風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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私の訪ねた路線  第40回  宇高航路

 『私の訪ねた路線』  第40回  宇高航路  〔岡山県・香川県〕
 

普通船の乗車券
乗船した船名が入って良い
 
《路線データ》
         営業区間と営業キロ       輸送密度 / 営業係数(’83)   
      宇野(桟橋)~高松(桟橋) 18.0km       詳細不明

           廃止年月日              転換処置 
            ’91/ 3/16                JR本四備讃線 

転換時就航便数
        普通船便  14往復   高速艇便  7往復   ホバークラフト便  9往復
 
   〔航路史〕
1910年に岡山~宇野の宇野線が開業し、岡山~高松の航路と尾道~多度津の航路を統合して、宇野~高松間に航路を新設したのが始まりである。

本州と四国を結ぶ手段は船舶をおいて他に手段はなく、また陸路の移動手段のメインが鉄道であった事から、長らく幹線交通路として重用される。 だが1955年に、沈没に至る大きな船舶衝突事故(紫雲丸事故)が発生して多数の死者を出した事から、乗客を乗せたままの客車航送は中止される。
また、この衝突事故をきっかけに本四間の架橋構想が具体化していく。

先述の通り、この事故の発生によって客車列車の直接航送が中止された事から、高松・宇野の桟橋から列車ホームまでの長い距離を利用客が接続列車の座席を求めて全速力で駆け抜けるシーンが見られた。
これが俗にいう『四国三大走り』である。 この『四国三大走り』は、将棋倒しとなったり海に転落するなどで死亡事故が発生し社会問題になった事もある。

1972年に山陽新幹線が岡山まで延伸開業すると、四国地域より新幹線の発着駅である岡山までの時短が求められ、ホバークラフトによる急行便が設定される。 このホバークラフト便は急行船券が必要だが、宇野~高松を定期便の半分以下の23分で結び、時間にシビアな商取引のビジネスマンを中心に利用状況は高かったようである。 また、1985年よりは、多客時の臨時便として高速艇も運行される。

だが、1988年4月に、青函トンネルと並ぶ我が国の世紀の建設プロジェクトである鉄道・道路併用橋・瀬戸大橋が完成した事により、海峡間の輸送は本四備讃線による鉄道輸送に切り換えられる。 

これによってホーバクラフトと普通便が全て廃止となってしまったが、本四備讃線が宇野(玉野市中心部)を通らない事から、宇野周辺の利便の為に高速艇のみが細々と運行を継続している。

だが、その高速艇も、本四備讃線の利便性の良さから利用が振るわず、1990年3月21日に高速艇の運行が休止され、約1年後の1991年3月16日をもって正式に航路廃止か宣言された。 
青函航路とこの宇高航路の廃止をもって、我が国の鉄道連絡線運送事業はほぼ終焉となったのである。


 
  《乗船記》
スンマセン。 乗ったのは、ほぼ30年前の中学の頃なので、ほとんど憶えていないのである。
憶えているのは、《航路史》で記した通り、『四国三大走り』の一員となった事だけである。
 
岡山側は普通か快速のカボチャだけの運行で、座席を求めての争いはほとんどないが、香川の高松側は熾烈を極めていたのである。 特に、夜行の快速・窪川行は急行の間合い運用で、指定席(当時の四国の急行列車は、グリーン車の車両が指定席に格下げられて使われていた)が無料開放されて、グリーン車両・68席の席取合戦の場となったのだ。
 
夜行でリクライラングか直角イスか・・では、寝心地が随分違うし、その事は鉄と言わず、宇高連絡線を使う者なら大半が知っていたのである。 従って、始めから諦めている爺やん・婆やんを除いて、若い者を中心に桟橋からの約400mを、旅行荷物を担いで全速力で走っていったのである。 これは決して褒められた情景ではないが、今の乾いた世代にはない熱いものがあったのだ。
 
何かに必死になる姿、他愛のない事だけど、この頃は確かに見られたのだ。 今の乾ききった感動のないデジタル思考の『ある・なし』の世の中とは違う、ピリリと一味利いた世相だったのである。
そう・・、何かを欲するならば、頭で考え、実行し、結果を待ってワクワクする。 そして、その結果を得る為に足掻く人間らしい姿があったのだ。

   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『宇高航路』を御覧下さい。
 
 
 
 
 
 
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No title * by オータ
こんばんは。
私も1984年春に一度だけ乗っております。東京より18きっぷで九州へ行く途中の宿代わりにしました。岡山より乗り継ぎ高松上陸後、土讃線で琴平まで往復して時間つぶししたのですが、グリーン格下げ車両については全然考えていませんでしたね。でも思い返してみると、それ以前に鉄道の本で読んで知っていはずでした。ともかく、18きっぷで二日かけて九州まで行く計画で、それだけで身も心もワクワクだった気がします。大分で行なわれるプロ野球のオープン戦観戦のためでした。
ちなみに帰りも、別府から八幡浜まで民間フェリーで夜明かししてから、18きっぷで予讃線~宇高連絡船~宇野~岡山~大阪と辿っています。夕暮れの姫路で買った駅弁が美味しかったです。

席取り合戦!は、函館(特急自由席)・青森(普通急行自由席)の桟橋でもありましたね…こちらは、私も時として加わりました。

No title * by 風来梨
オータ様、こんばんは。

1980年台前半の四国は、キハ58の急行王国でした。
シンプルな看板を掲げて走る急行は、中学時の自分から見てもかっこ良かったです。 逆にキハ181の特急はあまりパッとしませんでした。

中学の時に四国全線を取り敢えず完乗する旅行を経てから、石鎚山に登るまで20年間四国へ行かなかったものだから、瀬戸大橋を通った時は、鉄道の様変わりに驚きました。

ほんと、「10年ひと昔」という言葉が身にしみました。

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No title

こんばんは。
私も1984年春に一度だけ乗っております。東京より18きっぷで九州へ行く途中の宿代わりにしました。岡山より乗り継ぎ高松上陸後、土讃線で琴平まで往復して時間つぶししたのですが、グリーン格下げ車両については全然考えていませんでしたね。でも思い返してみると、それ以前に鉄道の本で読んで知っていはずでした。ともかく、18きっぷで二日かけて九州まで行く計画で、それだけで身も心もワクワクだった気がします。大分で行なわれるプロ野球のオープン戦観戦のためでした。
ちなみに帰りも、別府から八幡浜まで民間フェリーで夜明かししてから、18きっぷで予讃線~宇高連絡船~宇野~岡山~大阪と辿っています。夕暮れの姫路で買った駅弁が美味しかったです。

席取り合戦!は、函館(特急自由席)・青森(普通急行自由席)の桟橋でもありましたね…こちらは、私も時として加わりました。
2011-07-17 * オータ [ 編集 ]

No title

オータ様、こんばんは。

1980年台前半の四国は、キハ58の急行王国でした。
シンプルな看板を掲げて走る急行は、中学時の自分から見てもかっこ良かったです。 逆にキハ181の特急はあまりパッとしませんでした。

中学の時に四国全線を取り敢えず完乗する旅行を経てから、石鎚山に登るまで20年間四国へ行かなかったものだから、瀬戸大橋を通った時は、鉄道の様変わりに驚きました。

ほんと、「10年ひと昔」という言葉が身にしみました。
2011-07-17 * 風来梨 [ 編集 ]