2019-11-04 (Mon)✎
路線の思い出 第351回 鹿児島交通(南薩鉄道)・吹上浜駅跡 〔鹿児島県〕
鹿児島交通(南薩鉄道)としては
最良の状態だった吹上浜駅舎と停車する列車
※ 南薩鉄道のウェブサイトより
《路線データ》
営業区間と営業キロ 廃止年月日 廃止転換処置
伊集院~枕崎 49.6km. ’84・ 3・18 鹿児島交通バス
廃止時運行本数
伊集院~枕崎 10往復(一部列車は 加世田駅で分割運転)
※ 伊集院より西鹿児島(現在は鹿児島中央)への乗り入れ列車3往復あり
加世田~薩摩湖 1往復
伊集院~日置 1往復
※ 1983年6月21日に豪雨災害で全線不通となり、同年7月1日に日置~加世田の運行が
再開されるが、伊集院~日置 及び 加世田~枕崎は不通のまま、1984年3月18日
に全線廃止となった。
後に設置された
吹上浜駅跡を示す駅跡碑
※ グーグル画像を拝借
吹上浜駅(ふきあげはまえき)は、かつて鹿児島県日置郡吹上町中原(現・日置市吹上町中原)にあった鹿児島交通枕崎線(南薩鉄道)の駅(廃駅)である。 開業当初は有人駅で、有人駅時代の駅舎及び列車交換設備を有したが、やがて駅の無人化を受けて交換設備は撤去されたが、駅舎は廃止時までそのまま使用された。
吹上浜駅ホーム跡上に
設置された吹上浜バス停
※ 鹿児島の交通写真館ウェブサイトより
路線廃止後はホーム等は撤去されたが、駅跡に『吹上浜バス停』が設置されている。
加世田駅の車庫での
南薩鉄道線の風景
※ ウィキペディア画像を拝借
今回取り上げる鹿児島交通(南薩鉄道)枕崎線は、乗った事も往時の運行している姿も見た事がない。
この南薩鉄道で唯一目にした事があるのは、指宿枕崎線を完乗すべく枕崎に立ち寄った際に、豪雨災害で不通となって枕崎駅に取り残されたまま放置された鹿児島交通の車両の憐れな姿のみである。
災害不通により枕崎駅に
取り残されて放置された102号機
※ グーグル画像を拝借
そして、悔しい事に当時は『国鉄の廃止対象路線』ばかりに気がいっていて、鹿児島交通などの私鉄路線は眼中に無く、完全に無視してしまっていたのである。
当時は『国鉄廃止線至上主義』で
この南薩鉄道はガン無視だったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
なので、撮っていたら貴重な写真となっていた鹿児島交通関連の写真は、当時は鹿児島交通の所有管理であった枕崎駅の駅舎のみとなっている。
唯一撮った南薩鉄道の記憶・・
在りし日の枕崎駅舎
取り残された102号機は
路線廃止後も永らく
枕崎駅構内に放置されていた
※ グーグル画像を拝借
だが、この枕崎駅とて2006年の地域再開発によって取り壊されて跡地はスーバーマーケットとなって、駅は100mほど移設された。 駅移設当時は待合室すらない棒線終着駅であったが、その数年後に待合室が設置されたようである。
そんな「本来なら記事として書けるネタ」を全く持っておらず、記事の書きようがない鹿児島交通の路線及び駅なのだが、運のいい事に鹿児島交通が廃止されて5年後の’89年に初めて車を所有した(ダイハツの軽だったよ)車で九州の放浪旅をして、その際に今回取り上げる吹上浜駅跡に立ち寄ったのである。
ホーム上に立つ駅跡碑
※ グーグル画像を拝借
その当時のワテは、『○鉄』であった事を「自身の黒歴史として隠す」しょうもない思考が渦巻いていて、吹上浜のある所に宿泊するまでは、鉄道遺構の事などほとんど頭になかったのである。
なら何故にこの地に旅に訪れたのかというと、枕崎の先にある坊・野間崎の海岸風景を撮りたかったからである。
マール湖(火山の噴火湖)が
海とつながって入江となった野間崎漁港
野間崎の海に没する夕日は
格別と聞いて訪れたのだが・・
撮るのに失敗しますた
・・で、目的の坊・野間崎での夕日を撮ってから帰路に着き始めるのだが、この旅の間はプーの放浪旅という事で狭い軽に寝泊まりしていたが、さすがに身体がキツくなってユースホステルに一泊する事にしたのである。
日本三大砂丘と呼ばれる吹上浜
:
吹上浜ユースホステルは
吹上浜公園よりかなり日置寄りにあった
※ 南さつま市観光協会ウェブサイトより
そのユースホステルへの案内に、「最寄りのバス停は吹上浜バス停でないので注意して下さい。
吹上浜を越えて上日置のバス停を目印に・・」とあった。 ・・で、この地域の地理を全く知らない放浪旅屋としては、妙に《吹上浜バス停》が気になって、道すがらたどってみる事にしたのである。
すると、鹿児島交通の路盤跡が見えてきて、かつての『○鉄』の記憶が頭の中にもたげてきたのである。 そう・・、『○鉄』をして追っかけそびれた南薩鉄道の遺構を追う旅目的が、旅の途中で芽生えたのである。 その旅の途中で芽生えた新たな目的に従って、国道を離れて南薩鉄道跡の路盤跡に寄り添う町道を縫うように車を走らせる。
舗装されている線路跡は
当時は砂利道だったよ
※ グーグル画像を拝借
程なく吹上浜のバス停に差しかかるが、そのバス停はホーム跡に設置されていたのである。
そして、バス停の裏には線路跡が砂利道となって続いていたのである。 これで、『黒歴史』として封じ込めていた廃線を追っかける情熱が迸ってしまったのである。
でも、バス停となった吹上浜駅跡はどう撮っていいか解らずに、見るだけに留めたのである。
なぜなら、かつてこのバス停が駅ホームであったとはいえホームは完全に取っ払われていたし、周囲に明快に路線跡を示す遺構も見当たらなかったからである。
これを撮っても、バス停のポールとトタンの覆いの待合所のみの何を撮ったか判らん写真となる事がハッキリと解ったからである。 そして夕暮れも迫って、急いで公衆電話で吹上浜のユースホステルに飛び込み宿泊をすべく連絡して、ユースホステルのある上日置のバス停に向かう。
旧家の門構えの
吹上浜ユースホステル
:
そこには感動の旅体験がつまっていた
※ ユースホステル協会のウェブサイトより
そうして、着いた吹上浜のユースホステルに「感動した」。 薩摩の旧家そのものの大きな庄屋造りの家屋で、寝室となる本畳敷の居間・・、もう都会の6畳の倍近くある畳の6畳本畳敷きの和室だったよ。
それはもう、武家のお屋敷のような・・。
そして、基本的には食事提供の無いユースホステルで、近くの農協スーパーで買ったカップメンとおにぎりを買って持ち込んで、それを夜食として食堂で食っていたワテに、ペアレントのおばあさんが「残り物だけど・・」といってそっとご飯と惣菜を添えてくれたのである。 それは白糠線・縫別でのあの時の如く、更に「感動した」。
本畳敷きの落ち着いた寝室 風呂は何と五右衛門風呂だった
※ 実物ではありません
※ いずれもユースホステル協会のウェブサイトより
次に風呂であるが、生まれて初めての感動的な初体験をする。 それは、このユースの風呂が半露天の五右衛門風呂だったのである。 石造りの浴槽の蓋の板を開けると、湯船に板が浮かんでいる。
そして脱衣場には、「湯船に浮いている中の板は取り除かずに、そのまま上に乗って入浴下さい」との『入浴方法』が書かれてあった。
これは、真しく本物の五右衛門風呂だ。 風呂に入っている最中、薪を燃やしたいい香りが漂ってくる。 そして、秋の満点の夜空を眺める露天風呂・・。 高級旅館でも味わえない極上の泊り心地を味わえたよ。
風呂から上って食堂兼談話室となっているテレビの間でくつろいでいると、ペアレントのおばあさんが『ユースホステルの思い出集』を本棚から取り出して見せてくれた。 そこには、泊まった宿泊客が撮った南薩鉄道の貴重な写真が詰まっていたよ。
災害不通後も南薩鉄道の車両を使って
伊集院~西鹿児島の定期運行がされていた
※ ウィキペディア画像を拝借
もう、南田布施駅の駅舎内にぶら下がっていた「荒天時は駅舎が倒壊する恐れがあるので、駅舎内に入らないように・・」との警告札や、まともに車両が通れるのか疑問を抱く程にまがって平行を失ったレール、増結時に各車両ごとに運転士が変速がクラッチ式の車両のクラッチ操作をしていたシーンなど、ヨダレものの写真が詰まっていたよ。
廃止後も枕崎駅に放置され
線路が草で埋まっていた
※ 鉄道雑誌の掲載写真より
この『お宝写真』を目にして、なお一層にこの魅惑の鉄道路線を「国鉄ではない」とガン無視した自身のしょうもない「愚かさ」を悔しく、そして恥じたよ。 でも、当時にこの南薩鉄道に「目覚めていた」としても、全国の『国鉄廃止対象路線』と共に追っかけるなんて歳が高校生の小僧にできる訳もなく、所詮は「無いモノねだり」に終わっただろうけどね。
ボロボロの廃屋然だった南田布施駅
※ 鉄道雑誌の掲載写真より
この吹上浜ユースホステルへの道すがらで目にした南薩鉄道の遺構とユースホステルでの体験によって、遅まきながらこの時から南薩鉄道の資料を集める気になったよ。 そして、30年来まだ果たしてはいないが、いつか南薩鉄道の遺構めぐりの旅をしようと思っている。
さすがにひと月3回の出撃で
うち2回テント登山はキツ過ぎるね
ブログ記事を書く時間が
ほとんど取れないよ
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Re: 愛おしい * by 風来梨
hanagon さん、こんばんは。
> 南薩鉄道には社会人1年目、83年の運休直前に伊集院から枕崎まで乗っています。
> 当時は国鉄全線完乗の一貫で九州を乗り潰している時でしたが、この鉄道は外せませんでした。
> めちゃくちゃ乗り心地が悪かったのですが、それがまた愛おしかったですねぇ。枕崎駅もはっきり覚えています。
> 写真も撮ったのですが、家の整理でカミさんに間違えて捨てられてしまった(そういう写真が他にもたくさんあります)のが今でも悔やまれます…
鹿児島交通こと南薩鉄道は残念ながら記事に書いた通り、枕崎で取り残されて放置された102号機を見ただけです。 この時は「国鉄廃止対象線最優先主義」で、私鉄の鹿児島交通はガン無視状態でした。 今思えば、何と勿体なくアホな思考だなぁと呆れ返りますね。 ホント、この時の自分にゲンコツをしてやりたい位です。 もっとも返り討ちに遭うのは必定ですけど(笑)
またいつの日か、廃線遺構を訪ねる旅をしたいなぁと思ってます。 聞くところによると、まだ吹上浜のユースホステルも五右衛門風呂も健在との事ですから。
> 南薩鉄道には社会人1年目、83年の運休直前に伊集院から枕崎まで乗っています。
> 当時は国鉄全線完乗の一貫で九州を乗り潰している時でしたが、この鉄道は外せませんでした。
> めちゃくちゃ乗り心地が悪かったのですが、それがまた愛おしかったですねぇ。枕崎駅もはっきり覚えています。
> 写真も撮ったのですが、家の整理でカミさんに間違えて捨てられてしまった(そういう写真が他にもたくさんあります)のが今でも悔やまれます…
鹿児島交通こと南薩鉄道は残念ながら記事に書いた通り、枕崎で取り残されて放置された102号機を見ただけです。 この時は「国鉄廃止対象線最優先主義」で、私鉄の鹿児島交通はガン無視状態でした。 今思えば、何と勿体なくアホな思考だなぁと呆れ返りますね。 ホント、この時の自分にゲンコツをしてやりたい位です。 もっとも返り討ちに遭うのは必定ですけど(笑)
またいつの日か、廃線遺構を訪ねる旅をしたいなぁと思ってます。 聞くところによると、まだ吹上浜のユースホステルも五右衛門風呂も健在との事ですから。
No Subject * by ●kuromaru
おはようございます。
自分も南薩鉄道には間に合わなかったクチでして、ちょうどこの頃に廃線跡めぐりをしました。
まだ加世田の駅舎や万之瀬川の橋梁も残っていて現役時代さながらでした。
数年前に再訪した時はもう駅舎はありませんでしたが、まだホームが残る駅や、小さな橋梁が残っていたりして、それなりに楽しめました。
自分も南薩鉄道には間に合わなかったクチでして、ちょうどこの頃に廃線跡めぐりをしました。
まだ加世田の駅舎や万之瀬川の橋梁も残っていて現役時代さながらでした。
数年前に再訪した時はもう駅舎はありませんでしたが、まだホームが残る駅や、小さな橋梁が残っていたりして、それなりに楽しめました。
Re: No Subject * by 風来梨
●さん、こんばんは。
> おはようございます。
> 自分も南薩鉄道には間に合わなかったクチでして、ちょうどこの頃に廃線跡めぐりをしました。
> まだ加世田の駅舎や万之瀬川の橋梁も残っていて現役時代さながらでした。
> 数年前に再訪した時はもう駅舎はありませんでしたが、まだホームが残る駅や、小さな橋梁が残っていたりして、それなりに楽しめました。
私が訪ねたこの時は、まだ廃線探訪は認知されておらず、その方法も確立されてなかったですね。 そんなだから、意識して廃線遺構を見てないと、遺構であるとも気づかすにスルーしてしまいますね。
私の鉄におけるアオき失態は、この南薩鉄道と南部縦貫鉄道の二大私鉄線ですね。
> おはようございます。
> 自分も南薩鉄道には間に合わなかったクチでして、ちょうどこの頃に廃線跡めぐりをしました。
> まだ加世田の駅舎や万之瀬川の橋梁も残っていて現役時代さながらでした。
> 数年前に再訪した時はもう駅舎はありませんでしたが、まだホームが残る駅や、小さな橋梁が残っていたりして、それなりに楽しめました。
私が訪ねたこの時は、まだ廃線探訪は認知されておらず、その方法も確立されてなかったですね。 そんなだから、意識して廃線遺構を見てないと、遺構であるとも気づかすにスルーしてしまいますね。
私の鉄におけるアオき失態は、この南薩鉄道と南部縦貫鉄道の二大私鉄線ですね。
当時は国鉄全線完乗の一貫で九州を乗り潰している時でしたが、この鉄道は外せませんでした。
めちゃくちゃ乗り心地が悪かったのですが、それがまた愛おしかったですねぇ。枕崎駅もはっきり覚えています。
写真も撮ったのですが、家の整理でカミさんに間違えて捨てられてしまった(そういう写真が他にもたくさんあります)のが今でも悔やまれます…