風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第304回  大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)御堂筋線・淀屋橋駅

路線の思い出  第304回 大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)御堂筋線・淀屋橋駅  〔大阪府〕


ラッシュ時になると一つの町村の人口を
凌駕する位に人が溢れかえる
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
    営業区間と営業キロ              運行本数(’19)
  江坂~中百舌鳥 24.5km   上下とも毎時15本、ラッシュ時は20本以上(最大26本)

淀屋橋駅(よどやばしえき)は、大阪府大阪市中央区北浜三丁目にある大阪市高速電気軌道 (大阪メトロ) と京阪電気鉄道の駅である。 なお、京阪電気鉄道については、次回の掲載時に掲載する。

島式ホーム1面2線を有する地下駅で、改札口とコンコースは地下1階、ホームは地下2階に設けられている。 改札口は北改札、中北改札、中南改札、南改札の4か所にある。 1日乗降人員は228,722人(乗車人員:111,139人、降車人員:117,583人)で、御堂筋線の駅では梅田駅、難波駅、天王寺駅に次ぐ第4位の乗降人員である。

相互直通を行っていない1路線の駅としては、大阪市営地下鉄では御堂筋線梅田駅に次いで2位で、全国の地下鉄の駅でも、御堂筋線梅田駅、千代田線北千住駅、銀座線新橋駅、丸ノ内線新宿駅に次ぐ日本第5位である。



この駅の思い出は、初めて『撮り鉄』に出かけたこの頃に起きた出来事なので、当然写真など撮った事はないし、現にこの駅でこの両線を『撮り鉄』するのはもの凄い徒労を強いられるような気がして撮る気にもならないし、逆に「撮りたい」という奴がいたら「ヤメとけ!」と制止するだろう。

まぁ偏に、両線の両駅とも物凄く狭い駅でありながら、全国有数の乗降人員のある「常時人だかりの駅」だからである。 もう、それは、ラッシュ時などは、歩く事もままならぬ程に混み合うのである。
そこにカメラなどぶら下げて歩いていたなら、たちまち乗客の雑踏に蹂躙されるか、『危険行為』として場内アナウンスで吊し上げを喰らいかねないだろう。 だから、この駅での思い出は『撮り鉄』とは一切関わりがないのである。

まずは、大阪メトロの淀屋橋駅から・・。 ぢ・つ・わ・・ワテ、『大阪メトロ』に変わった’18年4月以降、『大阪メトロ』に乗った事ないんだよね~。 前に乗ったのは『大阪メトロ』に変わる年の1月だから、もう1年以上乗ってないや! でも、幼少の頃は、毎日乗る機会があったのである。


もう・・大方40年も前に
地下鉄御堂筋線で越境通学をしていたワテ
※ ウィキペディア画像を拝借

それは、小学校3年の2学期に(3番目の母親の出奔により)大阪市内より豊中の服部緑地駅周辺に転居したのであるが、一番長くて最も母親を必要とする年頃の母親だったので、それが消えたダメージに友と別れる転校のダブルパンチはこの年には耐え難く、この引っ越し自体にゴネにゴネて学校には内緒で豊中の緑地公園駅から淀屋橋まで越境通学していたのだ。

でも、越境通学ともなると、人一倍朝早くに家を出なくてはならないし、また小僧なりに「越境通学がバレたらヤバい」との認識はあったので、友達とかにはバレないように早めに教室に入っていたから、もう7時半頃には淀屋橋駅に着く通学パターンであった。 ちなみに、淀屋橋駅から小学校までは、小僧の足でも徒歩10分程だったかな・・。

言ってみれば、「転校したくない!」の一念でゴネただけの越境通学だったので、この早出と夜遅い帰宅は小僧にとって身体的にキツくつまらない事でしかなかったのである。
・・で、その「つまらない事」を解消する為に、小僧が考え出したのが『車両くじ』である。


今の北急の車両はどこの会社の車両か
判らんほどに没個性な容姿だな
※ ウィキペディア画像を拝借

それは、当時の大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)の使用車両は、江坂~千里中央を相互乗り入れしている北大阪急行電鉄の車両を合せると、実にバラエティに富んでいたのである。 そして、そろそろに鉄道の冷房化が始まった時期で、大阪市営地下鉄も《1号線》たる御堂筋線に限って試作の冷房搭載車が投入され始めていたのである。


今は冷房車が当たり前だけど
当時は数編成しか投入されていなかった
※ ウィキペディア画像を拝借

夏でもないからありがたみはなかったが、冷房車が来ると『大吉』で、後は車両の容姿の好みや乗り心地で『吉』・『中吉』・『小吉』・『末吉』・『凶』と分類していたのである。 この頃はおみくじに興味があり、神社なんかに行くと必ず「引かせろ!」とせがみ、桟道でのお土産も必ずと言っていい程に、『おみくじのキーホルダー』を所望していたっけ・・。


この頃は真剣に
『おみくじキーホルダー』を集めていたな
※ グーグル画像を拝借

・・で、その中でも『大吉』中の”トップ・オブ・ザ”『大吉』があったのである。
それは冷房車の試作1号機の編成の車両で、車両の容姿が以降の量産型と全く異なって、当時の小僧の目には正義の味方『ウルトラマン』と映ったのである。

”トップ・オブ・ザ”『大吉』

一編成しかない試作車で
”トップ・オブ・ザ”『大吉』の
称号を得ていた1号編成
ウルトラマンみたいでそ・・
※ ウィキペディア画像を拝借

ちなみに以降の量産型は、『ウルトラマン』というよりも怪獣系の容姿だったかな。
でも、冷房付の新型車なので『大吉』評価だけど。

冷房付の『大吉』

2号編成以降は悪役の怪獣の容姿に
どうしてこうも形が変わるのか
小僧ながらに疑問に思ったよ
※ ウィキペディア画像を拝借

座り心地のいい『吉』

当時の北急は阪急系列に属していたのか
車内装飾は阪急仕様だったよ
※ ウィキペディア画像を拝借

・・で、『吉』は、北急の乗り入れ車両である。 冷房はないが、座席は阪急電車と同じのモケット貼のふかふか座席で、ビニールの硬くて冷たい大阪市市営の車両とは一線を隔していたのである。

ボロさ加減が逆に高評価の『中吉』

貫通窓が旧型と同じで
ボロさを感じさせたステンレスの『中吉』
※ 大阪市営地下鉄の車両紹介ウェブより

次に『中吉』はステンレスの車体の一般形。 形はボロかったが、少しアクセントがあって、小僧の評価は上々だった。 そして最も多かったのが、『小吉』のラインデリア改造された一般形の30系後期タイプだった。

区別のつきにくかった『小吉』

30系の後期型はアルミのボディと
ラインデリアを備えていた
ウィキペディア画像を拝借

今ならコレが来たらかなり嬉しい『末吉』

コンプレッサーの発する
妙な音を唸らせながら走っていたよ
『末は吉』となるこの旧型車は
※ 大阪市営地下鉄の車両紹介ウェブより

また『末吉』は、今なら『特上の大吉』となる50系の旧型だ。 まだ淘汰される前の車両が僅かながらに在籍していたようで、コンプレッサーの甲高い幽霊音を唸らせながら走っていたよ。
でも、この旧型車、乗り心地は次に出る『凶』より断然上のモケット貼りシートだったし。


いよっ! 『末吉』の揃い踏み
壮観だねぇ
※ グーグル画像を拝借

残る『凶』は、旧タイプの30系一般形である。 座席は硬いビニール貼だし、何かブサイクだし・・で、あまり好きになれなかったのである。 時間に余裕がある時なんか、『凶』が来ると一本待ったりした事もあったよ。

そろそろ淘汰されつつあった『凶』

座席は硬くて冷たいビニール貼だし
ありふれた容姿であまり好きになれなかったよ
※ ウィキペディア画像を拝借

でも、その『車両くじ』も終焉を迎える時がやってきたのである。 それは、まだ齢10歳に達しない小僧には鉄道での越境通学は身体の負担が大きかったようで、越境入学を続けて半年ほどたった学年末間際のある日・・、寝不足で足がもつれたのか駅の階段から転げ落ちて学校への通報沙汰となり、学校に黙っての越境通学がバレてしまったのである。


この高さから転げ落ちたら
そりゃあもう・・大騒ぎさ!
※ グーグル画像を拝借

・・で、処分は、この学年限りでの強制転校となったが、ここでも我がオヤジはビックな所を見せたのである。 それは、学校からの呼び出しに全く応じなかったのである。 オヤジいわく、「(転校したくないと言った)ガキがしたいからさせてやっただけ」、「友達と引き離される方が可哀そうだろ?」との事。

まぁ、高校入試に際した面談で、『じゃりん子チエ』のテツの如く腹巻に手を突っ込んでやってくる究極オヤジだったけれど、己の考えを貫き通す一本の筋は通っていたなぁ。 その『筋』が、一般の親が向く方向かは別としても・・。

・・京阪の淀屋橋駅も語ろうかと思ったけど、長くなったので次の回に書き記すとしようか。














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