2020-05-13 (Wed)✎
廃線鉄道 第17回 荒尾市営電気鉄道 〔熊本県〕
鉄道年鑑・九州の鉄道に
荒尾市電が載っていた
※ 「荒尾市交通局56年のあゆみ」より
荒尾市営電気鉄道(あらおしえいでんきてつどう・通称 荒尾市電)は、かつて荒尾市交通部(後の荒尾市交通局)が運営し、熊本県荒尾市の荒尾駅から緑ヶ丘駅までを結んでいた鉄道路線である。
荒尾市の交通局が運営していたので『荒尾市電』と呼ばれていたが、『市電』によく有りがちな路面電車(軌道)ではなく、一般の鉄道規格の電気鉄道路線であった。
福岡・博多圏の最南端駅で
博多方面からの直通快速もある荒尾駅
ここから市営鉄道が出ていた
※ ウィキペディア画像を拝借
1940年(昭和15年)に旧日本陸軍が国鉄万田駅(現・荒尾駅)と荒尾市緑ヶ丘地区の軍事施設の間に建設した専用鉄道を、戦後の1949年(昭和24年)に通勤通学路線として再生し開業したが、施設の老朽化や累積赤字などの問題により1964年(昭和39年)に廃止された。
荒尾市電の荒尾駅は、国鉄荒尾駅の大牟田駅方面の東側裏手(現在の国道208号線方面寄り)にあり、国鉄駅とは多少距離があった。
荒尾市営電気鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離(営業キロ):5.1km・軌間:1067mm
駅数:廃止時点で10駅(起終点駅含む)
荒尾・境崎・小田峯・宮内(くない)・本村・揚増永・水源地前・シオン園前・新生区・緑ヶ丘
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:全線(直流500V)
運行本数:廃止直前は40~50分間隔のダイヤで、22往復の本数があった。
輸送実績:1949年(開業当時)旅客 年間で約58万人(1日平均1589人)、
貨物(1952年より取扱開始)5540トン(1日平均15.2トン)
1963年(廃止前年)旅客 年間で約132万5千人(1日平均3630人)
貨物 3475トン(1日平均9.5トン)
※ 通学生を主体に、旅客はそれなりにいたようである。 貨物は取扱量が僅かで、新聞や小荷物
程度の取り扱いと思われる。
今は産交バスのバス停となっている
荒尾市電の終点・緑ヶ丘駅跡
※『ユキサキナビ』より
荒尾市営電気鉄道 年表
1949年(昭和24年) 3月 1日 境崎~増永(後の揚増永)間開業
1950年(昭和25年) 6月20日 増永~緑ヶ丘(仮)間開業
12月21日 荒尾~境崎間開業、緑ヶ丘(仮)- 緑ヶ丘延伸開業認可
1964年(昭和39年) 10月 1日 荒尾~緑ヶ丘間全線廃止
車両は他の私鉄の
お下がりを使っていた
※ 「荒尾市交通局56年のあゆみ」より
車両は、開業当初は熊本電気鉄道から電車2両を譲り受け、元の番号と同じ15・16の番号で使用していた。 この2両はもともと名古屋鉄道のモ45形で、1912年名古屋電車製作所製の木造2軸車であった。 1949年(昭和24年)2月に熊本電鉄で使用開始されたのち、すぐに荒尾市に再譲渡されたとの事。
1951年(昭和26年)には広瀬車両で製造された新製車17と、水間鉄道のモハ106(1940年木南車輌製)を譲り受けた101に置き換えられ、以後廃止までこの2両が使用された。
コレ荒尾市発注の新製車らしい
※ 「荒尾市交通局56年のあゆみ」より
廃線後の状況
荒尾~小田峯間は市道、小田峯〜本村間は自転車歩行者専用道、本村〜緑ヶ丘間は一般道路の歩道にそれぞれ転用されて、往時の遺構はほぼ消滅している。 この路線の数少ない遺構としては、途中の浦川に架かる竹下橋梁がある。
荒尾市電の唯一の現存する
鉄道遺構である竹下橋梁跡
※ 竹下橋梁跡より
荒尾市交通部(後の荒尾市交通局)は、1964年の鉄道路線廃止後は乗合バス事業を展開していた。
主に荒尾市内で乗合バス事業を行い、2005年の交通局解散時まで、市営バスセンター~南荒尾駅前~玉名郡長洲町(長洲港)まで越境路線を持っていたほか、1980年代までは四山から府本を経由して国道208号線を東進した玉名市の立願寺温泉までの越境路線を持っていた。
荒尾市には隣接する福岡県大牟田市同様、炭鉱住宅(社宅)が市内各地に点在していた事から、それらの住宅地と荒尾駅や市内随一の繁華街・四山地区をダイレクトに結ぶべく、市が直営でバス事業を始めた事に起源する。
1990年代の荒尾市営バス
※ ウィキペディア画像を拝借
戦後復興の中、炭鉱景気に沸いていた1960年代まではかなりの利用者を誇っており、1964年に鉄道事業を廃止した後にバス路線を拡充した頃までが黄金時代であった。 しかしエネルギー革命に伴う炭鉱の閉山やそれに伴う人口の流失・高齢化、またマイカー・バイク・自転車の普及でバス利用者は激減し、毎年多額の赤字を計上するようになっていた。
1990年代末から抜本的なバス路線網再編や大幅な合理化が進められ、従来行っていた貸切バス事業を廃止する。 またこの頃、荒尾市は駅の東側約4kmの位置にある旧炭鉱住宅街の緑ヶ丘地区の再開発事業を行っており、1997年4月25日に同地区にショッピングモール「あらおシティモール」をオープンさせたのに続き、同年9月1日に「あらおシティモール」に隣接する形で市営バスセンターを新設した。
その際にそれまでの四山地区や荒尾駅を起点とした路線網をやめ、市営バスセンターを中軸とした路線網に再編している。 また、この頃までに市民の通勤通学の大半がマイカーや自転車に切り替わっていた為、あえて朝夕のバス運行を減便し、お年寄りを中心とした日中の通院、買い物に特化したダイヤに改めた(前年のダイヤから約30%の減便)。
この結果、各系統が重複するメイン区間(四山~荒尾駅~市営バスセンター)や玉名市・熊本市方面へ向かう産交バスの路線が重複する区間以外は一日数本のみの運行となり、西鉄バス大牟田が周辺各地に30分~1時間間隔で運行している大牟田市などに比べると荒尾市内のバスの利便性は極端に低下してしまい、もはやバスを使おうにも気軽に使えない状況に陥っていた。
産交バスに譲渡直前の荒尾市営バス
10年経って車両は一新したが
経営は行き詰まっていたみたいだ
※ ウィキペディア画像を拝借
運行30%カットに対し、減収は9%と順調な再建であったが抜本的な赤字解消とは言えず、最終的に市はバス運行事業の撤退を表明し、2004年4月1日に一部の路線と車両が熊北産交(現・産交バス)に先行譲渡する。
翌2005年4月1日には残るすべての路線と車両が産交バスに譲渡され、同時に荒尾市交通局は閉局した。 2008年の10月のダイヤ改正までは産交が市バス廃止直前の運行形態をほぼそのまま引き継ぎ運行していた。 2008年10月のダイヤ改正で荒尾市内線、荒尾・玉名〜熊本線は路線を大幅に再編した。
現在は産交バスの玉名営業所兼
荒尾車庫として使用される
旧荒尾市交通局の建屋
※ ウィキペディア画像を拝借
車庫は産交バス荒尾営業所となったが(同時に従来の産交バス荒尾営業所は廃止)、2006年12月1日に玉名営業所に統合され廃止されている(現在は産交バス玉名営業所荒尾車庫として存在し、車両と乗務員は引き続き駐在)。
市電荒尾駅と荒尾高校に通う通学生
※「荒尾市交通局56年のあゆみ」より
市電荒尾駅(しでんあらおえき)は、かつてJR九州の荒尾駅北東側、大牟田寄りの踏切のある道に面して存在していた荒尾市電の起点駅である。 開設時は『市電荒尾駅』と呼ばれていたが、後に(市電の)『荒尾駅』となっている。
市電荒尾駅は、小さな木造の小屋のような駅舎があるだけの、木製の島式ホーム2面1線を有する駅だった。 国鉄荒尾駅の裏に存在したが、国鉄駅との連絡設備はなく、大牟田寄りの踏切を渡った後に南下しなければならなかった。
何かメチャクチャになってますね
完全にクラスター化してウイルスを撒き散らす
芸能界を野放しにして
武漢ウイルスの撒き散らし放題
チョンに牛耳られたテレビメディアが
「安倍憎し」との思惑だけで
「闇雲にPCR検査をすればそこから
感染拡大の懸念があり間違いだ」という
感染症学の専門家医師の発言と真逆な事を流して
医療崩壊と感染を拡大させようとしている
そして感染対策が『落第点』の安倍政権も
ドサクサにまぎれて今は「どうでもいい事」の
検察官の定年延長法案を通そうとしている
チョンの成り済ましの芸能人どもは
「コレを阻止する」といって
『安倍粉砕デモ』を呼びかけたりして
更にクラスター要因を造り出そうとしている
こんな奴ら=チョンの日本人成り済まし
日本国内に呼んだのは間違いなく
チョンの背乗り・天皇ヒロヒトを処罰せずに
チョンをのさばらせた事ですよ
:
いい加減気づいて下さいよ
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