2019-08-14 (Wed)✎
路線の思い出 第334回 宮原線・肥後小国駅跡 〔熊本県〕
確かにここに100人ばかりの
乗客を扱う駅があった
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
恵良~肥後小国 26.6km 109 / 1860
廃止年月日 転換処置
’84/12/ 1 大分交通バス
廃止時運行本数
豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
豊後森~宝泉寺 下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)
機回し線があり列車滞泊もあった
まともな終着駅だった肥後小国駅
肥後小国駅(ひごおぐにえき)は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字宮原にあった国鉄・宮原線の駅(廃駅)で、行き止まりの終着駅である。 廃止時点で単式ホーム1面1線を持つ有人駅で、本線のほか機回し線と側線があった。
駅跡は道の駅小国として整備され、施設内には往時の列車写真が掲げられている。
建物の周囲の歩道部分には枕木が敷かれ、さらに構内の片隅にはレール・駅名標・転轍機・腕木式信号機もひっそりと保存されている。
また当所のバス停留所名称は「小国ゆうステーション」でもあり、ここがかつて「鉄道の駅」であったことを証明している。 但し、本来のホームの場所は南方50mほどの場所であり、ホームへ上る階段が残されている。
路線廃止となった後に、その眼鏡橋の優美さや沿線風景などが惜しまれて、今や路線橋梁跡が国の重要文化財となった『鄙をゆく高原鉄道』宮原線・・。 そう、夏の一番暑い時に、少ない列車本数と運転免許を持たない高校生のガキという『機動力』の無さの両方をリカバーすべく、線路を自らの足で歩いた廃止年の1984年・・。
夏になると、時折あの橋の上でかいた汗を思い出す。 でも、その時は鉄道オンリーで、橋の上からの絶景は撮っていないのである。 そう・・、外から列車と風景を交えた『風景鉄道』は撮ったが、車窓からの風景はほとんど撮っていないのである。 まぁ、16~17のジャリガキにそんな先の価値を見越した写真を撮る事など無理だろうから、これは仕方のない事なのだろう。 だけど、思い出す毎に悔しく思う。
時刻表が示す通り
土曜の1往復がないと
撮れたモノではなかった
・・あれは、土曜の昼の増便を撮った翌朝の日曜日。 もう『定宿』と化した麻生釣で朝の上下便を撮ると、土曜の増便1往復がなければ夕方まで列車はないのである。 いくら自炊用具を担いで来ているとはいえ、店屋一つない麻生釣で夕方までいるのは酷なので、取り敢えず朝の下り1番列車で北里まで出る。 「北里は集落があるので店屋の一件はあるだろう」と踏んでの目論見である。
北里もかつては有人駅だった
だが、かつてよく見かけた『ちびまる子ちゃん』に出てくる『みつや』のような雑貨・駄菓子屋はあるにはあったのだが、『盆休み取ります』で休業中だったよ。 目論見が外れて干上がってしまった小僧が次に起こした行動は、「絶対に店屋のある肥後小国まで歩く」という選択肢だった。
北里で外したタワケガキの次なる手は
甲子園の高校球児なみの苦難を経て
この駅に辿り着く事だった
まぁ、この頃はワンゲロ現役期で体力だけはあったので、自炊・野宿用具一式と銀箱のカメラ一式の30㎏を担いで、盆休みの昼前という炎天下でも歩いて行く気になれたのである。 北里から肥後小国まで4.1km・・。 それを真夏の炎天下に30㎏担いで歩くのである。 それはもう、甲子園のマウンドで投げる高校球児と同じ過酷なポジショニングであろう・・と思う。
この橋の上を歩いて渡って
汗を滴り落とした思い出
その過酷なポジショニングに、汗がしたたり落ちたのは今でも鮮明に記憶に残っている。
その汗の一滴が、今や『国の重文』となっている幸野川橋梁の上に敷かれていた宮原線のレールに落ちて「ジュウ」と蒸発したのも・・。
その時に思っていたのは、「どうにかして、この橋梁で宮原線が撮れないモノかなぁ」という『撮り鉄』の欲求だった。 そうなのである。 車という『足』が無ければ、北里と肥後小国のちょうど真ん中にあるこの橋での撮影は不能なのである。 まぁ、北里で駅寝して土曜の1往復増便を狙えば可能だが、その土曜の1往復の増便は広平橋梁で撮るのを決めていたし・・。
土曜日の増便1往復は
ここで撮る事を決めていたし・・
だから、この橋の上からの絶景に気がつかなかったのである。 その幸野川橋梁での撮影は、後にオッチャンの軽トラの荷台の上に乗せてもらってのアプローチが叶ったものの、その強烈な車酔いで平衡感覚を失って「自滅なデキ」となったよ。
軽トラの荷台の上で
『イニシャルD』な目に遭って
「自滅なデキ」となった一品
この幸野川橋梁を渡り終えて暫く歩くと大きくカーブして小国の市街地に入り込み、土手をゆっくりと下ってくる。
列車はカーブして町へ下ってくる
その袂に小国温泉郷の大衆銭湯があり、土手上の線路から駆け下りて即効駆け込んだ事も憶えている。
小国は九州を代表する湯の里です
ホント、昔ながらの銭湯だったよ。 天井が高く天井に採光窓がある木造の浴場にタイルで富士の絵(阿蘇だったかも・・)が描かれた浴室、ケロリンの風呂桶、赤と水色の押しノブに『湯』『水』と書かれた古風な蛇口、脱衣場と下駄箱は木の鍵に『壱』『弐』『参』の古典文字・・、極め付けが10円の黒椅子あんま機と、瓶の強烈に冷えた牛乳だ。
プレミアは、もちろん『フルーツ牛乳』。 風呂上がりにキンキンに冷えたフルーツ牛乳を腰を片手に飲みほぐす快楽・・。 恐らく、今売っているどんなジュースより美味いと思うよ。 脱衣場の天井から吊るされたカラカラと回る3扇のプロペラ扇風機の澱んだ風も、風呂上がりには心地良い。
こういうのを蔵から掘り出すと
そんな思い出が甦ってくる
・・そんな思い出を思い返していたなら、夏のある時に九州に出向く事があって、無理やり都合をつけて小国駅跡を訪れたなら『道の駅』になっていたよ。 昔の駅だった頃は町外れの隅にあって、地元の人でも「みやのはるせん」と読めずに「みやはらせんに乗った事ない」と言わしめられていた宮原線の終着駅・肥後小国は『道の駅』となり、国道387号と国道442号の交点(実質は地域の主幹国道212号との交点)という町の中心地となっていたよ。
駅跡は目立たぬ鄙の存在から
ギラギラと輝く観光の中心地となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
その『道の駅』の建物はダイヤモンド状のガラス張りとなり、夏の日差しに反射してギラギラと輝いていた。 駅時代は日に100人程度の乗客があったのみだったのが、『道の駅』となってからは、常時100台以上の車が出入りする町の観光ステーションとなっていた。
その中でも特に人気なのが、地元小国産のミルクを使ったアイスクリームで、売り場は順番待ちとなっていたよ。 その奥に宮原線の肥後小国駅の遺構品展示スペースがあり、『廃線鉄』や『廃線跡探索鉄』の聖地となっていたよ。
だが、その『聖地』を証明するモノは、5m程敷かれた線路に腕木信号機、駅名標のモニュメントのみであった。 そのありきたりな駅跡モニュメントは、実際の姿を知っているワテとしてはあまりにもホンモノと離れすぎて撮る気がしなかったよ。 だから、ウィキペディア画像を拝借しますた。
何か違うんだよな
この手のモニュメントは・・
:
だから撮る気に慣れなかったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
モニュメントの中で
『ホンモノ』は駅名標のみだった
そして、暑さに負けて食した人気のアイスクリーム。 確かに美味かった。
けれど、銭湯で腰を手に当てて飲みほぐしたあのフルーツ牛乳には敵わなかったよな。
あの時必死になって追っかけた
ホンモノには絶対に敵わない・・
という事を思い知ったよ
何とかヤマから帰ってきました
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