2011-06-21 (Tue)✎
『私の訪ねた路線』 第33回 胆振線 〔北海道〕
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83) 廃止年月日 転換処置
伊達紋別~倶知安 83.0km 382 / 1820 ’86/11/ 1 道南バス
廃止時運行本数
伊達紋別~倶知安 4往復 、伊達紋別~久保内 1往復 、御園~倶知安 2往復
新大滝~倶知安 1往復 、伊達紋別~新大滝 2往復
《路線史》
日鉄・脇方鉱山の鉄鉱石輸送を目的として軽便鉄道法により建設され、1920年に倶知安~京極~脇方が開通した。 当時この路線は『京極線』と呼称されていた。 そして、京極より先は私鉄の胆振鉄道が、1928年に『京極線』の延伸という形で喜茂別まで延伸させた。
一方、伊達紋別からは、1940年に私鉄の胆振縦貫鉄道が徳瞬瞥(今の新大滝)までを開業させて、翌年に喜茂別までの延伸と倶知安~喜茂別の胆振鉄道の合併・吸収を行なって、形の上で全通した。
その後の1944年に胆振縦貫鉄道の戦時買収が国によって行なわれ、京極線と併せてようやく『胆振線』が完成する。
その後、1969年の日鉄・脇方鉱山の閉山により、翌年に支線の京極~脇方が廃止される。
一方、伊達紋別からは、1940年に私鉄の胆振縦貫鉄道が徳瞬瞥(今の新大滝)までを開業させて、翌年に喜茂別までの延伸と倶知安~喜茂別の胆振鉄道の合併・吸収を行なって、形の上で全通した。
その後の1944年に胆振縦貫鉄道の戦時買収が国によって行なわれ、京極線と併せてようやく『胆振線』が完成する。
その後、1969年の日鉄・脇方鉱山の閉山により、翌年に支線の京極~脇方が廃止される。
また、“本線”の方も、国道の整備と過疎による人口の流失で利用客は目減りした上に、1977年の有珠山噴火の被害を受けての復旧費用が嵩み、再生不能の赤字線に陥る。 その様な経緯を経た上で特定地方交通線の廃止対象候補に挙げられて、1986年10月末をもってに廃止された。
運行形態の特徴としては、両端が主要幹線につながる比較的路線延長の長い路線という事で、札幌より伊達紋別・倶知安を経た上で札幌へ戻る循環急行が、1980年のダイヤ改正まで1往復定期運行されていたという事である。
列車愛称は『いぶり』と呼ばれ、室蘭本線の急行『ちとせ』や函館本線の急行『らいでん』に併結され、胆振線内を単行運転する急行列車であった。 胆振線内を単行運転する事もあって、車輌は単行運転が可能な一般型のキハ22系が使用されていた。
また、胆振支庁と後志支庁の国境付近は人口稀薄地帯で特に利用客が少なく、この区間(新大滝~御園)の列車本数も少なく設定されていた。 この区間に、“幻の乗降場”として有名な『尾路遠仮乗降場』があったとの事である。
運行形態の特徴としては、両端が主要幹線につながる比較的路線延長の長い路線という事で、札幌より伊達紋別・倶知安を経た上で札幌へ戻る循環急行が、1980年のダイヤ改正まで1往復定期運行されていたという事である。
列車愛称は『いぶり』と呼ばれ、室蘭本線の急行『ちとせ』や函館本線の急行『らいでん』に併結され、胆振線内を単行運転する急行列車であった。 胆振線内を単行運転する事もあって、車輌は単行運転が可能な一般型のキハ22系が使用されていた。
また、胆振支庁と後志支庁の国境付近は人口稀薄地帯で特に利用客が少なく、この区間(新大滝~御園)の列車本数も少なく設定されていた。 この区間に、“幻の乗降場”として有名な『尾路遠仮乗降場』があったとの事である。
《乗車記》
胆振線列車は、1番線の先にある切り欠きホームより発車する。 1番線といっても駅母屋は3番線にあるので、『駅の果て』である立ち位置は変らない。 次の上長和は棒線駅。 この駅を出ると、昭和新山が見えてくる。 昭和初期に田圃の中から出現した標高400m程の活火山だ。 当時のワテは、なぜかこれをターゲットに撮影を目論んで、見事『ボツ写真の山』を築いてしまった。
次の壮瞥は温泉街もある洞爺湖畔の観光拠点だ。 駅と鉄道は観光輸送の供にはならなかったが、伊達紋別のバスターミナルより壮瞥駅前と洞爺湖畔の観光地を結ぶバスは頻繁に運転されていたようである。
次の久保内は交換可能駅。 貨物列車の行き違いを想定した千鳥配置のローカル線らしき線形の駅だった。
次の蟠渓は、小さな町工場の工作所のような駅舎で、パッと見は駅とは解り辛かった。 近くに鄙びた温泉があった。 中でも長流(おさる)川の河原にある露天風呂の《オサル湯》は、温泉通には知られている露天温泉である。 北湯沢も温泉の最寄り駅である。 だが、蟠渓温泉が鄙びた温泉であるのに対して、こちらは温泉旅館が数件ある温泉郷である。
次の優徳は、山間の小駅。 だが、かつては交換設備を要していたらしく、その跡地が残る。
新大滝は、路線の中間地点で、この駅の先で胆振・後志の国境・オロエン峠を越える。 しかし、峠越えをする乗客はほとんどなく、列車本数もこの峠越え区間は半減する。
新大滝を出ると、国境の峠・オロエン峠を越える。 この峠の新大滝側に『幻の仮乗降場』といわれた尾路園仮乗降場があり、乗客がいなければ通過処置をとっていたらしいが、無人地帯で乗降場自体が自然消滅したという。
国境を越えて、峠から集落まで下りてくると御園駅。 峠の入口の駅らしく、小ぶりの駅舎に千鳥配置の長い交換設備を有した駅だった。 次の北鈴川は、駅舎こそ御園駅と同一の造り(無人駅なのでやや小ぶり)だが、山間の棒線小駅という立ち位置だ。
喜茂別は、後志支庁側の最奥行政区で、この路線の後志側を建設した胆振鉄道の終着駅である。
その後買収や国有化で駅の位置が点々と移動したというが、詳しくはその参考文献を見た方がいいだろう。 留産・南京極・東京極と簡易駅舎の小駅を経て、京極に着く。
京極駅入場券
この駅は路線史でも記したように、日鉄・脇方鉱山の鉱石輸送の為の支線・脇方支線の分岐駅だった駅である。 典型的な鉄鉱石輸送路線で、1969年の鉱山の閉山の後を追うように、1970年に廃線となっている。
山と列車を撮れなかった筆者の
苦しすぎる言い訳
※ クリックすると羊蹄山の
登山ガイドに飛びます
車窓では、喜茂別を出たくらいから蝦夷の富士山こと羊蹄山が美しい姿を魅せ始める。 撮影場所としては留産~六郷の間が良かったようだ。 まぁ、撮り逃した筆者がいっても説得力はないが。
羊蹄山と胆振線を
撮れなかったのが心残り
京極を出ると、明らかに地方私鉄の建設線と判る路線や駅の内容となる。 北岡・寒別・三郷・六郷と棒線と待合室の小駅が続き、そのまま倶知安駅に突入する。 到着番線は、駅舎と路線の進行方向から、母屋側の1番線を使用していたようである。
だが、今は残った本線でさえも「偉大なるローカル線区」として、今や普通列車の運行のみとなっている。 倶知安駅の改札前には、かつては特急【北海】や急行【ニセコ】、急行【宗谷】などのロングラン列車が停車していた時が夢だったような淋しい発車・到着時刻表が掲げてあった。 そして、胆振線を掲示していたスペースが白の無地となっているのも哀れさを誘うのである。
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No title * by オータ
あまりにも身近すぎて、かえってコメントできないものです。すみません…いつか何か申せるようになったら書きますね。
No title * by 風来梨
そうですよね。
身近過ぎると、ついつい後回しにしてしまったり、乗りそびれたりして、後悔するこ事ってありますね。 私も、身近な位置にあったローカル私鉄などは、結局写真も撮らずに乗っただけ・・ってのが多くありますから・・。
身近過ぎると、ついつい後回しにしてしまったり、乗りそびれたりして、後悔するこ事ってありますね。 私も、身近な位置にあったローカル私鉄などは、結局写真も撮らずに乗っただけ・・ってのが多くありますから・・。