2020-03-01 (Sun)✎
路線の思い出 第368回 天北線・上頓別駅 〔北海道〕
在りし日の上頓別駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
音威子府~南稚内 148.9km 418 / 884
廃止年月日 転換処置
’89/ 5/ 1 宗谷バス
廃止時運行本数
音威子府~稚内 下り7本・上り6本(内 急行1往復)
音威子府~浜頓別 1往復
声問~稚内 1往復《休日運休》
曲淵~稚内 上り1本
上頓別駅(かみとんべつえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡中頓別町字上頓別にあったJR北海道・天北線の駅である。 天北線の廃線に伴って、1989年5月1日に廃駅となった。
駅名は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「トウ・ウン・ベツ」(沼から出る川)に由来し、川の上流域にあることから「上」を冠している。
廃止時点で1面1線の単式ホームを有する駅で、ホームは線路の北側(南稚内方面に向かって右手側)に存在した。 末期は分岐器を持たない棒線駅となっていたが、かつては2面2線の相対式ホームを有する列車交換可能な交換駅で、周囲より切りだされた原木の集散駅であった。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北側に位置し、ホームに接していた。 駅の利用状況は末期は調査が行われず不明だが、1997年に発行された中頓別町史に記載された調査によると、1953年で1日の乗車人員は50人との事である。 だが、過疎化が進んだ廃線直前は、おそらく1日の乗車人員は1ケタだと推察できる。
駅跡のバス停にはログハウス調の
小さな待合所が建てられている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅周辺には小さな集落が点在し、線路跡と平行して国道275号線が通じている。 その国道沿いに、ログハウス調のバス待合室が建てられている。 駅から約2kmにある八号沢はヤマベの好釣り場との事で、休日になると街に住む釣り好きが訪れるとの事。
なお、路線廃止後の駅跡の経緯であるが、1997年の時点では駅舎とホーム・駅名標がそっくり残存しており、駅舎はかなり痛んではいたがライダーハウスに再利用されていた。 だが、老朽化が激しく、2002~03年頃に撤去されて更地になっている。
後に『冬の北海道・駅寝4人衆』として知れ渡り
地元の郵便局から記念切手入りタトウの
購入依頼が来るほどとなった当時のワテ
この駅での思い出は、いつもの駅寝体験など『ブリバリ系』ではなく、さりとて地元の方に飯を食わしてもらうなどの『厚かま・・神展開』でもなく、この項目にしては珍しい『ほのぼのエピソード』である。
それは、天北線の音威子府からの始発列車は興浜北線の始発列車に使う車両の送り込みも兼ねていたので4時37分発と早く、この上頓別には5時03分に到着していた。 興浜北線の撮影を終え(この時に『厚かま・・神展開』エピソードがあった)、次に狙う天北線の撮影の為に、適当に撮影地に決めた上頓別に降りたのである。
逆に言い換えると
何の下調べもなしの行き当たりバッタリでも
カメラを構えていればコレ位は撮れるのですね
でも、何の下調べもナシに、「始発駅に近く撮れる列車の本数も多い」というただそれだけで降りた駅なので、この場所で撮影するビジョンは全くなかったのである。 思えば、幼稚思考の小僧の頃とはいえ、こんなに無計画の行き当たりバッタリで、よくこのブログに掲載できるような、廃線を語る貴重な写真を撮れたものだ・・と感心するよ。
でも、無計画の行き当たりバッタリだったからこそ、それ以降にこんな目に遭って冬の駅寝(ロクデナシ)の道にハマってしまったんだけど・・。
話しは反れたが、降りたのはまだ空が暗い5時をほんの少し周った頃。 駅には石炭ストーブがあり、その待合室の隅には風呂の浴槽のように大きな木のバケット桶に石炭がてんこ盛りにされていたのである。
でも、まだ北海道の冬は初めてのウブな(終業式サボリの)小僧で、この時は自ら千切ったバビ紙(魔法の紙=トイレットペーパーの事)でストーブの火を起こすなど夢の所業であった。 まぁ、次の冬の旅では、立派にロクデナシの道を邁進しつつあったけど。
上頓別駅に降りた時点では
使えない石炭ストーブと石炭は
ワテにとってはただのドラム缶だった
※ グーグル画像を拝借
それで、夜が明けて撮影ができる位に空が明るくなるまで駅で待機していたのだが、さすがに北の冬の夜明け前は寒く、ガタガタと震えが止まらなくなったよ。 その矢先に、駅守である近所に住むおじいさんがやってきて、「汽車撮りにきたのか? 寒かろうに・・ 今ストーブをつけてあげるからな」と優しく声をかけてくれた。
駅に設置されたストーブは
ロケット型と云われるこんなのでした
※ グーグル画像を拝借
だが、ストーブは煤が詰まっていたのか火の着きが悪く、へんな煙が駅舎内に立ち込めてきたのである。 それを見た駅守のおじいさんは、「コリャァ、煙突が煤で詰まっとるなぁ」と呟いて、煙突を木槌で叩きながら修正を始めたのである。
石炭ストーブの火力は絶大で
焚かれた室中ではTシャツでも暑い位となる
※ 津軽鉄道の広報ウェブより
ストーブは煤煙を出すものの火力は絶大で、着火して程なく駅舎内は温かさを通り越して上着を脱いでも構わぬ位に暑くなってきて、ガタガタと震えていたワテも息を吹き返してくる。 おじいさんはストーブと煙突の接続点を木槌で叩いて直していくが、今イチ煙の流れは良くならない。 なので、ワテが「手伝うよ」とおじいさんに言って、銀箱(カメラバック)の上に昇って、煙突の上部を木槌で叩いたのである。
火力がすざましいので
煤が煙突部に度々詰まるとの事
※ グーグル画像を拝借
すると、本当に煤で煙突の気道が詰まっていたのであろう・・、詰まった下水管の詰まりを直すと汚水が渦を巻いて吸い込まれるが如く、駅舎内に立ち込めていた煤煙がみるみる内に、ストーブの煙突に吸い込まれていったのである。
煤煙開通記念に
外から煙突を撮ってたみたい
これを見たおじいさんは、「直ったな・・ ありがとよ」といってニッコリとほほ笑んだ。
この時のおじいさんの優しい笑顔は、今でも鮮明に憶えている。 駅のストーブの火は日の最終列車まで焚かれ、火が消える頃に駅守のおじいさんが少しづつ石炭を焚べに来るそうである。
この頃は灯台には灯台守がいたように
駅にも駅を見守る駅守がいたのである
※ ウィキペディア画像を拝借
だから、昔の北の駅は駅舎も心も暖かだったのである。 だが、今のせち辛い世の中に移り変わるにつれ、その暖かさや思いやりが薄れていっているとワテは思う。 そう・・、ローカル線が全て廃止になったあの時を境に、人の温かさをも同時に冷めさせてしまったようですね。
「赤字だ!」、「経費のムダだ!」といって
地方の大切な足が次々と廃止となった
天北線もその一つだ
今では、日に数人の乗客の為に駅を暖めるって事は、「経費の無駄だ!」の一言で一蹴される事だろう。 現に、国鉄がJRに変わった以降は、無人駅の石炭ストーブは「ムダ!」の一言で撤去され、なおかつ味わい深い木造駅舎自体も、「古く倒壊の危険アリ」として次々と取り壊されていったよ。
なのに、オリンピックでも今回のウイルス騒ぎでも、外人や外国の顔色だけは伺っているんだよね。
正直言って、「思いやる相手が違うだろ!」と声を大にして言いたいよ。 おっと、ここは駅の思い出を語る場だから、この事は『日記』にて思いっきり語る事して、政治や時世を語るネタはこれ以上踏み込まないようにするとしよう。
「恵まれた条件では大器は育たない」との
言い伝え通り天北線・山線区間の『一番星』は
ピンネシリ岳が入った逆光のコレです
:
まぁ何て言いますか
キハ22がカックイイですね・・
心も身体も温かくなって、そしてこの日は小春日和の暖かい日中の撮影日和だったが、「恵まれた条件では大器は育たない」との言い伝え通り、天北線の音威子府~浜頓別間の『撮り鉄』はこの先の旅も含めてロクなモノか撮れませんでした・・ハイ。
天北線の山側部分は
何を意図して撮ったのかが
解らん写真のオンパレードだ
あまりにも撮影の意図が見えないので
調べてみると最後のキメ写真が
ド手ブレの異様な物体の写真だったよ
ブログ村などのランキングサイトに
参加すると日に日に自らの順位が
気になってくると言ったけど
それはブログ村に入ってまでも
アクセス数を増やしたいとする気持ちが
引き金となっている事が解ったよ
Yahoo!時代はランキングサイトなんぞに
入らずともYahoo!の知名度によって
勝手にランキングサイトで掲示されていたよ
でもFC2は閲覧者の数はYahoo!の10倍だけれど
全てにおいて自己集客だから
何もしなければ埋没してしまうんだよね
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
> 天北線は好きな路線で、浜頓別~稚内で何駅か下車して周辺をうろつきましたが、音威子府~浜頓別にあるこの駅には降りていないです。隣の小頓別はかつて歌登町営軌道が分岐していたという事で注目していたのですが。。
> 冬の上頓別駅に降りるなんて考えたこともなかったです(笑)
>
> 石炭ストーブは懐かしいですね~
> 小学校3、4年頃までは石炭ストーブが教室にありました。
> 書かれておられるように火力は強力で、ストーブ横の席に居ると暑さでウダるような状態でした。
> 幼稚園の頃などはお弁当をストーブの柵の上に置いて暖めて食べていましたね。
天北線の山線区間は、確かにオホーツク海に出てからよりも注目度が低かったですね。 有名処としては、縁起切符として有名となった仮乗降場の『寿』くらいでしょうか。
そして、山線区間は廃止になってから注目を浴びた区間も多いですね。 倒壊しかけの駅舎のあった冬季休業駅の上音威子府や、温泉の湧く道の駅・敏音知、今も駅舎の残る松音知など・・。 松音知は偏屈な奴が駅舎を買い取ったとかで、「ブログなどで自分の所有物である松音知駅の写真をアップするな!」とネットで吠えていましたね。 こんな了見の狭い男が、本当に駅舎を買ったのか疑問ですが。
石炭ストーブの火力は絶大ですね。 何でも、北に住む人はストーブの焚かれている家の中ではTシャツ一枚で過ごしているとか・・。 私の頃の学校は教室にはなかったですけど、用務員室にストーブがありましたね。 石炭ストーブではなかったですけど。 用務員さんはストーブの上にヤカンを置いて、そのお湯でカップラーメンを作って食べていましたね。
> 天北線は好きな路線で、浜頓別~稚内で何駅か下車して周辺をうろつきましたが、音威子府~浜頓別にあるこの駅には降りていないです。隣の小頓別はかつて歌登町営軌道が分岐していたという事で注目していたのですが。。
> 冬の上頓別駅に降りるなんて考えたこともなかったです(笑)
>
> 石炭ストーブは懐かしいですね~
> 小学校3、4年頃までは石炭ストーブが教室にありました。
> 書かれておられるように火力は強力で、ストーブ横の席に居ると暑さでウダるような状態でした。
> 幼稚園の頃などはお弁当をストーブの柵の上に置いて暖めて食べていましたね。
天北線の山線区間は、確かにオホーツク海に出てからよりも注目度が低かったですね。 有名処としては、縁起切符として有名となった仮乗降場の『寿』くらいでしょうか。
そして、山線区間は廃止になってから注目を浴びた区間も多いですね。 倒壊しかけの駅舎のあった冬季休業駅の上音威子府や、温泉の湧く道の駅・敏音知、今も駅舎の残る松音知など・・。 松音知は偏屈な奴が駅舎を買い取ったとかで、「ブログなどで自分の所有物である松音知駅の写真をアップするな!」とネットで吠えていましたね。 こんな了見の狭い男が、本当に駅舎を買ったのか疑問ですが。
石炭ストーブの火力は絶大ですね。 何でも、北に住む人はストーブの焚かれている家の中ではTシャツ一枚で過ごしているとか・・。 私の頃の学校は教室にはなかったですけど、用務員室にストーブがありましたね。 石炭ストーブではなかったですけど。 用務員さんはストーブの上にヤカンを置いて、そのお湯でカップラーメンを作って食べていましたね。
冬の上頓別駅に降りるなんて考えたこともなかったです(笑)
石炭ストーブは懐かしいですね~
小学校3、4年頃までは石炭ストーブが教室にありました。
書かれておられるように火力は強力で、ストーブ横の席に居ると暑さでウダるような状態でした。
幼稚園の頃などはお弁当をストーブの柵の上に置いて暖めて食べていましたね。