2020-04-15 (Wed)✎
廃線鉄道 第13回 名鉄三河線・海線区間 〔愛知県〕
レールバス化などの経費削減策及ばず
三河線・海線区間の碧南~吉良吉田は
2004年4月に路線廃止となった
※ ウィキペディア画像を拝借
三河線(みかわせん)は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線であるが、かつては現在の北側の終着駅である猿投駅の先が西中金駅まで、反対の南側の終着駅である碧南駅の先は吉良吉田駅まで路線が延びており、吉良吉田駅で同じ名鉄線の蒲郡線・西尾線と接続して、名古屋本線の知立駅・新安城駅を介して環状でつながっていた。
この三河線は名古屋本線の知立駅から南北に分岐する支線で、名鉄路線の中では名古屋本線に次ぐ路線距離を持っている。 路線の前身は三河鉄道で、当初は全線が一体となって運行されていたが、1950年代に知立駅の配線がスイッチバック形状に変更されてからは同駅を境に運用が分断され、以来猿投方面の山地へ向かう北側を山線(やません)、碧南方面の海に近い南側を海線(うみせん)と通称するようになった。
この三河線であるが、2004年4月1日に『山線』・『海線』の両端区間(西中金~猿投、碧南~吉良吉田)が廃止された。 これらの区間は末端区間ゆえの閑散区間で、西中金~猿投は1985年から、碧南~吉良吉田は1990年から合理化のため電車運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。
同じく廃止となった『山線区間』より
市街地を通っていたからなのか
3扉のレールバスが使用されていた『海線区間』
※ ウィキペディア画像を拝借
しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は1998年11月24日に鉄道事業の合理化策として赤字路線6線区(この末端の両区間と揖斐線・黒野~本揖斐、谷汲線・黒野〜谷汲、八百津線・明智~八百津、竹鼻線・江吉良~大須のいずれも輸送密度が2,000人/日未満の過疎路線)を廃止する方針を決め、2000年3月に末端区間など赤字6線区の廃止届を、同年9月末までに提出する方針を決定した。
また、同月中(2000年3月)には、翌2001年10月までに廃線とする事を沿線自治体に通知した。
本来の廃止予定だった同年9月末から、沿線自治体による年間最大1億円の『山線区間』への赤字補填で鉄道の存続が図られたものの、このまま赤字補填を続けても近い将来に三河旭~中畑間の矢作川橋梁の架け替えに莫大な費用(150~160億円と概算)を要するとの懸念が持ち上がった。
『海線区間』三河湾に注ぐ河口付近をゆく
単行気動車と放置されたモーターボート
※ ウィキペディア画像を拝借
その事で、西尾市が先立って存続を断念する表明をした事で、周囲の他の海線沿線自治体も西尾市に追随して海線側の廃止及び代行バス転換が決まり、山線沿線自治体(豊田市・足助町など)も海線側の路線廃止に追随する結果となった。 そして2003年3月27日には『海線区間』、8月6日には『山線区間』の廃止届が、それぞれ名鉄から中部運輸局を通じて国土交通省に提出された。
廃止前の運行本数は一部時間帯を除いて毎時1本程度の設定で、全列車ワンマン運転であった。
多客期には増結が行われ、最大で3両(キハ10形の場合。キハ20形・キハ30形では2両)での運転も見られた。
廃止後、山線廃止区間(西中金~猿投)には豊田市から委託された名鉄東部交通・豊栄交通による『さなげ足助バス』(現・とよたおいでんバス・さなげ足助線)が運行を始めた。 この路線代替えバスは、四郷駅~猿投駅~西中金~香嵐渓~足助~百年草を結んでいる。 一方、海線廃止区間(碧南~吉良吉田)では、代替バスとして『ふれんどバス』が運行を開始し、碧南~吉良吉田~吉良高校前間を運行している。
海線廃止区間はほぼ三河湾に沿って走っていたが、碧南市内区間(碧南~三河旭)は市街地を3分の2周する大きなΩカーブとなっていた。 これは海水浴場の最寄り駅として玉津浦駅の設置を決めた後、同駅北東部に位置する棚尾町などの誘致運動に対応した為といわれる。
20憶円もの費用で建設されたものの
完成後に廃線表明がなされて
批判が噴出した寺津高架橋
:
その遺構は廃線跡いうより未成線のようだ
※ ウィキペディア画像を拝借
また、三河楠駅~寺津駅間にある寺津高架橋は、三河南部から中部国際空港へのアクセス道路となる県道衣浦岡崎線への踏切設置を避ける為におよそ20億円(国が11億円、県が9億円、名鉄が3000万円を負担)の費用で建設されたもので、1998年11月に供用を開始して間もなく名鉄が同区間の路線廃止を表明した為に、わずかな期間しか利用されない事となって高架橋工事への批判が噴出した経過がある。
名鉄三河線・海線の廃止区間の予想路線図
及び路線廃止後の駅跡詳細
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
営業キロ(路線距離):碧南~吉良吉田 16.4km・軌間:1067mm
駅数:13駅(現存駅と1969年に廃止となった1駅を含む)
〔碧南〕・玉津浦・棚尾・三河旭・中畑・三河平坂・三河楠・北寺津(1969年駅廃止)・
寺津・西一色・三河一色・松木島・〔吉良吉田〕
複線区間:なし(全線単線)・交換可能駅:三河平坂のみ・閉塞方式:票券閉塞式・
三河平坂駅では朝のみ係員が派遣されて閉塞扱いが行われ、それ以外の時間帯は碧~吉良吉田を1閉塞にした併合閉塞が実施されていた
電化区間:全線電化路線であったが、閑散区間での経費削減の為に1990年より電化運行を取り止め、
それ以来廃止時までレールバス型の気動車で運行していた
廃止時の運転本数:上下とも概ね毎時1本、ラッシュ時毎時2本の運行有
名鉄三河線・海線廃止区間関連 年表
1912年(明治45年) 5月30日 三河鉄道設立。
1914年(大正 3年) 2月 5日 三河鉄道が刈谷新駅~大浜港(現、碧南駅)間開業。
1920年(大正 9年)12月 2日 鉄道免許状下付(碧海郡大浜町〜宝飯郡蒲郡町間)。
1926年(大正15年) 9月 1日 大浜港(現在の碧南)~神谷(後の松木島)間開業。
1928年(昭和 3年) 8月25日 神谷(後の松木島)~三河吉田が開業で海線区間全通。
1941年(昭和16年) 6月 1日 名古屋鉄道が三河鉄道を合併し、西中金~蒲郡 間を『三河線』
と改称する。
1958年(昭和33年) 6月27日 足助~西中金 間の免許が失効し、延伸計画を断念。
1960年(昭和35年) 3月27日 平坂支線・西尾〜港前 4.5km 路線廃止。
1969年(昭和44年) 4月 5日 北寺津駅廃止。
1990年(平成 2年) 7月 1日 碧南~吉良吉田の電気運転を廃止し、レールバスを投入する。
同区間でワンマン運転開始。
1998年(平成10年) 11月 寺津高架橋完成。三河楠〜寺津間高架化。
2003年(平成15年) 3月27日 『海線区間』碧南~吉良吉田の廃止届を国土交通省に提出。
2004年(平成16年) 4月 1日 碧南~吉良吉田の路線廃止。
海線区間はこの長大な矢作川橋梁さえも
撤去されて遺構はほとんど残っていない
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後と廃線跡
山線廃止区間は、山間部ゆえに放置されたレールが落ち葉に埋もれるなど自然に還りつつある部分もあるが、地元自治体の活動により枝下駅や三河広瀬駅が広場として一部整備された他は、駅舎・ホーム・レール・鉄橋(矢作川橋梁など)はほとんど撤去されずに廃線当時のままの姿で残されている(但し、踏切部分は撤去)。 なお、山線廃止区間の詳細は、前回の『廃線鉄道 第12回』の山線区間を参照下さい。
一方、海線廃止区間は前述の矢作川橋梁を含むレールや鉄橋などがほとんど撤去され、駅も三河一色駅のように駅舎が解体されたり、中畑駅のように駅そのものが更地化されるなど、往時の面影を偲ばせるものは少なくなっている。 跡地の対応は自治体によって異なるが、碧南市では三河旭駅までのΩカーブ区間(名鉄跡地緑地)を『碧南レールパーク』として公園緑地化する事業を進めている。
『碧南レールパーク』として
公園整備された三河旭駅跡
:
かつてのホーム跡に向かって
白線で当時の構内配線が描かれている
※ ウィキペディア画像を拝借
なお、この『碧南レールパーク』は、碧南市街に所在した玉津浦・棚尾・三河旭の3駅跡地で、ホーム跡を活用してのステージや赤い車両を模したベンチ付きの休憩所・照明器具を設置可能な時計塔・子供用の遊具などが設置され、野外イベントを開催できるように整備された鉄道跡野外公園計画で、2017年3月に全ての整備が完了した。
かつて、三河平坂駅から南西に約400m離れた位置に、平坂支線の平坂口駅が設置されていた(1960年3月27日廃止)。 平坂支線の前身は、岡崎駅と西尾駅の間を結ぶ路線を建設した西尾鉄道で、同社は1914年に平坂まで路線を延伸させている。 その後は、三河線の前身である三河鉄道が当地まで延伸する際、当初は西尾鉄道港前駅に乗入れる事を考えていたが、両社間で折り合いがつかなかったため乗入れを諦め、平坂町北側に三河平坂駅を設置した。
この為、平坂区域では同じ方向に延びる2つの私鉄路線が競合する形となり、西尾鉄道と三河鉄道の間で平坂の客の取り合いをしていたという。 西尾鉄道が企業合併で愛知電気鉄道、名古屋鉄道となってからも状況は変わらず、また三河鉄道も名古屋鉄道に合併され2つの路線が同社線となってからも駅統合は行われず、両路線間の徒歩連絡による乗換えは平坂支線の廃止まで続いていた。
旧平坂支線から転用された
県道を跨ぐオーバーパス
:
『海線区間』碧南~吉良吉田の廃止後
この線路跡は築堤ごと撤去されている
※ ウィキペディア画像を拝借
平坂支線とは三河平坂〜三河楠の間で立体交差していたが、先に建設された平坂支線(西尾鉄道)に優先権があり、後発の三河線(三河鉄道)は築堤を建設し平坂支線をオーバーパスしていた。 平坂支線廃止後は路盤跡が道路(愛知県道43号岡崎碧南線)に転用され、道路拡幅によりかつての跨線橋も架け替えられ平坂跨道橋となったが、三河線の『海線区間』の末端部分(碧南~吉良吉田)廃止後は、その役目を終えて撤去されている。
『碧南レールパーク』として
公園整備された玉津浦駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
玉津浦駅(たまつうらえき)は、かつて愛知県碧南市塩浜町3丁目にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 ホーム1面1線の停留場で、晩年はホームに上屋はなかった。 かつて、当駅付近より貨物線(大浜臨港線運送の専用線)が伸びていた。 2003年度の乗車人員は1日平均32人との事。
現在の駅跡は、『碧南レールパーク』として公園整備されている。
『碧南レールパーク』として整備された駅跡で
当駅より分岐はていた大浜臨港線運送専用線の
線路跡が白線で描かれている(右側が大浜臨港線)
※ ウィキペディア画像を拝借
大浜臨港線運送専用線
玉津浦駅から字大水落(現・岬町2丁目)まで伸びていた貨物側線は『大浜臨港線運送』が所有する専用線であり、大浜口支線と同じく衣浦港船運と鉄道とを中継する為に建設された(大浜口支線が堀川で接続したのに対し、当側線は蜆川で接続していた)。
この側線には特別な名前も無く、一方で碧南駅~玉津浦駅間にあった大浜口支線の別称『大浜臨港線』が会社名と被っていた事もあり、両者は混同されやすい。 大浜口支線と異なり戦後まで存続し、玉津浦海水浴場への臨時輸送として旅客電車が走った事もあったが、伊勢湾台風の被災により廃止された。
廃止間際の棚尾駅
:
島式ホームだった線路跡は
完全に埋められていたが
その面影を見る事ができた
※ ウィキペディア画像を拝借
棚尾駅(たなおえき)は、かつて愛知県碧南市棚尾本町5丁目にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 ホームは1面1線の停留場であった。 かつては、列車交換が可能な島式ホームだった。
2003年度の乗車人員は1日平均30人との事。 現在の駅跡は、『碧南レールパーク』として公園整備されている。
名鉄の車両カラーの赤をモチーフにした
公園内のトイレと休憩ベンチ
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後しばらく放置されていた三河旭駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
三河旭駅(みかわあさひえき)は、かつて愛知県碧南市志貴崎町1丁目にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 島式ホーム1面2線で列車交換可能であったが、1965年に貨物営業が廃止となり、以降棒線無人駅化されて1面1線のみになっていた。 また、駅舎も無人駅化後数年で解体・撤去されている。
2003年度の乗車人員は1日平均47人との事。 現在の駅跡は、『碧南レールパーク』として公園整備されている。
三河鉄道は大浜港駅(現・碧南駅)から平坂方面へ路線を延伸する際、当初の計画では玉津浦海水浴場への輸送を考慮した海岸沿いのルートで西尾鉄道港前駅に至る予定であった。 だが、棚尾町(旭村説もあり)が同時期に三河鉄道に対して駅設置の誘致運動を展開しており、延伸のための用地提供を提言していた。
路線敷設時の諸事情から
碧南~三河旭の区間は
Ωカーブで市街地を周回していた
※ ウィキペディア画像を拝借
資金繰りが苦しかった三河鉄道はこの提案を受けてルートを変更したが、(予定より手前に設置したとはいえ)大浜港駅から見て南に位置する玉津浦駅と、ほぼ東に位置する三河旭駅などを一本の線路で結んだ為、線形がS字状(碧南駅からだとΩ状)に蛇行する形となってしまった。
この線形の為、かつては三河旭駅で上り列車に乗り遅れた場合、3つ先の碧南駅や4つ先の新須磨駅(現:碧南中央駅)まで自転車で移動すれば、碧南駅で交換停車する事もあって逃した列車に追いつけたという。
廃止直前の中畑駅
※ ウィキペディア画像を拝借
中畑駅(なかばたえき)は、かつて愛知県西尾市平坂町にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。
廃線前までは2両編成に対応した1面1線ホームのみの駅であった。 敷地の形状や交換設備の跡から、かつては島式1面2線のホームであった事が伺えたが、廃駅となった後に更地化されて、現在は駐車場となっている。 2003年度の乗車人員は1日平均49人との事。
『海線』廃止区間で唯一の交換設備を持つも
使用されたのは朝のラッシュのみで
通常は北側の線路の1線スルー方式だった
※ ウィキペディア画像を拝借
三河平坂駅(みかわへいさかえき)は、かつて愛知県西尾市平坂町にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 2004年4月1日の同線・碧南駅~吉良吉田の廃止に伴い、廃駅となった。 2003年度の乗車人員は1日平均95人との事。
三河線の前述した廃線区間で、廃止時点において唯一交換設備が存在した駅である。 住宅街に囲まれた位置にある駅という雰囲気が強く、無人駅となっていたがコンクリート造りの駅舎があった。
ホームは島式で、構内踏切(遮断機や警報機はない)によって南側から入る構造になっていた。
なお、駅舎はしばらく放置されていたが、2006年に解体・撤去されている(ホーム跡は2018年撤去)。
なお、分岐器には発条転轍機(スプリング・ポイント)が採用されていたが、廃線直前には常時は上下列車ともに吉良吉田方向に向いて左側(北側)の線路を通るように固定され、朝に列車交換を行う時のみ機能していた。 その他、駅構内にはかつて貨物扱いを行っていた時代の側線が、朽ち果てながらも残されていた。
また、朝1本のみだったが、平坂始発の碧南行列車も存在(同駅7:13発)した。 その列車は碧南から回送され、南側線路にて客扱い・折り返しをしていた。 碧南~吉良吉田の間は、朝ラッシュ時限定で三河平坂駅にてタブレット交換をしていた。 レールバス化の直前(1985年)に無人駅化されていたが、始発列車から朝9時半まで名鉄社員が出張してタブレット交換要員として待機していたが、切符販売などの駅務は一切行わなかった。
廃止後は近年まで
放置されていた三河楠駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
三河楠駅(みかわくすえき)は、かつて愛知県西尾市楠村町にあった名古屋鉄道・三河線の駅で、ホーム1面1線の停留場規格の駅であった。 だが、路線敷設時にあったと思われる交換設備の跡や、貨物用ホームが残っていた。 駅南には県道を跨ぐ高架橋があった。 2003年度の乗車人員は1日平均84人との事。 現在の駅跡は全て撤去されている。
廃止後はしばらく
放置されていた寺津駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
寺津駅(てらづえき)は、かつて愛知県西尾市寺津町にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。
廃線前までは4両編成に対応した1面1線ホームのみの駅であった。 交換設備の跡や、ホーム待合席の屋根の形状から、かつては島式の1面2線であった事や、他にも貨物用ホームがあった事が伺えた。
2003年度の乗車人員は1日平均114人との事。 現在の駅跡は駐車場となっている。
駅廃止の1969年より半世紀の間
放置されていた旧北寺津駅ホーム
※ ウィキペディア画像を拝借
北寺津駅
寺津駅は当初0.6km三河楠寄りにあり、1927年(昭和2年)3月25日に廃止時の位置へと移転した。
その後の同年7月25日には、移転後の寺津駅から三河楠寄り0.5kmの位置に北寺津駅が設置されている。
北寺津駅は1944年に休止となり、1969年4月25日に正式に廃止となるが、三河鉄道時代のホームは廃止後もそのまま残されていた。
路線廃止後放置されたまま
草むしる西一色駅跡
※ ウィキペディア画像を拝借
西一色駅(にしいしきえき)は、かつて愛知県幡豆郡一色町(現、西尾市一色町)味浜にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 4両編成対応のホーム1面1線の停留場であった。 昔は木造の駅舎があったが、無人駅化後に解体された。 構内は広く、昔貨物の積み下ろしをしていたと思われるホーム跡が残っており、昔の繁栄を思わせる。 2003年度の乗車人員は1日平均207人との事。 駅ホーム跡は永らく放置されていたが、最近になってようやく撤去された。
『海線』廃止区間の駅で業務委託ながらも
唯一駅務を行っていた三河一色駅
※ ウィキペディア画像を拝借
三河一色駅(みかわいしきえき)は、かつて愛知県幡豆郡一色町(現、西尾市一色町)前野にあった名古屋鉄道・三河線の駅である。 晩年はホーム1面1線の停留場であったが、1984年まではホーム島式1面2線で列車の行き違いが可能であった。 また最盛期には貨物側線が2本あった。
かつての貨物側線跡が残る三河一色駅
※ ウィキペディア画像を拝借
駅舎はコンクリート製で、廃駅後は数年間代替バスであるふれんどバスの事務所として使われていたが、2008年に解体されて駅跡は更地となっている。 1984年4月1日付けで名鉄の駅員の配置はなくなったが、2003年7月31日までは名鉄東部観光による管理委託駅で、切符を販売していた。
2003年度の乗車人員は1日平均167人との事。
迎賓館駅舎の跡地は
掘立小屋の自転車置場となった
※ ウィキペディア画像を拝借
松木島駅(まつきじまえき)は、かつて愛知県幡豆郡一色町(現、西尾市一色町)松木島にあった名古屋鉄道三河線の駅である。 晩年はホーム1面1線の停留場であったが、かつては島式1面2線で列車交換が可能であった。
三河線の同区間を敷設した三河鉄道の
創業者・神谷伝兵衛の功績を称えて
建設されたという貴賓室付きの豪勢な駅舎
※ 名鉄資料館の掲載写真より
昔は貴賓室付きの大きな駅舎があったが、1978年に解体されている。 この駅には、名古屋鉄道最後の腕木式信号機があった。 2003年度の乗車人員は1日平均130人との事。 現在の駅跡は駐車場となっている。
この駅も廃止後永らく放置されていた
※ウィキペディア画像を拝借
通気の悪い空間に籠る『密閉』
狭い所に人がタカる『密集』
近距離の会話や発声の『密接』
武漢ウイルスに感染しない為に
この『三密』を防止する事が
求められているが
それ以上に警戒しないといけないのが
『出所の不確かなマスクの着用』と
『外国人に近寄らない事』が挙げられるね
なぜなら『出所の判らぬマスク』=『シナ製マスク』で
武漢ウイルスがねっとりと着いていて
こんなマスクを着けると自ら
武漢ウイルスを吸い込んでいるようなモノだし
外国人は統計的に日本人の30~50倍の
感染リスクを持つ病原体そのものだからね
- 関連記事
スポンサーサイト
No Subject * by ガーゴイル
西尾駅から西の線路と吉良吉田駅から西に線路がないのは吉良吉田駅から西の線路が蜆川から東の区間が国道247号線よりずっと南を通る経路でないからであって常滑駅に東からの線路を建設するのは半田駅と知多半田駅の経由にすべきであって吉良吉田駅から西の線路と半田駅と知多半田駅の経由の線路を接続すべきである。
Re: No Subject * by 風来梨
ガーゴイルさん。 こんばんは。
コメントを頂き、有難うございます。
コメントを頂き、有難うございます。