風来梨のブログ

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廃線鉄道 第16回 旭川市街軌道

廃線鉄道  第16回  旭川市街軌道 〔北海道〕

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ロータリーに建つ日立製作所の
広告塔下をくぐる電軌
※ 『よみがえる北海道の鉄道・軌道』より

旭川市街軌道(あさひかわしがいきどう)は、かつて北海道旭川市に存在した路面電車・バスの運営会社である。 同社は昭和初期から30年代まで路面電車を運行し、その後も旭川バスというバス会社として存続していたが、1968年に旭川電気軌道に吸収合併されて消滅した。

北海道中央部に位置する旭川市は、1901年に陸軍第7師団が移設されて以来、軍都として栄えた。
その駐留する師団施設の置かれた近文地区と旭川駅前を結ぶ交通機関として、1906年に上川馬車鉄道が開業したが、1917年に師団本隊がシベリア出兵のために満州に移転して利用客が激減し、第一次世界大戦の影響による鉄材の不足で価格が高騰したレールを売却して1918年には一旦姿を消した。

だが、一次大戦が終わって世情が安定し出すと、一度鉄道が姿を消した旭川市に再び電気軌道を走らせようという計画が立てられ、旭川市会においても市営電気軌道建設を議決したが、市営か民営のかの意見が対立して具体化までは至らなかった。

その後、昭和に入る頃に民営事業者の旭川電気軌道、旭川電力軌道、旭川電車、旭川市街軌道の4社がそれぞれ別途に軌道敷設特許を申請して紛争状態となった為、市会は4社との協約書を作成して収拾に努めた。

その結果、旭川電気軌道、旭川電力軌道、旭川電車の3社が協調して新たに旭川市街電鉄(程なく旭川市街軌道と改称)を設立し、一条線、四条線、師団線の軌道敷設特許を申請して特許を得るに至った。
このうち、師団線の近文1線1号~近文1線6号間は陸軍省の意向により許可されなかった為、師団を逆コの字型に大きく迂回する経路を改めて申請して特許を得ている。

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賑わう旭橋を通る旭川市街軌道の電軌
※ 『よみがえる北海道の鉄道・軌道』より

旭川市街軌道は1929年11月3日に初の路線を開業させた。 その後、昭和10年代にかけては路線の整備が行われ、それと共に乗客数も漸増して行き、昭和5年度の年間輸送人員延べ約302万人を皮切りに、昭和19年度には約1083万人にまで膨らんだ。 昭和20年度上半期までは、年6分の株主配当を行うなど経営は順調であった。

終戦によって第7師団が解体されると、昭和22年度には約617万人、昭和26年度には約458万人と輸送人員は激減した。 加えてインフレによる経営費の膨張により収支は悪化し、昭和22年度上半期には、資本金の135万円に匹敵する120万円もの損失金を計上した。

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旭川四条で国鉄線と接続する四条線は
業績不振で先に廃止となった
※ ウィキペディア画像を拝借

一方、戦時中に疲弊した軌道施設の補修に500万円余りを要する見込みであった事から、戦時中から休止していた路線バス事業を復活の上で乗客減少の著しい一条線と四条線を廃止し、撤去した資材の売却代金を事業費と借入金返済に充てる事となった。

残された師団線(戦後は近文線とも呼称)は、師団の兵舎や官舎が学校や工場、引揚者住宅などに転用された事、師団東側に野球場や総合競技場などの公共施設が完備した事などから輸送需要が見込まれ、かつて陸軍省の反対により陽の目を見なかった北海道神社前~市営球場前~競馬場北口前間を新たに建設した。

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旭川市街軌道の全停留所一覧
※ 『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪(1)北海道』より

1952年は約463万人であった旅客数が、2年後の1954年には500万人を超え運輸状況は好転しつつあったが、設備の老朽化で営業費が増大して経営を圧迫した為に、1956年6月8日限りで軌道線全線の運輸営業を廃止して路線バスに転換された。

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現在は合併吸収先の旭川電気軌道も
バス事業専業となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

軌道事業廃止後はバス事業専業となり、旭川バスと社名変更している。 だが、バス事業専業となったものの経営状況は思わしくなく、会社設立時から縁の深い旭川電気軌道の支援を受ける代わりに株式の過半数を渡して経営権を失い、1968年4月には旭川電気軌道に吸収合併されている。

なお、旭川市民は、旭川電気軌道の電車(東川線・東旭川線)を『郊外電車』、旭川市街軌道の電車を『市内電車』と呼んで区別していた。

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旭川市街軌道の予想路線図
地図上の妥当な位置に駅を配置して
路面軌道という事で道路上を
つなげて作成しただけの路線図なので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
総路線距離(1947年当時):12.2km(四条線:2.4km、一条線:3.1km、近文線:6.7km)
停留所数:26(路線同士の交点の停留所に関しては、合わせて1として数える)
(四条線)四条一丁目・四条九丁目・四条十一丁目・四条十七丁目
(一条線)曙通・一条九丁目・一条十一丁目・一条十五丁目・八条十五丁目
(近文線)旭川駅前・一条九丁目・四条九丁目・六条九丁目・八条八丁目・旭橋・旭町三丁目・
     大町三丁目・北海道神社前・大町五丁目・大町七丁目・大町九丁目・一区前・二区前・
     三区前・春光台前・五区前・六区前・競馬場北口前・国立病院前・一線六号
車庫:四条一丁目・大町七丁目・変電所:八条八丁目・軌間:1067mm・電化方式:直流600V

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戦後の復興期の旭川の街と
旭川市街軌道の電軌
※ 旭川市中央図書館所蔵の写真より

  旭川市街軌道 年表(軌道関連)
1928年(昭和  3年)  4月14日  旭川市街電鉄(後の旭川市街軌道)が一条線(一条通西二丁目~
                 八条通十六丁目間)・四条線(四条通十七丁目~宮下通一丁目間)・
                 師団線(旭川停車場前 ~近文一線六号間)における旅客及び、
                 貨物営業の軌道敷設の特許申請。
1928年(昭和  3年)  9月22日  旭川市街電鉄に対し、一条線・四条線・及び師団線のうち、
               旭川停車場前~近文一線一号間の軌道敷設特許を交付。
1928年(昭和  3年)12月29日  社名を旭川市街軌道に変更。
1929年(昭和  4年)  7月  2日  師団線近文一線一号〜師団司令部前(後の春光台前)〜一線六号間
                 の軌道敷設特許を交付。
1929年(昭和  4年)11月  3日  初の路線として、四条線神楽通(後の四条一丁目)〜四条十七丁目間
                 及び、一条線八条北都前(後の八条十五丁目)〜曙間5.5kmを
               開業する。
1930年(昭和  5年)  3月  7日  師団線一線六号より東鷹栖村内および比布町に至る3線の23.3kmの
                 軌道敷設特許申請(1933年に路線短縮して再申請している)。
1930年(昭和  5年)  5月15日  師団線旭川駅前~旭橋間開業。
1930年(昭和  5年)10月  3日  師団線大町七丁目付近より鷹栖専用線に接続する0.5kmの貨物専用軌道
                 敷設特許申請(後に取下げ)。
1930年(昭和  5年)11月27日  師団線旭橋西詰~一線六号間開業。
1932年(昭和  7年)11月  3日  旭橋~旭橋西詰(後の本町二丁目)間0.45km開業により、師団線全線
                 完成。
1933年(昭和  8年)10月13日  師団線一線六号より鷹栖村十線十三号に至る8.89kmの軌道敷設特許
                 申請(1930年申請分の変更、のちに取下げ)。
1944年(昭和19年)      運輸通信省「昭和十九年度地方鉄道軌道等ノ回収転用実施ノ件」
                (鉄業監第1276号)により、師団線師団司令部前~一線六号間1.8kmを
                 単線化し、撤去軌条を芦別炭鉱に転用。

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一条線・四条線の廃止後に
旭川市街軌道の車両4両が
北海道炭礦汽船に譲渡されている
※ 『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪(1)北海道』より

1948年(昭和23年)  4月  7日  一条線3.1kmと四条線2.5kmを廃止しバス化する。
                 但し、四条線四条九丁目~四条一丁目間は、四条一丁目の車庫・
               修繕工場への出入庫線として非営業の単線で存置。
1950年(昭和25年)  7月  5日  師団線(近文線)春光台前~競馬場北口前間1.1kmを廃止すると供に
                 北海道神社前~市営球場前~競馬場北口前間1.6kmの短絡線を開業
               する。 なお、旭川駅前~北海道神社前~春光台前間5.3kmを六号線、
                 北海道神社前~一線六号間2.3kmを東六号線と改称する。
1954年(昭和29年)      旭川国民体育大会(旭川国体)開催に伴い、排2を種車にした
               花電車を運転。
1956年(昭和31年)  6月  9日  全線廃止しバス化する。

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終電方式はシングルポールだった
旭川市街軌道の電軌
『消えた轍―ローカル私鉄廃線跡探訪(1)北海道』より

   未達成に終わった貨物輸送計画
旭川市街軌道は市内輸送を担う路面電車として知られているが、農産地である東鷹栖村(のちに旭川市に吸収)や鷹栖村の農産物や肥料などの輸送を行う、貨物運輸営業を目論んだ時代もあった。

この地域の軌道敷設計画は、大正末期から昭和初期にかけて鷹栖軌道、鷹栖電鉄などが軌道敷設特許願を申請しており、旭川市街軌道も1930年に、師団線の終点の一線六号より一線十三号と三線十三号を経て、比布村北二線六号に至る12.7km、三線十三号より鷹栖村十線十三号を経て、十線四号に至る8.9km、十線十三号より十線十六号に至る1.7kmの3線計23.3kmで、旅客・貨物運輸を行う軌道敷設特許願を申請している。

貨物輸送については、師団線と交差する鷹栖専用線(国鉄近文駅~第7師団)の利用を目論み、師団線大町七丁目付近より分岐して、鷹栖専用線2.7km付近に接続する0.5kmの貨物専用電気軌道の敷設特許願を申請し、札幌鉄道局に対して鷹栖専用線を国鉄営業線に変更して貨物駅を設け、一般貨物の取扱いを行うよう請願した。

ところが、経済不況と既設線の営業不振、相次ぐ凶作による農村の疲弊などにより計画は頓挫し、1933年(昭和8年)には計画を一線六号~鷹栖村十線十三号間8.9kmのみに短縮して再申請したが、結局は取下げとなった。

一方、鷹栖専用線の国鉄営業線化は旭川市長も競願の形で別途札幌鉄道局に請願し、貨物駅設置工事を市費等にて行う旨を示した。 こちらも第7師団との交渉が難航して戦前には実現しなかったが、戦後の1950年に国鉄函館本線の貨物支線に変更して旭川大町駅が設置される事で陽の目を見ている。


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No Subject * by 鳳山
旭川市街軌道にそういう歴史があったんですね。勉強になりました。

Re: No Subject * by  風来梨
鳳山さん、こんばんは。

> 旭川市街軌道にそういう歴史があったんですね。勉強になりました。

私もこの書庫の記事を書く度に、新たな発見と交通の歴史を大いに学びますね。
そして、鉄道路線の栄枯盛衰を1路線ずつ知識にしていく喜びもありますね、

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No Subject

旭川市街軌道にそういう歴史があったんですね。勉強になりました。
2020-05-08 * 鳳山 [ 編集 ]

Re: No Subject

鳳山さん、こんばんは。

> 旭川市街軌道にそういう歴史があったんですね。勉強になりました。

私もこの書庫の記事を書く度に、新たな発見と交通の歴史を大いに学びますね。
そして、鉄道路線の栄枯盛衰を1路線ずつ知識にしていく喜びもありますね、
2020-05-08 *  風来梨 [ 編集 ]