路線の思い出 第318回 標津線〔厚床線〕・奥行臼駅跡 〔北海道〕
町の文化財に指定され
お色直しを受けた奥行臼駅跡
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶~根室標津・厚床~中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス 〔西春別線〕 標茶~根室標津 6往復
標茶~中標津 下り1本
中標津~根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床~中標津 4往復
奥行臼駅(おくゆきうすえき)は、北海道野付郡別海町奥行にかつてあったJR北海道・標津線の駅である。 標津線の廃止に伴い、1989年4月30日に廃駅となった。 かつては、別海村営軌道が当駅で接続していた。 昭和56年度の1日平均の乗降人員は6人との事である。
貨物及び荷物取り扱い廃止までは、島状の1面1線の単式ホームと、駅舎とホームの間に貨物積降線1本、及びホーム外側に厚床側から引き入れた留置線を有した。 駅舎は構内の西側(中標津方面に向かって左側)にあって、ホーム中央の駅舎側に設けられた階段へ線路を横切る形で連絡していた。
駅舎横の中標津寄りには、ホーム状の貨物積降場が設けられていた。
貨物及び荷物取り扱い廃止後は貨物積降線が撤去され、路線廃止までは本線と留置線の構造であった。 1963年から1971年まで、別海町上風連まで繋がる殖民軌道風連線(別海村営軌道)の停車場と、そこから駅前を横切って当駅の貨物積降場まで伸びる貨物用線があった。
駅名の由来は当駅が所在した地名(奥行)からで、地名はアイヌ語の「ウコイキウㇱイ(けんかする・いつもする・所)に由来する。 これはこの地が、根室ポロモシリ村のアイヌと厚岸のアイヌとが戦をした古戦場であった故事に由来する。

奥行臼駅遁所は国の史跡に・・
駅とホームは道の有形文化財に指定されている
現在は旧駅舎・詰所とホームが別海町の有形文化財に指定されていて、木造駅舎・詰所と線路が廃止時のまま保存されている。 また、側線が復元敷設されている。 貨物ホームの先には、春別駅跡から移築した職員用風呂場が設置された。
駅舎内には運賃表、時刻表が掲示されてあり、来訪記念スタンプが置かれている。
駅の近くには、別海村営軌道の自走客車と機関車、貨車が保存されている。
標津線が路線廃止となって30年が過ぎ、鉄道に乗って僅か4往復しかない標津線の厚床線を『撮り鉄』したのは、もう遥か昔の小僧の時となっていた。 でも、当時は(学校をサボってローカル線を追い回すロクデナシな)小僧で、移動の足も鉄道以外にないので仕方がないと言えばそうだが、僅か4往復の標津線に実際に当該路線に乗って『乗り鉄&撮り鉄』をしたのは凄い根性だと思うよ。
この頃は夜行列車もあり
鉄道で北の旅ができたのだが
今は・・
それは、札幌から釧路の夜行急行【まりも】(当時は運行されていた)を乗り継いではるばる標津線接続駅の厚床にやってきても、標津線4往復の始発列車には乗れなかったのだから・・。
標津線・厚床線の時刻表
:
これを『乗り鉄&撮り鉄』するのは根性がいるよ
即ち、4往復と云えども根室か厚床で宿でも取らない限り、使えるのは実質3往復だったのである。
それも、現地の奥行臼へ向かう列車が10時ちょうど発で、その列車に乗って奥行臼へ向かうと、当然ながらこの列車の奥行臼駅の駅撮り以外は不可能だから、撮影できるのは上下『3番列車』の1往復って事になるのである。
10時発の厚床発『2番列車』
:
根室か厚床で泊らない限り
1番列車には乗れない
そう・・、10時半に奥行臼に着いて次の折り返しの上り3番列車の14時半の手前まで、いきなり4時間の空白帯が生じるのである。
14時半の上り『3番列車』まで
いきなり4時間の空白時間が生じる撮影計画
周囲はボツリポツリとサイロが建つ放牧地帯で、この時は草も生えない北の遅い早春の時で牛さん馬さんの放牧もなかったのである。
この地では人の1000倍いるという
牛さんや馬さんも厩舎の中だった
もちろん、コンビニなど巷に出回る前の時代で店屋も一件とて見当たらないし、家屋がないので車も通らないのである。
待ち疲れたのか・・
目当てのキハ22だった
下りの『3番列車』は今イチ
つまり、立ち寄れる所は駅と駅前と、撮影地と決めた丘のみって事である。 だから、時間を潰す為に駅周辺をウロウロと歩き周ったよ。 それで、北海道の有形文化財で国の史跡に指定されている『奥行臼駅遁所』の周囲をぐるぐると見て周る。
駅逓所は閉っていたよ
:
開いてても有料なら入館に躊躇した
小僧の身の上だったが・・
何故に中に入らなかったか・・というと、閉っていて鍵は保管先にあって取りに行く事ができない&取りに行けたとしても入館料が必要なので躊躇したのいずれかだったと推測できる。
入口に掲げられた駅名標が
現役で稼働している駅を示しているが
なければ廃屋同然・・
そして、今では信じられない事に、この廃屋然とした奥行臼駅は駅員が配置され、入場券も販売していたのである。 それがコレ・・。
今では有り得ない不可思議・・
こんな廃屋然とした駅でも
駅員がいてきっぷを売っていた
建物としては、廃止対象に上っている標津線の駅は駅員がいるのが不可思議な位で、鍵が閉まって管理人不在の『奥行臼駅遁所』は国指定の史跡としてお金をかけて綺麗に修築されていた事は小僧の目からも明らかな事だったよ。
コチラは国の史跡として
お金をかけて大切に保存されている事が
小僧の目からもまる判りだった
・・で、どうやって4時間を潰した記憶は曖昧なまま、駅近くに絶賛『放置ブレー中』だった別海村営軌道のガソリンカーなどは撮らない・・という小僧ならではの「目的(標津線)以外は目に入らない」という失態をキッチリ犯して臨んだ「目当ての・・」14時台の上り『3番列車』おば・・。
14時台の上り『3番列車』
かつての日本は僅か数人の乗客の為に
定期運行を確約する力強さと優しさがあった
ホント・・「何もない春」ですね
雪の残り具合をみれば
2回撮影に赴いたみたい・・
大したデキでないけれど・・
もう撮る事のできない今となっては
ワテの大切な『お宝写真』だ
この中での『一番星』はコレかな!?
そして、16時の厚床からの下り3番列車は、待ちに待ったキハ22の単行だったよ。
でも、手応えは上りのキハ40の方が少しマシ・・。(ハッキリいうと、いずれもあまり手応えのないデキ)
待望のキハ22だったけど・・
周囲に埋もれてしまって今イチ
・・で、あれから30年の時が経ち、時代の移り変わりと共に廃止ローカル線は淘汰され、当時ロクデナシな小僧だったワテもロクデナシ度だけが増大した中年となり、北海道にやって来ての撮影対象も鉄道メインから風景や野生動物となっていた。
春風に波の紋様を浮かべる
春国岱の砂嘴(さし)
それで、根室の自然風景撮影を終えてオホーツク海に沿って北上する道すがらで、この奥行臼駅跡の前を通る機会があったのである。 その『奥行臼駅遁所』は国の史跡に・・、奥行臼駅跡は町の文化財に登録されて、町の観光スポットとなっていた。 まぁ、注目度はかなり低いみたいだけど。
国道243号線と244号線の交点にあるこの駅遁所には、その入口付近に多目的トイレ付きの公衆トイレが設置され、往時はダートだった駅前もキッチリ舗装されていたよ。 だが『奥行臼駅遁所』はこの時も改築中とかで非公開だったよ。 小僧の時と違って今なら多少の金もあるので、入館料を出して館内を観覧できたのに・・。
でも、これでかつて追っかけた『オホーツク縦貫鉄道の夢』を再び訪ねたくなって、国道244号を北上して『渡らずの橋』の根北線・幾品川橋梁を訪ねたよ。 その際に通った根北峠は思った以上に急坂が続き(特に網走側の下り)、冬季は通行止めになるのも頷けたよ。 それでは、ギリシャ神殿遺跡を髣髴させる『渡らずの橋』をごろうじろ・・。
渡らずの橋とオオワシ
越川駅跡の石碑
国道拡張の為に割られて
『石碑』となった『渡らずの橋』
その石碑は
ギリシャ神殿の遺跡を髣髴させる
木の配置といい
これが『一番星』かな・・
幌加といい・・、小松島港(仮)といい・・、
始めから『お宝写真』大放出の積極営業してますな
:
後のネタが続くのか?
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