ、発起人は地元の人以外では当時電気王とよばれた才賀藤吉と伊予鉄道創業者の小林信近が名を連ねていた。

同年11月に免許状が下付され、1914年5月に創立総会を開催して同10月に社名を『石三鉄道株式会社』と改め、年末の12月17日より小野村(防府市)から工事に着手した。

ただ不況の影響で株式の払込は滞り、建設資金不足の問題が起こった。 また、不祥事もあって社内が混乱した事により工事中止の意見も出たが、8月に内容調査報告会において工事は継続する事になった。
そして不祥事により会社の評判を落としたので、1916年5月に『防石鉄道』に改称した。
だが、その間も資金難に苦しみ、ようやく1919年になって三田尻(防府駅)〜奈美間が開業し、翌年には堀まで延伸した。

さらに堀から横山までの残存区間(約18km)の工事に着手したが、資金不足で工事は中止となり、工事延期願いを再三提出したが、1936年に免許失効となった。 また、1921年4月に三田尻(防府駅)~三田尻港 間〔臨港線〕の約9kmの計画に対し免許が下付されたが、完成させる事が出来なかった。

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防石鉄道が保有する機関車は
ドイツ・クラウス社製の名車など
欧風の雰囲気を漂わせていた
※ ウィキペディア画像を拝借

鉄道は開通したものの建設費が資本金を上回り、資金調達を借入金に依存する事になった。 
しかし、借入金の増加は膨大な利子の支払いをもたらし、営業成績を悪化させていく事になったのである。
こうした中で1924年に140万円の返済が不可能になり、債権者の広島信託社から強制執行を受け、信託側は鉄道の管理を芸備鉄道に任せる事となった。

この事によって、『防石鉄道』は競売にかけられる事態となった。 この事態で『防府鉄道』の発起人の三田尻の株主達が広島信託社と折衝をつづけた結果、ようやく競売は取り消される事になったのである。

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往時の通学列車風景
この鉄道も乗客の主力は
やはり通学生だった
※ 小野活性化協議会のウェゥブサイトより

また、一部の株主は国に救済を求めるべく防石鉄道の買収を画策し、鉄道大臣並びに貴衆両院議長に請願書を提出する。 この請願書における買収案は、帝国議会衆議院で取り上げられる事となった。
その国への買収請願の理由を次のように策定する。

それは「既に開通している山口線では、山口〜篠目間の急勾配により最大急行の運転は不可能であるが、急勾配も隧道も架橋も少ない防石鉄道を買収して両端の区間を延長し、徳佐~堀~三田尻~中ノ関港とすれば九州大分からの貨客を山陰地方へ輸送でき経済発展に寄与できる」としたのである。 

 だが、その策定案に対して、鉄道省は「山口線と並行している路線を緊急に買収する必要は認められない」と返答した為、救済買収は叶わなかった。

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防府駅高架下の『防石鉄道記念広場』に
静態保存される客車の内部
※ 防石鉄道記念広場のウェブサイトより

救済合併がならなかった事から社の再建策として、兼営事業でバスの営業を始める事となり、1933年12月八坂自動車株式会社から営業権と自動車の譲渡を受け三田尻(防府駅)~地福と八坂 ~山口の区間で乗合バスの営業を開始する。

その後、大株主であった広島瓦斯電軌(現在の広島ガス・広島電鉄)が所有する株の8割を神戸市の太陽産業(鈴木商店)に譲渡する事件が起きた。 その太陽産業(北海道・築別炭鉱の経営主)は防石鉄道の軌条を羽幌炭鉱鉄道に転用する計画をもっていた。 そこで『防石鉄道』の軌条その他を、鉄価高騰という機会に処分し債務の支払いに充てる事を考えた。

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防石鉄道バスは貸切バス事業も
展開していたので観光バスもあった
この頃のバスの方が「らしかった」ね
※ ウィキペディア画像を拝借

その一環として鉄道部門を廃止し、バス部門専業にする事として1939年7月に鉄道運輸営業廃止申請書を鉄道大臣あて提出した。 これは日中戦争の最中で認められず、その後太陽産業の援助及び政府の補助により鉄道運輸営業を続ける事となり、廃止申請書は1940年2月に取下げるに至っている。

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荒尾市営電気鉄道の予想路線図
ウェブサイトには地図もなく
手書きの路線図があるのみだったよ
なので『予想図』にもなってません
悪しからず

《路線データ》
路線距離(営業キロ):18.8km・軌間:1067mm・
駅数:13駅(起終点駅含む)
防府・周防宮市・船本(1964年の路線廃止以前に廃駅)・人丸・真尾・奈美・上和字・岸見・
奥畑・伊賀地・山根・沖ノ原・堀
電化区間:なし(全線非電化)・複線区間:なし(全線単線)・列車交換駅:上和字
閉塞方式:通票閉塞 (防府 ○ 周防宮市 □ 上和字 ○ 堀 )・車庫と工場:周防宮市に所在

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交換設備を有する
防石鉄道の中心駅だった上和字駅
※ 防石鉄道記念広場のウェブサイトより

運行形態:開業当初は三田尻~上和字を7往復・所要35分
      堀までの全通時で、旅客6往復・所要54~62分
      最大運行時で旅客10往復
      廃止直前は旅客は7往復(うち1往復は土曜のみ)・所要50分、貨物は1往復(月に25往復
       程度で1~2両の編成)
           
輸送・収支実績
         年間乗車人員  年間貨物む輸送量
1919年(開業年)   97,582人    1,853トン
1945年(最盛期)   858,640人    51,423トン(1943年)
1964年(廃止直前)  399,000人    3,666トン

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路線が競売にかけられるなど
経営的には散々だった防石鉄道
※ 防石鉄道記念広場のウェブサイトより

    防石鉄道 年表
1912年(大正元年)11月  7日  石三軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(佐波郡防府町〜同郡柚野村)
1914年(大正 3年)  5月  3日  会社設立
           12月17日  着工
1919年(大正 8年)  7月  5日  三田尻(後の防府)〜奈美(後の上和字)間 (11.3km) 開通
1920年(大正 9年)  9月23日  上和字~堀間 (7.4km) 開通。 同時に下和字駅を奈美駅に、
                これまでの奈美駅を上和字駅に改称
1921年(大正10年) 4月29日   鉄道免許状下付(佐波郡防府町同~同郡中関村)
1930年(昭和  5年)10月24日  鉄道免許失効(佐波郡新前町-同郡中ノ関村)
               理由は、指定の期限まで工事認可未申請の為
           12月26日  気動車(ガソリンカー)の併用開始、車両は国鉄からの買収
1931年(昭和  6年     5月24日  沖ノ原駅開業
1936年(昭和11年     3月14日  鉄道免許取消(佐波郡出雲〜同郡柚野村)
                 理由は、指定の期限までに工事竣工ができなかった為
1939年(昭和14年)  7月10日  鉄道運輸営業廃止許可申請書を鉄道省あて提出
1940年(昭和15年)  2月15日  鉄道運輸営業廃止許可申請書を取下
1941年(昭和16年)12月18日  鉄道免許取消(防府市~同市中ノ関新前町) 
                理由は、指定の期限までに工事竣工ができなかった為
1942年(昭和17年)       以降 奥畑駅開業
1946年(昭和21年)       以降 船本駅廃止
1951年(昭和26年)       10月ルース台風により大きな被害を受ける
1952年(昭和27年)       佐波川ダム建設による住民立ち退きから人口減少
1958年(昭和33年)  3月20日  堀駅改築により営業キロを0.1km延長
1962年(昭和37年)11月  1日  国鉄駅の改称に合わせ、三田尻駅を防府駅に改称
1964年(昭和39年)  7月  1日  防府~堀間全線廃止

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鉄道公園だった頃の上和字駅跡
※ 小野活性化協議会のウェゥブサイトより

   廃線後の状況
現在、防府~堀間は防長交通が結んでいる。 1日に22~25往復程度で、所要時間はおよそ40分。
堀側始発が5時台など、元鉄道時代の運行を髣髴させる時刻設定である。

廃線跡は佐波川沿いの大部分が山口県道184号三田尻港徳地線に転換され、防府市と徳地地区を結ぶメインルートの一つとなっている。 防府駅西方の山陽本線の高架そばに2号蒸気機関車・ハ6号客車・ハニフ1号客車が保存されている。

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以前の上和字駅跡は
鉄道公園として整備されていたが
鉄道公園の移転にともない
荒れ果てたまま放置されている
※ ウィキペディア画像を拝借

上和字駅跡にはホーム跡と車輪を外された車両が保存されたミニ資料館となっていたが、その鉄道遺構は『防府鉄道記念広場』に移転して、現在は駅ホーム跡に廃バスが放置されたままとなるなど、荒れるに任せる状況となっている。


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安倍さんってこんなにダメだったかなぁ・・
令和に入ってから失政続きだしィ

「チョンの背乗りの代替を祝う」
なんて事をしたからの報いなのでは?
とも考えてしまう

今回も武漢ウイルス災禍に
見舞われる緊急事態に
ドサクサ紛れに『検察官の定年延長』という
今はどうでもいい法案を通そうとしているし

パヨクがガナるって事は
正しい法案なのだろうけど
今はパヨクの妨害活動を呼ぶだけだしィ


案の定パヨクや芸能人どもは
ウイルス感染拡大が懸念される東京の国会前で
チョンの『ローソクデモ』さながらの
『無言デモ』で手をつないで密集して
ウイルスを撒き散らしているし・・


東京都民もこのパヨクの国家反逆的な
武漢ウイルス撒き散らし行動を
少しは怒ったらどう?


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