風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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オホーツク縦貫鉄道の夢  第18回  『通らずの橋』を渡ってオホーツクへ・・

『オホーツク縦貫鉄道の夢』  第18回  『通らずの橋』を渡ってオホーツクへ・・
 

瑠辺斯駅から上越川駅までの根北線予想沿線図
 
さて前回は、根北線が実際にあったとしても“有り得ない”寄り道をして話が大きく反れてしまったが、それは空想旅行の事、“筆者の勝手な妄想事”として大目に見て欲しいと思う。 今回は、(その尻拭いをすべく)瑠辺須駅からの乗車で再開しよう。
 
さて、もはや乗客は皆無の原野の中の駅(というより信号所)の瑠辺須駅を出た列車は、しばらく国道244号と並走した後、次第に国道と離れていく。 樹海の中の平坦な所を縫いつつ、峠はトンネルで一気に越えていく。 ここは峠の無人地帯なので、最も路線の敷設が容易なルートを選ぶだろう。
これは当時のトンネル掘削技術にもよるが、もしかしたら《瑠辺斯駅》の少し先の辺りから、長大トンネルで一気に峠越え・・かもしれない。
 

根北峠を越えて疾走するイメージはコレ・・
相生線 布川~北見相生 より

トンネルで峠を抜けてしばらくすると、“あの有名な橋”が架かっている幾品川が見えてくる。
広大な斜里平原を潤す幾品川も、根北峠を出た頃はまだ嶮しい渓谷の様相を魅せている。
この様相が里山を流れる河川となってくると、ポツリポツリと民家跡と思しき廃墟が見えてくる。 
林業を営んでいた方々が、廃業して町の方へ移住されたのだろうか。 廃墟であれども人の住んでいた形跡が見えてくると、斜里町最奥の集落跡である上越川だ(国道からは、このように見えた)。
 

上越川駅から越川駅までの
根北線予想沿線図

もちろん、ここに《上越川駅》がある。 たぶん、駅舎も無い仮乗降場扱いの駅だろうと思う。
そして、この駅も前駅の《瑠辺斯駅》同様、利用客の見込みは“ゼロ”であろう。
 
《上越川駅》を出ると、概ね国道に沿いながら進んでいく。 国道の左側に寄り添って線路は敷設され、無理にオーバークロスなどしたりしない。 なぜなら、オーバークロスの橋を架けると、それだけ建設費が高くなってしまうからだ。

そして、もう一つ理由がある。 国道を挟んだ反対側に幾品川が流れているので、国道を跨いでしまうと川に沿って線路を敷設せねばならず、延々と築堤を造らねばならない。 これも橋梁と同じく、建設費の嵩む“ムダ”であろう。

そして、唯一橋を架ける必要がある幾品川の蛇行部分は、国道244号に架けられた立派な造りの越川橋のすぐ横を、申し訳なさそうな作りの《第二幾品川橋梁》で何とか“凌ぐ”。
これが、道路を管理する北海道開発局と破綻した鉄建公団の“格差”なのであろうか。
やがて、最奥と思しき集落と耕地が見えてくると、いよいよ真打登場だ・・。 
根北線最大にして唯一の遺構である通称“通らずの橋”と呼ばれる《第一幾品川橋梁》である。
 

美しいアーチが緩やかなカーブを描く
“夢”の残り骸・・
 
この橋は10連のアーチ構造の橋で見た目にも大変美しく、この橋の様相からは、戦時中の鉄不足の為に鉄を一切使わず“竹筋”を使ってコンクリートを打った事や、強制労働による突貫工事、そしてそれにまつわる人柱の伝説などの“負の歴史”を微塵も感じさせないのである。 国道244号の拡張工事で国道を跨ぐ2アーチ分が撤去されこそしたが、現在は文化庁により「登録有形文化財」の指定を受けた国の“文化遺産”となっている。
 

ギリシャ神話の神殿を思わせる優雅な造り
 
この“通らずの橋”も、かつては鉄道を通す希望を持って建設されたのだ。 そう、『強制労働による突貫工事』という大きな代償を払って・・。 そして今、私は空想でこの橋に列車を通している。
根室と北見を鉄路でつなぐ夢を追うも、その思いの行き場をなくした根北線に関わる全ての人々の魂が、少しでも浮かばれればいいな・・と思いながら。
 

橋のそばにあった
根北線の在りし日を記す石碑
 
根北線最大の“見せ場”である《第一幾品川橋梁》を越えると、小高い丘の上に広がる農耕地集落の中に入り《越川駅》に着く。 ここからは、かつて先行開業した部分となる。 《越川駅》は雰囲気でいうと、札沼線の新十津川駅のような作りである。 なお、根北線往事の貴重な写真を掲載したブログさん(『昔日の北海道』)があったので、リンクさせて頂く事にしました。 貴重な画像ですので、是非一度目を通して見てください。 
 
    ウェブログ 『昔日の北海道』より
 

越川駅から斜里駅(現 知床斜里駅)までの
根北線予想沿線図
 
《越川駅》からは、碁盤の目の様に敷設されている斜里町の基線道路の中をゆく。 
基線道路といえば、札幌市街地の『南4条西3線』等を思い浮かべることだろう。
でも、この斜里町の基線道路が札幌の市街地の如く完全舗装の2車線以上である訳もなく、畑へ行く農道や未舗装のダート道が基線の番号を担っている。 《十六号仮乗降場》、《十四号仮乗降場》の駅名を示すいずれの道も、畑と集落を結ぶダートの農道であった。
 
畑と農道を結ぶ所に駅がある・・という状況は、《下越川駅》にしても同じである。
畑のど真ん中に駅があったらしく、現在は跡形も無く畑となっている。 しかし、駅の設置場所が国道沿いの越川集落とかけ離れている上に畑のど真ん中・・とは、路線建設に関して何か目論みでもあったのだろうか?と思いたくなる。
 

こんな畑ばかりの所を走っていたのだろうか・・
斜里平原の畑にて
 
《西二線仮乗降場》も同じ状況で、西二線道路と南八号道路の交差点という“農道銀座”の中央に位置していたのではないかと思う。 当然、車窓風景としては、大規模な農耕地が広がる単調な眺めであったろうと思う。 でも、斜里岳の美しい裾野風景が、その単調な風景を引き締めてくれる。
 

根北線には畑の農道銀座に据えられた
2m四方の板張り櫓の乗降場が3ヶ所あった
末期は1日僅か2往復・・
 
広大な畑が続く中、ポツリポツリと街中へ入った事を示す工場的な建物が見えてくると《以久科駅》だ。
『根北線』についてインターネットで調べてみると、《以久科駅》の駅舎と鉄道官舎は’97年まで取り壊されずに残ってたとの事である。 
 
惜しむべくは、’97年以前(確か’96年に知床の山に登った時)にこの地を通った事があるのだが、その時に気がついていればという事である。 だがその時は、鉄道にはあまり目を向けない時期(山や沢に夢中でした・・ハイ)だったので、致し方ない事なのではあるが・・。 それに廃線跡の探索に関しては、熱心に探求する手立て、根性、気力共に持ち合わせてはいないし・・(つまり、生まれながらにしての“物臭さ”だって事)。

《以久科駅》のすぐ先で国道244号と合流して、そのまま斜里町の中心部へと入っていく。 
だが田舎町の事、相変わらず畑の風景が続いている。 変った事といえば、農作物を加工する工場や大規模小売店が国道沿いにチラホラと見えること位だろうか。 そして、畑風景が視界から消えると、国道のバイパスや釧網本線の線路が近づいてきて、程なく合流。 そのまま、終点《斜里駅》に到着する。

《斜里駅》は現在『知床』をつけて、《知床斜里駅》と名乗っているらしい。 だが、観光客目当てだとしても、少々行動を起こすのが遅すぎた感を否めない。 公共交通機関で知床へ行く観光客はバス利用がほとんどであろうし、そのバスもマイカーに客を食われてジリ貧状態なのだから。

最後に、このページに出てくる地図、駅設置場所、その他全ては、全て“筆者の勝手な空想である”という事をお忘れなく。 当然、位置的な事は全ていい加減で、文献などによる確証も調査による根拠もないですし、駅の設置理由や路線の敷設位置の考察も全て空想からのものです。 
 
努々、『これを参考に廃線跡探索・・』などという、おバカな行動は差し控えるようにして下さいね。
なお、行動をとってもいいですが、バカを見るのは行動した方自身です。 もちろん、責任は取りません。
悪しからず。 まぁ、こんな“めでたい”奴はいないと思うけど、念の為。
 
 
   ※ 詳細はメインサイトより、架空旅行『オホーツク縦貫鉄道の夢・根北線編』を御覧下さい。







 
 
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