風来梨のブログ

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廃線鉄道 第2回 魚梁瀬森林鉄道

廃線鉄道  第2回  魚梁瀬森林鉄道 〔高知県〕

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魚梁瀬森林鉄道・往時の
路線敷設位置予想図

魚梁瀬森林鉄道(やなせしんりんてつどう)は、かつて高知県にあった森林鉄道である。 
「日本三大美林」の一つといわれる魚梁瀬杉の運搬を主目的として開業したが、陸上交通網が整備されつつあった事に加えて、魚梁瀬ダムの完成により軌道が水没した事から廃止となった。 一部路線では一般客も乗車可能だった。 廃止後は高知東部交通がバスを運行している。

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魚梁瀬森林鉄道・路線図

《路線データ》
安田川線  田野貯木場~釈迦ヶ生 33.1km、奈半利川線 奈半利貯木場~石仙 49.8km など、多数の森林鉄道路線網を形成していた。 また、安田川線の一部に駅が設けられ、旅客扱いを行っていた。
軌間は762mm。 旅客を扱う区間では、複線化されている所もあった。

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美林と言われる魚梁瀬杉を切りだし
川に流して輸送していたのを
軌道に切り替えて輸送力を増強したのが
魚梁瀬森林鉄道の始まりだった
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線史》
1895年の牛馬道完成から1907年の人車(手押し)軌道が開通し、軌道網の建設が始まる。 それより約半世紀に渡って拡大したが、陸路が整備され始めると木材輸送は陸送に転換され、魚梁瀬ダム完成で水没となる事で鈴々鉄道は全て放棄され、ダム完成直前の1964年に完全撤退となった。

1895年(明治28年):魚梁瀬和田山 - 宝蔵山にいたる12.4kmの牛馬道を開設。
1907年(明治40年):安田川林道に手押し軌道が運行を開始。
1910年(明治43年)1月27日:野川林道開設(林用軌道)。田野〜馬路間工事着工。
1911年(明治44年):田野〜馬路間の軌道が敷設される。
1912年(大正元年):馬路〜魚梁瀬間工事着工。
1913年(大正2年):谷山線敷設。
1915年(大正4年):久木隧道が完成し馬路〜魚梁瀬間が開通。田野〜二股間工事着工。
1916年(大正5年):魚梁瀬〜石仙間の工事着工。
1917年(大正6年):魚梁瀬〜石仙間完成。宝蔵線(西川線)敷設。
1918年(大正7年):中川線敷設。
1929年(昭和4年):七々川線・南栃谷線敷設。
1930年(昭和5年):東川線敷設。
1931年(昭和6年):奈半利貯木場完成。 田野貯木場~二股間完成。 奈半利貯木場~立岡
          間完成(奈半利川鉄橋を除く)。 竹屋敷線、蛇谷線、グドウジ線を敷設。
1933年(昭和8年):奈半利川鉄橋完成により奈半利貯木場~立岡間開通。
1934年(昭和9年):矢筈谷線敷設。
1935年(昭和10年):二股〜栃谷口間の橋梁以外の路体工事が起工。
1938年(昭和13年):二股〜栃谷口間の路体が完成。
1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年):二股橋・堀ヶ生橋の工事着工。
          脱線により列車が谷底に転落する事故が発生、死者14名。
1941年(昭和16年)8月:大谷支線工事着工。
           9月:栃谷口~釈迦ヶ生間の工事着工。
1942年(昭和17年)3月:大谷支線敷設。 10月:栃谷口~釈迦ヶ生間完成。これにより全線開通。
           11月:開通式が挙行される。
1943年(昭和18年):西谷線敷設。
1958年(昭和33年)8月20日:北川村長山において、軌道の撤去式典が行われ、長山~二股間撤去開始。
          11月:6m道路が完成。また竹屋敷線の軌道撤去・車道化も行われる。
1960年(昭和35年)5月:二股〜釈迦ヶ生間の2車線道路化が完成。
           6月:奈半利川線はトラック輸送に切り替わる。安田川線撤去開始。
1961年(昭和36年)3月:釈迦ヶ生〜久木隧道間が軌道撤去・車道化完成。
1962年(昭和37年)2月:久木隧道から東川間が軌道撤去・車道化完成。
           この頃までに、安田〜明神口間、馬路橋から東川間については、軌道の
           対岸の県道拡幅工事がすでに完成していた。そして、明神口~馬路橋間の
           軌道撤去・車道化が完成し、安田川線も全線トラック輸送に切り替わる。
           6月:釈迦ヶ生以奥は、代替道路を上部に新設し、釈迦ヶ生〜丸山台地間完成

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魚梁瀬ダムの完成によって
路線の一部が水没する事により
魚梁瀬信連鉄道は終焉を迎えた
※ ウィキペディア画像を拝借

1963年(昭和38年)2月:丸山台地 - 石仙間の代替道路が完成し、ここに森林鉄道が終焉した。
1964年(昭和39年):一部で利用されている線があったが3月30日全線廃止となる。
1970年(昭和45年)6月:魚梁瀬ダム完成。

魚梁瀬地区は、平家の門脇中納言平教経の入洛により集落が始まったとされる。 竹や木を並べて水を堰き止めて魚を捕まえる仕掛けを『梁(やな)』と呼ぶが、教経はそうして川魚を捕り暮らしていた事から、後にこの地区が『やなせ』と名付けられたようである。 藩政時代になってこの山々の森林資源が着目され、下流地域から人々が上がって来るようになり、奈半利川の水流を利用し、魚梁瀬材は河口へと集められていった。

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馬路地区にある廃線跡と五味隧道
※ ウィキペディア画像を拝借

林道開設も早く、1895年(明治28年)、魚梁瀬和田山から宝蔵山にいたる12.4kmの牛馬道が開設する。 その後、和田山〜魚梁瀬、谷山口~東川、魚梁瀬〜栃谷と延長された。 安田川方面も、1900年(明治33年)に日浦〜東川(ひがしごう)、明神口~日浦と林道が開設されたが、これは運材よりも物資輸送が主な目的であり、運材は河川を利用していた。

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田野町に残る高架橋
この先で奈半利川を渡っていたが
橋は撤去されている
※ ウィキペディア画像を拝借

しかし、山腹に設けられた牛馬道や車道、さらに流木では間に合わなくなり、1907年(明治40年)に安田川山線に最初の軌道が開設され、その後1910年(明治43年)から田野 - 馬路間23.4kmの鉄道を建設、1911年(明治44年)に完成した。 当初は自然の重力を利用した乗り下げで運材が行われており、山へ帰る時は犬または牛にトロリーを牽かせていた。

1915年(大正4年)には久木隧道(333m)が貫通し、魚梁瀬まで開通。 さらに1919年(大正8年)には石仙(こくせん)まで開通し、田野 - 石仙間41.6kmが完成した。 しかし釈迦ヶ生(しゃかがうえ)~久木(くぎ)隧道間には地形上の逆勾配が存在し、また奈半利川流域の運材には適さないため、奈半利(なはり)川線の計画が立てられた。

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奈半利町に残る寺への参道の跨線橋
※ ウィキペディア画像を拝借

これは1928年(昭和3年)から調査が始まり、1929年(昭和4年)11月24日起工、1942年(昭和17年)3月には支線を含めた奈半利川線(奈半利~釈迦ヶ生間41.9km)が完成した。 ここに総延長250kmに及ぶ国内屈指、そして高知県内最大の森林鉄道網が完成したのである。なお、魚梁瀬森林鉄道とは安田川線、奈半利川線の両幹線に加え、各支線を含めた総称である。

安田川線は1910年(明治43年)に着工し、1919年(大正8年)に田野貯木場~石仙間41.6kmが完成。 軌間762mm、9~10kg/mレールを使用し、最急勾配は逆31.3パーミル、順13.3パーミル、最小曲線半径21.8mであった。 一方、奈半利川線は1929年(昭和4年)着工、1942年(昭和17年)に奈半利貯木場~釈迦ヶ生間41.9kmが完成した。 10kg/mレールを使用し、最急勾配は順16.5パーミル、最小曲線半径30mであった。

2009年(平成21年)6月30日に、林業技術史上重要な遺産であるトンネルや橋などの施設が「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定された。 森林鉄道の重文指定は初めてである。

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重要文化財に指定された
馬路村の平瀬隧道
※ ウィキペディア画像を拝借

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安田町に残るオオムカエ隧道
※ ウィキペディア画像を拝借

廃線後、野村組工作所(高知市)製のDLのみが保存される。 その後、1991年(平成3年)に、丸山台地にある魚梁瀬丸山公園へ移され、動態保存されている。

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魚梁瀬地区丸山公園で保存運転中の
魚梁瀬森林鉄道を行き交った機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

機関車は重量があり、線路に与える影響が大きいため、運転される機会は限定されているようだ。
通常は、谷村鉄工所タイプのDLを垣内鉄工所で復元したものが運転されている。


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