2020-02-29 (Sat)✎
廃線鉄道 第6回 山形交通・高畠線 〔山形県〕
地元高畠石を使用した旧高畠駅・駅舎
登録有形文化財に指定されている
※ ウィキペディア画像を拝借
山形交通・高畠線(やまがたこうつう・たかはたせん)は、かつて山形県東置賜郡高畠町の糠ノ目駅(1991年に高畠駅と改称)から二井宿駅までを結んでいた、山形交通の鉄道路線である。
高畠町周辺で製糸業が発展したため、工業製品の輸送を目的に敷設された路線である。
昭和期に入り電化され、第二次世界大戦前には工業製品のほかにも木材・乳製品・木炭・果物の輸送も担った。 戦後に入ると、道路の改良によって貨物輸送がトラック輸送に切り替えられた為に貨物輸送が激減する。
更に1966年の水害で高畠~二井宿が不通となり、バス代行に切り替えられ、2年後の1968年にそのまま復旧する事なく廃止となり、糠ノ目~高畠のみの営業となる。 その後はモータリゼーションの波に押されて、1974年に全線廃止となった。
山形交通・電車線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離:糠ノ目~二井宿間10.6km・軌間:1067mm・電化区間:全線(直流電化)・
複線区間:なし・閉塞方式:票券閉塞式
駅数:9 駅一覧
糠ノ目駅・一本柳駅・竹ノ森駅・高畠駅・東高畠駅・八幡宮前駅・蛭沢駅・上駄子町駅・二井宿駅
全線開業時の運行本数
糠ノ目~二井宿 下り12本上り13本
糠ノ目~高畠 下り2本上り4本高畠~二井宿 下り2本上り4本
所要時間:糠ノ目~二井宿およそ30分
高畠~二井宿が廃止となった1968年以降の運行本数
運行本数:16往復(6時台から20時台まで毎時0~2本)
所要時間:全線13分
高畠駅は、この地域の名産である高畠石を使って建設された石造りの駅舎であった。
高畠石はさらに、個別の石切場の名前を付けて細分化されており、高畠駅に使われたのは瓜割石切場から切り出された瓜割石であった。 設計は初代高畠駅長であった長島多吉である。 外観は黄土色で、車寄せのような玄関を備えた立派な建物となっている。
高畠駅より工場への専用線(0.3km)が伸びており、当初は片倉製糸紡績が撤退後はジークライト化学鉱業の所有となっていた。
廃線後に旧高畠駅公園に
静態保存されているモハ1
※ウィキペディア画像を拝借
山形交通・高畠線 年表
1920年(大正 9年)6月19日 高畠鉄道に対し東置賜郡糠野目村~同郡二井宿村間の鉄道免許状下付
1921年(大正10年)2月15日 高畠鉄道創立
1922年(大正11年)3月16日 糠ノ目~高畠間5.2km開業
1924年(大正13年)8月31日 高畠~二井宿間10.4km開業
1929年(昭和 4年)9月 1日 全線電化
1934年(昭和 9年)8月30日 高畠駅舎落成式挙行
1943年(昭和18年)10月1日 高畠鉄道・三山電気鉄道・尾花沢鉄道の3社が合併して
山形交通が設立される
1950年(昭和25年)12月1日 東高畠駅開業
1955年(昭和30年) 8月1日 安久津駅を八幡宮前駅、駄子町駅を蛭沢駅に改称
1966年(昭和41年)8月15日 水害により、高畠~二井宿間をバス代行輸送とする
1968年(昭和43年)10月1日 高畠~二井宿間廃止
おわかれ列車を牽引した
凸型電気機関車のED1
※ ウィキペディア画像を拝借
1974年(昭和49年)11月15日 この日限りで全線営業終了
11月17日 凸型電気機関車によるお別れ列車運行
11月18日 全線廃止
糠ノ目~高畠までの廃線跡は
サイクリングロード『まほろぼ緑道』
として整備されている
※ ウィキペディア画像を拝借
廃線跡
(旧)高畠駅の駅舎はそのまま保存されており、鉄道廃止後も代替する山交バス高畠待合所として利用されていた。 路線廃止後の代替バスは、町営になった後に廃止された。 電車1両(モハ1)・電気機関車1両(ED1)・貨車1両も保存されている。 路線跡はサイクリングロード『まほろば緑道』となり、置賜自転車道(米沢駅~赤湯駅)の一区間となった。
地元の人に愛された「マッチ箱」電車
※ 高畠駅公園を紹介するウェブサイトより
明治20年代から30年代にかけ、高畠でも竹ノ森にあった長谷川製糸や高畠町にあった両羽製糸所ほか多くの製糸場が操業を始め、明治33年4月には奥羽本線の糠野目駅(現在は高畠と改称)が開業した。
人々の地場産業振興の意気が高まると、当然に生産した製品の輸送についての関心が高まるようになった。
このような背景の中で高畠鉄道が誕生したのである。 この高畠鉄道は、戦前までは宮城県七ヶ宿町の湯原鉱山・二井宿の二重坂や金原鉱山の鉱石、二井宿・高畠の木材、木炭、牛、乳製品、石材、高畠・屋代の製糸、米、西洋梨・林檎・葡萄などの果物などの輸送が盛んに行われた。 また、地域の人々の足としてもその役を担っていた。
だが、戦後となって道路が整備され始めると、貨物輸送は徐々にトラック輸送に取って代わられ手いく。 それでも地元の人の鉄道に対する愛着は強く、貨物輸送のトラック輸送への切り替えが顕著になっていくものの、到着原料や工業用燃料(石炭など)の輸送は鉄道輸送を利用したのである。 そして、地元の人の鉄道への愛着は旅客輸送の実績に現れ、戦後まもなくの頃の旅客輸送は年間62万人(1日平均約1700人)を数えた。
車両の一部は高松琴平電鉄に譲渡され
四国でその余生を全うした
※ ウィキペディア画像を拝借
多くの乗客に愛された「マッチ箱」と呼ばれた小さな客車は「明治村」に移り、糠野目・高畠間の線路跡は『まほろばの緑道』として生まれ変わり、旧高畠駅公園には電気機関車・貨車・電車の各一輌が静態保存されている。
なんか廃線ネタでないブログが
参加数が低くてトップを取りやすい
『廃線』カテゴリでのさばってるね
ワテもそうだけど
やっぱり自分のブログを
見て欲しいんだろうね
だから自押しとかしてでも
ランキング1位を欲しがるんだろうね
:
でもワテのブログは
正真正銘の正統派の廃線ネタだよ
『山と高原』もガチガチのヤマネタだしィ
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