風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道 第1回 朝倉軌道

廃線鉄道 第1回 朝倉軌道 〔福岡県〕

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朝倉軌道の終着駅・杷木駅の所在地予想図

朝倉軌道(あさくらきどう)は、1908年から1940年まで、福岡県朝倉郡を中心とした地域において軽便鉄道・乗合バス・貨物自動車による陸運業を行なっていた日本の企業である。中央軌道や両筑軌道といった周辺の鉄道会社を傘下に置くなどし、この地方の交通の中核にあった。

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朝倉軌道が保有した全路線図
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
朝倉軌道・本線
   営業区間と営業キロ                所在駅数
  二日市~杷木 32.2km     西鉄に現存する朝倉街道駅や、甘木駅など駅数は33駅あった
                   甘木駅跡は西鉄バスの『甘木バスセンター』に、杷木駅跡は
                                             『杷木発着所』というバス・タクシーの営業所となっている。

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台車は板を重ねて車軸に乗っけた板軸バネ
後輪デフ駆動のFR駆動の珍物車両で
車番も書類上在籍してなかったガソリンカー
※ ウィキペディア画像を拝借

運行形態
二日市~杷木の全通当初は法定速度が13km/hであった事もあり、二日市〜杷木間の所要時間が150分、二日市-甘木間の所要時間が75分であった。 その後、1931年10月1日改正のダイヤでは、二日市発杷木行が6時20分発~20時20分発まで2時間おきに8往復、二日市発比良松行が7時10分発〜19時10分発まで2時間おきに7往復運行されていた。 所要時間は二日市~杷木が145分、二日市~甘木が70分であった。

旅客輸送が全てガソリンカーに置き換えられたとみられている1934年6月1日改正時では、二日市発杷木行が6時20分発〜20時20分発まで1時間おきに15往復、二日市発甘木行が6時50分発〜18時50分発まで1時間おきに13往復運行されていた。所要時間は二日市〜杷木が120分、二日市〜甘木が55分だった。


廃止直前になると、二日市発杷木行が6時発〜19時発まで7往復、二日市発甘木行が6時30分発〜18時発まで11往復、二日市発比良松行が1往復がそれぞれ運行されていた。 所要時間は二日市〜杷木が115分に短縮されている。




甘木へ鉄道路線を引く計画は、九州で最初の鉄道となる九州鉄道が1889年に開業した直後から、太宰府~二日市~甘木~日田などの路線建設計画が上っていた。 しかし、折から九州で起きた金融恐慌で、全ての路線建設計画が実現をみなかった。

このような失敗を経て、1906年に路線建設を計画されたのが朝倉軌道である。 当初は原田駅から甘木を計画していたが、ちょうど二日市~甘木間の県道(現 国道386号・朝倉街道)が整備されることが決まった為に、この県道上に敷設することにして二日市駅起点に計画が変更された。

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貨車の方がマトモな
造りに見えるのはなぜ?
※ ウィキペディア画像を拝借

開業当初は旅客輸送のみを行なっていたが、1909年2月から貨物輸送も開始され、地場産業の原料となる木綿や、特産品である木蝋の輸送が行なわれた。 開業後の成績は好調であった事から、1911~12年に甘木より先の恵蘇宿間まで延伸開業させた。 これ以降も路線拡張は進み、1916年には恵蘇宿から原鶴を経由して杷木に至る延伸の特許を取得し、第一次世界大戦の影響で建設が遅れながらも1922年に杷木まで全線開業した。

また、この頃になると甘木近辺でも乗合バス事業者が出現するようになってきた為、朝倉軌道でも自動車部を設立し。甘木~二日市・甘木~杷木などのバス路線や、トラック輸送の営業を開始した。

1928年には新町で朝倉軌道と接続していた中央軌道が、経営悪化から無許可で運行を休止した事から、朝倉軌道は無許可でこれを譲り受け、同年9月に朝倉軌道田代線として新町〜上田代の運行を再開した。
この時が朝倉軌道の最盛期で、営業キロは44.9km(朝倉軌道32.2km・田代線12.7km)を記録している。

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最盛期の頃の賑わいを見せる甘木駅
※ ウィキペディア画像を拝借

しかし、昭和恐慌によって経営的な打撃を受けた上、乗客がバスに移るようになっていった事もあって、軌道線の運営状況は徐々に厳しいものになっていった。 この対抗策として運賃の値下げを施したが反って収支の悪化を招いた為、客車を無許可で単端式ガソリンカーに改造し、スピードアップと運行コストの圧縮を図っている。

この自社製ガソリンカーは1932年頃に初めて導入され、1934年には旅客列車の全てで使用されるようになったようである。 ガソリンカーの導入で、二日市~甘木間が70分から55分に、二日市〜杷木間が145分から120分に所要時間が短縮されている。

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無許可・違法改造の巣窟だった朝倉軌道
当時の軌道法で牽引可能なのは1両のみ
後ろの客車も無届け無認可で
ガソリンカー改造されたようだ

これ以降は経営縮小の流れとなり、1933年に水害を理由に保有路線の中で最も業績の悪かった田代線の休止許可を得た。 その後、無許可で線路を撤去している。 さらに翌1934年には、飛行隊~上小郡間が無許可で運行休止するなど、次々と路線縮小となっていった。

1935年に、太刀洗飛行場への輸送力増強などを目的に基山~大刀洗〜甘木を結ぶ国鉄甘木線(現・甘木鉄道甘木線)の建設が正式に決定される。 甘木線が開業すると朝倉軌道の経営に大打撃となる事が必至であった為、この頃から朝倉軌道は補償請求のための財産増加を図るようになり、貨客ともに輸送量が減っているにもかかわらず両筑産業(旧・両筑軌道)から客車4両・貨車8両を購入したり、建設費の償却を停止したりするなどしている。

1938年には、バス事業を九州乗合自動車と両筑産業に譲渡し、再び鉄道専業となった。
そして、甘木線開業の4日前となる1939年(昭和14年)4月24日、朝倉軌道は甘木線開通に伴う運輸営業廃止と補償を申請する。 同年7月8日には休止を申請し、8月21日には全線が運行休止された。
その後の1940年4月19日に全線が廃止され、翌日に会社解散が認可された。 こうして、朝倉軌道はその歴史を終えた。

1930年頃からの朝倉軌道は、旅客収入がかつてに比べて半分程度まで落ちたにもかかわらず、赤字路線の切り捨てや車両の低コスト化など徹底した合理化で支出をそれ以上に削減することで利益を出し、最後まで無借金を貫く経営を行なっていた。 これらの事は、経営において高い評価を受けている。

hi (1)
コレ・・鉄道雑誌で見たけど
スゲェ~カッケーと思ったよ
この凄ましい流線形も無許可改造で
転車台も無届け設置との事
※ ウィキペディア画像を拝借

次に朝倉軌道の『強者伝説』とも評される無許可にまつわるエピソードおば・・。
・無許可で営業休止は当たり前、無許可で線路撤去も当たり前
・所属車両の無届け改造も結果オーライ
・朝倉軌道にとっての車両改造未認可は、無届け改造のし損ない
・書類上存在しない車両が今日も路線を行き交う 
・営業休止路線の実態が乗客1人でも無借金経営 
・幅1,830mmの車両を自身満々に、幅1,676mmが車幅限界の路線に投入 
・1両の改造車両で8両に見える 
・設計図と現物の車両は別物が当たり前 
・車両改造の認可申請をするだけで福岡県庁担当者が泣いて謝り、ついには鉄道省担当者が
 心臓発作を起こし亡くなる事態にも
・仕様書をひとにらみしただけで、改造予定車両が別物に入れ替わる 
・仕事の無い休日でも、その辺にあった車両を無届け改造 
・設計図を使わずに、有り合わせの客車を適当に改造してた実績アリ 
・設計図制作者のセンスが良過ぎるせいか、設計審査にまるで関係ない売り込み文句まで
 図面上に書かれてある 
・改造届け出が認可されてから、更に無届けで再度改造される方が早かった 
・無届けでガソリンカー改造した車両を、使用中に客車に先祖帰りの再改造
・もちろん先祖帰りの改造も無届け 
・届け出でツッコまれる前に、「中古部品だから最初から設計図なんかねえよ」と居直って
 いた時期もあったりして
・あまりに届け出書類が杜撰過ぎるから、当局も詳細調査を断念して改造認可 
・その認可を得た時でも車両幅は規格外のままだったりする 
・都合の悪い書類は「誤記」だった事に 
・無届けで転車台設置したあとに本物の書類で認可申請し、無認可工事が発覚 
・面倒なので申請を取り下げた為に、結局無認可のまま無認可工事に 
・競合路線対抗の運賃値下げも、もちろん無認可 
・路線休止も、もちろん無許可 
・並行国鉄線開業をネタに、補償金せしめて路線廃止

とどのつまり
朝倉軌道の真髄「届け出なんか飾りです」って事だそうです。
スゲェ『英雄伝説』な鉄道会社ですなぁ・・


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