風来梨のブログ

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私の訪ねた路線  第42回  高砂線

『私の訪ねた路線』  第42回  高砂線  〔兵庫県〕
 

加古川駅があつらえた
「さよなら高砂線」のスタンプ
 
《路線データ》
      営業区間と営業キロ             輸送密度 / 営業係数(’83)
     加古川~高砂 6.3km               989  /   898
       
     廃止年月日          転換処置         廃止時運行本数
     ’84/12/ 1           神姫バス           13往復
 
    《路線史》
加古川の水運に頼っていた物資の輸送を代替すべく設立された播州鉄道によって、1913年から翌年にかけて建設・開通した路線である。 2008年4月に廃止となった三木鉄道(旧 国鉄三木線)や北条鉄道(同 北条線)と出身は同じである。

だが、この高砂線は前出の2路線や加古川線などと違い、港を有する高砂での荷揚げや物資の集散の任を負うべく、貨物運用を主として建設された路線である。 従って開業当初から、貨物輸送の合い間に旅客列車が運行される運転体系が取られていたようである。

やがて経営は播州鉄道から播丹鉄道に譲渡され、買収・国有化されたのが戦時中の1943年である。
港を有し、我が国屈指の臨海工業地帯である高砂であれば、軍事拠点として重要視されるのは当然の事だろう。 この点が、戦時中に不要不急路線として資材供与する為に、線路を剥がされた多くの廃止路線と異なっている。

戦後に入ると、港ヤードを有する広大な敷地に国鉄・高砂工場が置かれ、貨物列車を始め工場入出場による車輌回送運用も多く見られたとの事である。 だが、これらの運用は多かれど、高砂市内中心部に乗り入れているという好条件であるにも拘らす、旅客列車の運行は2時間に1本程度と少数設定に留められた。

やがて、貨物輸送が陸運(トラック輸送)に切り替り、貨物輸送の鉄道離れが顕著になってくると、高砂線の存在する播磨臨海工業地帯も“右に習え”で輸送物資をトラック輸送へ転換してゆく。 こうして、貨物輸送が主体の高砂線は経営が行き詰っていったのである。

こうなると、旅客輸送を軽視していた痛手だけが残るのである。 人口の多い都市圏に路線はあれども「2時間に1本」の運行では旅客にソッポを向かれ、その旅客需要は神戸や姫路への直通電車を頻繁に運する山陽電鉄や、加古川へ15分ヘッドの頻発運転をする路線バスへと流れていった。 
残る利用客層といえは定期券の安さから朝夕の工場通勤者の利用がほとんど・・という、末期のローカル線の多くが抱える実態に陥っていたようである。

こうして、国鉄再建法の施行により第一次の廃止路線候補として指定される。 路線廃止が諮問された当初は大工業地帯の播磨臨港を抱え、沿線人口も廃止路線の中でも屈指という好条件に加えて国鉄高砂工場の存在もあって楽観視されていたが、不退転の決意で廃止を迫る国鉄サイドによって1984年2月に貨物営業の廃止(同時に貨物専用線である高砂~高砂港〔貨物駅〕の1.7kmも廃止)、4月には高砂工場の廃止と立て続けに外堀を埋め尽くされる。

その中で、早急の廃止を迫る国鉄サイトに抗するが如く第3セクター運営の案も出されたが、加古川に架かる第二加古川橋梁の老朽化によって将来的な橋梁の維持に莫大な費用が必要な事が判明し断念。
そのまま、同年の1984年11月末をもって路線廃止、神姫バスへのバス転換となった。
 


 

何とも色気の無い
「高砂線さよなら」企画乗車券
 
   《乗車記》
加古川駅の母屋から最も外れたホームが、当時非電化だった加古川線と高砂線の発着ホームだった。
そして、この高砂線は、加古川線と肩を並べて“一丁前”に専用の発着番線を与えられていたのである。 
その高砂線専用ホームより列車は発車する。
 
加古川駅を出た列車は暫く加古川線上を行き、やがて加古川線が北へ離れていくように分かれていく。
加古川線を分けると築堤上に上がって南に進路を取り、山陽本線と国道2号線をオーバークロスして瀬戸内海方向へ進んでいく。
 
山陽本線と国道2号線を越えると、築堤より降りて高砂の市街地へと入っていく。 高砂市の役所が見えると、野口駅である。 野口駅は別府鉄道との共用駅で、別府鉄道のバスケット付のゲテモノ気動車と肩を並べる風景が良く見られた。 ちなみに、国鉄随一のボロ車両と揶揄されていたキハ30が、この駅で別府鉄道のゲテモノ気動車と肩を並べると、鋼鉄製の頑強な車両に見えたのは皮肉である。
 
野口を出ると、駅間距離が僅か0.7kmとエンジンをひと噴かしで鶴林寺に着く。 近くには国宝・重文に指定されている三重塔の鶴林寺がある。 次の尾上は、山陽電鉄の築堤の影に隠れるように駅があった。 そして建替えられた駅舎は、どうみても自転車置場のようにしか見えぬ代物だった。
 
尾上を出ると、高砂線の命運ともいえる加古川にかかる第二加古川橋梁(上記の如く、この橋の架替費用が元で廃線へと流れが傾いた)を渡って、建物の裏路地にあるが如くに設けられたホームだけの駅・高砂北口に着く。 ホームを出て踏切を渡ると山陽電鉄の高砂駅で、この乗換の需要があったせいか、線内随一の乗降客数であったという。
 

能「高砂や~」からなのでしょうか
高砂駅のスタンプ
 
次の終点・高砂へはほんの500m程で、歩いてでも行ける距離だ。 駅舎は存在するが無人化されて久しく、車掌が切符を回収していた。 この先にも三菱重工や神戸製鋼の専用線が延びていて、さらに国鉄の高砂工場などにも専用線が配され、また高砂の港へも貨物線もあって、建設当時は国の根幹を荷う港湾路線であった事が伺える。

   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『高砂線』を御覧下さい。





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