2020-02-17 (Mon)✎
廃線鉄道 第4回 山梨交通・電車線 〔山梨県〕
戦後間もない頃の
甲府駅前を走る山梨交通電車線
※ ウィキペディア画像を拝借
山梨交通電車線(やまなしこうつうでんしゃせん)は、山梨県甲府市の甲府駅前駅から同県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)の甲斐青柳駅までを結んでいた山梨交通の軌道路線である。 地元では親しみを込めて『ボロ電』とも呼ばれていた。
国鉄甲府駅の駅前広場にあった甲府駅前駅から併用軌道で市内中心部を抜けた後、市街地南西端の荒川橋で荒川を越えて専用軌道に入り、そこから峡西地域の平坦部を逆L字形に走り抜けて増穂町の中心部にある甲斐青柳駅に至っていた郊外型路面電車であった。
全線20.2kmを所要時間55分程で走り、30分間隔で運行した。終点甲斐青柳駅からは鰍沢口駅までのバスの便もあり、最盛期には年間に200万から300万の利用客の足となった。 しかし戦後は急速に衰微し、1962年に廃止に追い込まれた。
山梨交通・電車線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線距離(営業キロ):20.2km・軌間:1067mm
全線単線、全線電化(直流600V)・閉塞方式:スタフ閉塞式
駅数:28駅(起終点駅含む)
甲府駅前、警察署前、相生町、泉町、第二高校前、寿町、荒川橋、上石田、貢川、徳行、榎、
玉幡、農林高校前、今諏訪、西野、在家塚、甲斐飯野、倉庫町、桃園、巨摩高校前、小笠原、
小笠原下町、甲斐大井、古市場、荊沢、長沢新町、長沢、甲斐青柳
甲府駅前~荒川橋間は併用軌道となっていた。 1953年以前は市内のルートが一部異なっていた為、路線距離は20.3kmで駅数は30駅であった。 また路線名は当初の路線計画の名残で、甲府駅前~警察署前間が『市内線』、警察署前~相生町間が『錦町線』、相生町より先が『西部線』と呼ばれていたが、運行系統は1本の路線で書類上だけの区別であった。
山梨交通電車線・年表
1924年(大正13年)11月11日 『甲府電車軌道』設立
1926年(大正15年) 8月 甲府~青柳間の軌道布設特許交付
1929年(昭和 4年) 4月 起工式、及び11日 『山梨電気鉄道』に改称
1930年(昭和 5年) 4月 甲府市錦町〜同市相生町間の軌道特許状下付
5月1日 貢川~大井(後の甲斐大井)間が開業
6月1日 大井~荊沢間が開業
8月6日 荊沢~追分(後の甲斐青柳)間が開業
9月19日 上石田〜貢川間が開業
1931年(昭和 6年) 7月 南巨摩郡増穂~南巨摩郡鰍沢町間の軌道特許状下付
1932年(昭和 7年) 9月15日 荒川橋~上石田間が開業
10月13日 相生町~荒川橋間開業
11月22日 県庁前~相生町間開業
12月27日 甲府駅前~県庁前間開業により全通
1936年(昭和11年) 4月 青柳〜鰍沢間の軌道敷設特許失効
1938年(昭和13年) 8月1日 『峡西電気鉄道』に事業譲渡
1945年(昭和20年) 5月1日 戦時統合により県内数社のバス会社と合併して『山梨交通』が発足。
これにより、『山梨交通電車線』となる
1953年(昭和28年)9月 戦災復興事業により甲府駅前電停を移転の上、甲府駅前~警察署前間を直線化
して舞鶴通り上に移設
1961年(昭和36年)1月 株主総会で廃線決定
1962年(昭和37年)5月 運輸省より廃止認可、6月30日 最終運行、
7月1日 路線廃止。 同日より電車代行バス運行開始
利根川公園に保存されている
旧モハ7形の江ノ島電鉄801
※ ウィキペディア画像を拝借
当線の成立には甲府市から勝沼・鰍沢を結んでいた馬車鉄道の『山梨馬車鉄道』が大きく関わっている。 この路線群が開通したのは千秋橋~柳町〜石和〜勝沼間が1898年、柳町〜鰍沢間が1901年の事であり、当時はまだ中央本線も甲府には到達していなかった。
このような状況下で、山梨馬鉄線は甲府の繁華街である柳町を中心に路線網を持っていた事もあり、唯一の鉄道系交通機関として重宝され、勝沼方面では中央本線からの連絡輸送で、鰍沢方面では富士川の舟運と連携して貨物輸送や身延山への観光客輸送で大いに賑わった。
しかし、1903年に中央本線が甲府まで到達して連絡輸送が不要となった結果、勝沼方面の路線が手痛い打撃を受ける羽目になった。 これに対し『山梨馬車鉄道』は、甲府駅前への路線を新設し健闘したものの敵わず、結局地元出身で各地で鉄道経営に関わっていた実業家・雨宮敬次郎に助けを求め、1906年に新会社『山梨軽便鉄道』を設立して路線を譲渡した。 これによって経営が立ち直り、短期間ながら以前以上の勢いを取り戻すに至っている。
ところが今度は『富士身延鉄道』(のちの身延線)がじりじりと富士駅から甲府駅を目指して北上を始めた事で、鰍沢方面も将来的に打撃を受けることが確実となった上、市内でも乗合自動車の運行が始まった事で、経営的に追い詰められるようになった。 過去に蒸気化や電化を試みて失敗していながら、これを放置していた事もここに来て響いてきて、真に崖っぷちの状況となっていた。
往時の山梨交通・電車線車両
:
甲府市内の路面区間を走行する為
扉に折りたたみ式のステップを設置
ヘッドライトは着脱式で
前面窓のすぐ下に取りつける方式だった
※『鉄道100年史(山梨県編)』より
そのような状況下で登場したのが、地元の名士であった金丸宗之助が1924年に設立した『甲府電車軌道』である。 この会社は甲府市内や峡西・峡南地区に大路線網を計画していたのであるが、その計画路線の一部は『山梨軽便鉄道』の路線と重なっており、競合が予想された。
経営に窮しているとはいえ『山梨軽便鉄道』もこの地を基盤とする鉄道路線で、面倒ないさかいをしたくないと考えた『甲府電車軌道』はあらかじめ競合の芽を摘むべく、そして『山梨軽便鉄道』が開拓していた路線を手に入れて計画の踏み台として利用するべく、同社を買収する事にしたのである。
かくして、1925年に『山梨軽便鉄道』の路線を譲り受けた『甲府電車軌道』は、既存路線である『山梨馬車鉄道』が手掛けた路線の運営かたがた計画の具体化を目指す事とした。 このうち甲府~鰍沢間は、市内だけ『山梨馬車鉄道』の線路を一部使用する形とし、そこから先は『富士身延鉄道』との衝突を避けて遠く離す事にしたのである。 その結果、峡西地域を経由する逆L字形の路線が計画される事になったのである。
翌1926年、会社は甲府~鰍沢間のうちの甲府〜青柳間の免許を受け、用地確保に乗り出した。
しかし併用軌道区間では『山梨馬車鉄道』が元々走っていた甲府駅附近や柳町はともかく、相生町から先荒川橋までは道の狭さに苦しめられ、専用軌道区間では用地買収と釜無川の架橋問題、さらに資金難に泣かされ、具体的に工事が始まったのは3年後の1929年となってしまった。
なお、この前年に既存の『山梨馬車鉄道』は工事のため休止され、工事が始まってすぐに社名を『山梨電気鉄道』と改称している。 1930年に入って青柳-~鰍沢間の免許を取得した『山梨電気鉄道』は、同年5月1日に貢川~大井間を開業させるに至った。
その後小刻みに何とか上石田から青柳間を開業させたものの、併用軌道部分は問題が山積みですぐには動けなかった。 それは青柳〜鰍沢間は用地買収が捗らず、そこで延伸工事が止まってしまい、丸2年の間は頭と尾が欠けた状態のままであった。 だがそれも、併用軌道部分の問題を何とか解決させ、当初の柳町経由から舞鶴通り経由に変更したもののじわじわと開通、1932年12月27日にようやく甲府駅前~甲斐青柳間が全通する事になった。
しかし、ここで『山梨電気鉄道』自体に問題が発生した。 1931年に創業者の金丸が死去して、その後は会社の経営が一気に悪化して借金で首が回らなくなったのである。 この事態を重く見た最大の債権者『日本興業銀行』(現在のみずほ銀行)は、債権を確保すべく新社長・登坂小三郎を送り込んで合理化に取り組ませた。
だがよそ者が経営者となった事に対して株主の反発が強かったばかりでなく、この間に石和方面の路線建設に関して内務省から工事状況についての報告を督促され、対処に困って「技師が病気」と答えて逃げたり、工事施工許可申請書の取り下げをしようとしたりと迷走を繰り返し、思うように経営合理化は進まなかった。
終いには1936年に青柳〜鰍沢間の特許が失効してしまう事態となって、登坂社長は辞任に追い込まれる。 経営も『日本興業銀行』から、新たに設立された財産管理団体『山梨電鉄軌道財団』に移り、経営全般にわたって強制管理を受ける羽目になってしまった。
この車両が山梨交通・電車線の主力のようである
※『鉄道100年史(山梨県編)』より
さすがにここまで路線が出来ているのに倒産となるは不味いと、県も巻き込んでの再建策が進められ、債権者の一社で貢川に本社を持っていた電力会社『峡西電力』がその受け皿となる事が検討された。
その結果、1937年に日本興業銀行が甲府区裁判所に『山梨電気鉄道』の強制競売を申し立て、1938年に『峡西電力』が設立した新会社『峡西電気鉄道』が落札するという形で全事業の譲渡が行われた。
『峡西電気鉄道』は専務の斉藤仙助をはじめとしたやり手の経営陣が揃っており、電車線の経営改善に大きな効果をもたらした。 1939年には本社を甲府駅前電停のすぐそばに移転させ、さらに副業として食堂も経営するなどの経営戦略で会社を大いに盛り立てた。 戦時中の当線の営業は好調であったが、折からの交通統制により山梨県内でも民鉄や自動車会社の統合が行われる事となり、1945年5月に『山梨交通電車部』として統合されるに至った。
戦後の『山梨交通』となって
固定式ライトが設置されたみたい
※『鉄道100年史(山梨県編)』より
山梨交通となってからも、電車線の営業は好調であった。 特に1945年7月の甲府空襲の際は、斉藤専務の素早い判断で上石田駅に全車両を避難させたのが大きく、この車両回避によって市内部分が不通となったものの車両は全て無事で、すぐに上石田駅を仮起点駅として運行を開始した。 空襲によって乗合自動車が潰滅的な被害を受けていたので、この処置は大きな乗客増を生み、地元の強力な足となった。
しかし戦後数年して乗合自動車が復興し、戦災復興の波に乗って一気に追い上げをかけて来ると電車線の勢いにもかげりが見え始めた。 1953年には戦災復興事業により甲府駅前周辺の街路が整理されたのを機に、国鉄との連絡運輸を期待して甲府駅前電停を移設してホームつきの電停とし、さらに公園利用者や県庁職員の利用を見込んで中央本線の線路側まで延伸した舞鶴通り上を直線で走るようにルートを変更したが、期待した効果は上がらなかった。
さらに1959年、台風7号と15号(伊勢湾台風)が連続して県内を通過するという不運に見舞われ、電車線も貢川車庫の倒壊や路盤流出など大被害を受けた。 これが決定打となってしまい、1961年に廃止が決定。翌1962年7月1日に開業わずか30年余りにして全廃となった。
往年の活躍を偲ばせる保存車両
:
外見は塗装を除き江ノ島電鉄所属時代の
大幅に改造されたままの姿であるが
※ ウィキペディア画像を拝借
廃止後、甲府市内の渋滞緩和、甲府盆地西部の交通の便のためにLRTによる新しい鉄道を模索してはどうかという提言もなされている。 なお、当路線の廃線跡は車道化されて、山梨県の南アルプス市や富士川町に至る主要県道となっている。
この『廃線鉄道』の記事を
製作するに当たって
掲載できる写真をほとんど
持ち合わせてないのが悩みの種
でも大阪市立図書館で
『鉄道100年史』を見つけて解決
:
全都道府県の廃線鉄道の写真が
47都道府県別に収録されてるしィ
- 関連記事
スポンサーサイト