2020-04-03 (Fri)✎
廃線鉄道 第11回 有田鉄道 〔和歌山県〕
金谷口駅で発車までのひとときを待つ
国鉄払い下げのキハ58の両運転台改造車
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道(ありだてつどう)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現在の有田川町)の藤並駅と金屋口駅とを結んでいた鉄道路線である。 2002年12月31日限りで廃線となった。
沿線の特産品・蜜柑輸送に
使用されたディーゼル機関車
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道は、沿線で穫れた木材や蜜柑(有田みかん)などの農産品を積出港である湯浅港まで運搬する目的で、1913年2月に設立された。 1915年5月に海岸駅~下津野駅間、1916年7月に下津野駅~金屋口駅間が開業した。
1926年8月に鉄道省の紀勢西線(1959年の全線開通を機に、現在路線名の紀勢本線に改称される)が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並駅を新設して同線との連絡を行った。 これによって、藤並駅から国鉄線を通して、蜜柑を満載した「蜜柑列車」が全国へ運行されるようになった。
有田鉄道の線路は
沿線の特産品・密柑の畑の中を通っていた
※ ウィキペディア画像を拝借
一方、紀勢西線と並行していた海岸駅~湯浅駅~藤並駅間は、『不要不急路線』として1944年12月に休止となりレールが撤去された。 レール撤去後は、以降は復活する事なく1959年4月3日に正式に廃止となった。 廃線敷の一部は、後年紀勢本線の複線化の際に転用されている。 なお、この海岸~藤並の廃線跡については、戦前に路線休止処置となりそのまま廃止となるなど実質は戦前の廃止路線と同様である為、この項目に記載するのみとして他は割愛する。
1960年代は鉄道輸送が陸上輸送の盟主であり、貨客共に大いに勢いを持っていたが、1970年代に入るとモータリゼーション(自動車の普及)の波やそれに伴う道路の整備で、蜜柑などの輸送は次第にトラック輸送に置き替えられるようになり、1984年2月に貨物営業は廃止となった。
貨物輸送の廃止により大きな収入源を失った事で、人員の大幅削減や車両保守を近くの自動車整備工場に委託するなどの合理化が図られた。 また、紀勢本線への乗り入れは、信楽高原鐵道の正面衝突事故の後の1992年12月1日に廃止となった。
この頃になると、利用者のほとんどが沿線の高校への通学生に限られるようになっていた為、1995年3月から、第2・第4土曜日と日曜・休日(つまり学校の休日)は全列車運休して並行する道路を走る路線バスで代替するようになり、1日の運行本数も次第に減少していった。
これにより鉄道施設の整備は放棄され、駅舎や軌道の状態は現役路線とは到底思えぬほどに荒廃していたようである。 そのエピソードの一つとして、一部の踏切は遮断棹が下りず、列車通過の際に係員が車を制止して対応する事例が多発したという。
樽見鉄道より譲渡されたレールバス導入を機に
ワンマン化と金谷口駅の旅客業務の放棄が行われた
※ ウィキペディア画像を拝借
金屋口駅出札窓口は、樽見鉄道よりレールバス型のハイモ180形を譲り受けてのワンマン運転実施時に閉鎖され(運転取り扱い上駅長常勤のため駅自体の無人化ではない)、鉄道線において乗車券の販売は行われなくなった。 これによって、定期乗車券・回数乗車券の販売は一切行われず、バスの定期乗車券や回数乗車券にて並行する鉄道区間にも乗車可能な扱いとなった。
後に出札窓口を鉄道案内所として再開(ただし監督官庁許認可の都合上、駅の出札窓口としては最後まで閉鎖したままとの扱い)、鉄道愛好家に対し記念グッズとしての各種乗車券類の販売を行うが一般乗客に対しては降車時の現金払いを案内していた。
2001年(平成13年)11月1日からは運転本数が1日2往復(最終列車は藤並12:00発)に減らされ、公共交通機関としては極めて少ない状態になっていた。 この事は「最も運行本数の少ない私鉄路線」として、鉄道マニアの間に有田鉄道の名を知らしめる事となった。
晩年期の利用者数は1日平均29人で、有田鉄道が鉄道廃止の意向を示した時も、元々バスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だった為、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんど上がらなかったとの事である。
こういった事情から、「2003年10月31日限り」という予定で2002年10月に路線廃止の申請を行なったが、廃止を早めても影響は全くないと判断された為に同年11月29日に廃止繰上届を提出し、当初の予定より10か月繰り上げた12月31日限りで路線廃止となった。
その廃止時のエピソードとして、鉄道車両の運転免許を所持する社員が1人しかいない状況になっていた・・という。 なお、有田鉄道は金屋口から先の清水町へ延伸する構想があったが、具体化まではいかなかった・・との事である。
現在の有田鉄道(株)は社名で『鉄道会社』と名乗るものの、2002年末をもって鉄道事業より撤退した以降は、路線バス及び貸切バス(観光バス)事業のバス事業を専業とし、その子会社でタクシー事業を運営するなど、自動車による観光客輸送を生業とする事業者となっている。
有田鉄道の予想路線図
及び路線廃止後の用地転用詳細
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
営業キロ(路線距離):藤並~金谷口 5.6km・軌間:1067mm
駅数:5駅(起点駅を含む)〔藤並〕・田殿口・下津野・御霊・金谷口
複線区間:なし(全線単線)・電化区間:なし(全線非電化)・
交換可能駅:なし(全線1閉塞)・閉塞方式:票券閉塞式(実質的にはスタフ閉塞)
廃止時の運転本数:1日2往復
有田鉄道が廃止になったこの頃は
ヤマに夢中で『○鉄』の記憶は『黒歴史』
として封印するしょうもない事をしてたなぁ
:
乗っておきたかったなぁ
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道 年表
1912年(明治45年) 3月 9日 : 有田軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(有田郡湯浅町〜同郡屋城村間)。
1913年(大正 2年) 2月17日 : 有田軽便鉄道株式会社設立。
1913年(大正 2年) 6月 : 有田鉄道株式会社に商号変更。
1915年(大正 4年) 5月28日 : 海岸駅~下津野駅間開業。
1916年(大正 5年) 1月 1日 : 海岸駅~湯浅駅の旅客運輸営業休止。
1916年(大正 5年) 7月 1日 : 下津野駅~金屋口駅間延伸開業。
1940年(昭和15年) 4月 9日 : 海岸駅~湯浅駅の旅客運輸営業廃止。
1944年(昭和19年)12月10日 : 海岸駅 - 藤並駅間休止。1959年(昭和34年)廃止。
1992年(平成 4年)12月 1日:JR湯浅駅への乗り入れが廃止となる。
2002年(平成14年)10月:翌2003年10月31日限りという予定で、2002年10月に路線廃止申請。
2002年(平成14年)11月29日:廃止を早めても影響は全くないと判断された為、廃止繰上届を提出。
2003年(平成15年) 1月 1日 : 鉄道路線全線廃止。
廃止後も系列子会社のタクシー車庫
として使用される旧金谷口駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後と廃線跡
藤並駅にあったきっぷ売り場や近辺の線路などは、施設の撤去費用が捻出できずに放置せざるを得なかった為、朽ちながらも廃止当時のまま残されていた。 上記の事から、保存目的で残していたのではないのはもちろんの事、当初から保存計画そのものが存在していなかったのである。
だが、藤並駅の特急【くろしお】停車に向けて、JR西日本と地元自治体で協議が行われた結果、駅舎の建て替え及びホームの延長が計画され、それに先立って有田鉄道のレールはようやく撤去された(ホーム及び切符売り場の撤去は2009年度)。
撤去費用の捻出ができずに
永らく放置されたままだった
有田鉄道・藤並駅の窓口施設
※ ウィキペディア画像を拝借
また、廃線後間もなく一部踏切が撤去・舗装化されつつも、本線はほとんどレールが引かれたまま放置されていたが、自転車歩行者専用道路として生まれ変わる為に2006年の夏頃からレール・枕木の撤去が始まり、2008年には田殿口駅と下津野駅の駅舎を解体しプラットホームを改修、御霊駅は駅舎を残しプラットホームと共に整備・改修された。 現在は遊歩道化工事は全て完了し、線路跡は快適な遊歩道となり、駅跡も途中の休憩所となっている。
一方、在籍車両2両は他社譲渡・廃車解体されたものの、その他の車両は処遇が決まらないまま金屋口駅の車庫奥に留置されて錆などの損傷が目立ってきていたが、鉄道用地と同時に沿線自治体に譲渡された。 2010年3月20日に、地元有田川町の手により金屋口駅構内が有田川町鉄道公園(交流館)として開園し、園内に動態保存されている。
鉄道公園として整備された
金谷口駅構内の有田鉄道・機関庫
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道線の最終期を語る時、『ふるさと鉄道保存協会』の存在があげられる。 同会は有田鉄道とは直接の関連はないが、同社公認会を自称し、有田鉄道自体もこれを否定しなかった。 最多時には8両の車両と国鉄コンテナ4個を構内に保存し、廃止当時の有田鉄道の2両(保線用モーターカー1両を加えても3両)をはるかに凌ぐ両数を所有していた。
国鉄払い下げのキハ58も保存されていた
※ ウィキペディア画像を拝借
この保存協会は路線廃止後も構内にて活動していたが、現在は活動を休止している。 その後、構内全域が同社から有田川町に譲渡され、有田川鉄道公園(交流館)が開園した現在も同町の許可を得て一部の車両が園内に残る。 但し、現在は同会に代わって金屋口鉄道保存協会が組織され、所有車の整備を同協会に委託している。
代行バスは、従来から並行して運行している『有鉄バス・藤並線』の増発という形が取られた。
即ち、従来は平日鉄道2往復、バス17往復であったのがバス19往復となり、本数の上では従来と変わらなかった(所要時間は逆にバスが1分短かった)。
しかし、廃止半年後の2003年6月に行われた調査によると、廃止時の1日あたり輸送人員は鉄道29人、バス57人であったものが、半年後にはバスの輸送人員が33人に激減していた。 2018年4月1日現在、同区間のバス路線は平日12往復、土日祝日7往復に減少している。 また使用車両も、朝夕の通学輸送時を除けばマイクロバスとなる事がほとんどである。
輸送実績は、最盛期の1960年代で1日平均で3657人の利用があったが、廃線の迫った2002年度は1日平均で29人まで落ち込んでいた。
有田鉄道の終点・金谷口駅
一見すると納屋か倉庫のような駅だった
※ ウィキペディア画像を拝借
金屋口駅(かなやぐちえき)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)徳田にあった、有田鉄道の駅である。 ホームは1面1線であったが、構内に車両基地があってそれに伴う運転扱いがあった為、有田鉄道で唯一の有人駅であった。 出札窓口は、ハイモ180形の導入によるワンマン運転実施時に閉鎖された。 駅前にはバスターミナルがあり、鉄道線の定期乗車券等の乗車券類は、そちらの案内所で販売されていた。
この車両基地があった為に
線内唯一の有人駅だったが
乗車券の販売などの駅の客扱い業務は
ワンマン化を機に全て放棄された
※ ウィキペディア画像を拝借
有田鉄道廃止後も駅舎は撤去される事なく、タクシーの車庫として再利用されている。
構内用地は有田川町に譲渡のうえ再整備され、2010年3月20日に有田川町鉄道公園(交流館)としてオープンしている。
在りし日の御霊駅
待合室は自転車置場になっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
御霊駅(ごりょうえき)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)庄にあった、有田鉄道の駅である。 コンクリート造の駅舎を持つ単式ホーム1面1線の駅で、無人駅であった。
遊歩道化した線路跡途中の休憩舎として
大改装・お色直しを受けた御霊駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
線路跡は遊歩道化され、駅舎は大改修とお色直しを受けて遊歩道上の休憩舎となって現存している。
廃止路線でよく見かけた
囲いだけの掘っ立て駅舎だった下津野駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
下津野駅(しもつのえき)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)下津野にあった有田鉄道の駅である。 無人駅だが、屋根のついた駅舎があった。 ホームは1面1線で、トイレが設けられていた。 また、腕木式信号機が残っている。
下津野駅跡
この駅跡も遊歩道上の休憩所
として整備されている
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅跡も遊歩道上の休憩地点として整備され、石垣のホーム跡の上に藤棚屋根の休憩場が設置されている。
田殿口駅と全19往復の内の17往復を占める
有鉄バス・藤並線の路線マイクロバス
※ ウィキペディア画像を拝借
田殿口駅(たどのぐちえき)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)野田にかつてあった有田鉄道の駅である。 無人駅。駅舎はコンクリート造りである。 1面1線のホームがあるほか、トイレがある。 かつてはみかんの貨物輸送が盛んで、駅に隣接する選果場からの側線があり、果実(みかん)輸送専用の貨車を留置していたという。
現在の田殿口無駅跡は旧駅ホームの石垣の上に
駅舎のレプリカとあずま屋が建つ休憩所となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
当駅跡も遊歩道上の休憩地点として整備され、石垣のホーム跡の上にあずま屋と駅舎のモニュメントが建てられている。
あの頃は何を考えてたのか・・
追っかける対象の目標以外は全て
ガン無視するしょうもない事してたなぁ
廃止ローカル線を追っかけていた時は
私鉄路線は意識的に無視していたし
ヤマに夢中だった時は
ローカル線を必死に追っかけていた
過去の自分を自身の
『黒歴史』として封印してたしィ
そんなしょうもない事して残ったのは
「あの時に目を向けてれは・・」
という激しい後悔だけだったよ
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