風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第290回  天北線・鬼志別駅

路線の思い出  第290回  天北線・鬼志別駅  〔北海道〕


猿払村の役場所在地駅・鬼志別駅
この駅が今回の物語の出発点となった

《路線データ》
      営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)  
    音威子府~南稚内 148.9km          418  /   884               
          廃止年月日              転換処置
           ’89/ 5/ 1                   宗谷バス
廃止時運行本数
          音威子府~稚内   下り7本・上り6本(内 急行1往復)
          音威子府~浜頓別  1往復
          声問~稚内       1往復《休日運休》
          曲淵~稚内     上り1本

鬼志別駅(おにしべつえき)は、北海道(宗谷支庁)宗谷郡猿払村字鬼志別にあったJR北海道・天北線の駅である。 天北線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。  廃止時まで運行されていた急行【天北】の停車駅であった。 職員配置駅となっており、木造駅舎は構内の北側に位置し1番線ホーム中央部に接していた。 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は153人との事である。


天北線の『花形列車』の急行【天北】

駅名の由来は当駅の所在する地名からで、アイヌ語の「オニウペッ」(川尻に・木が・群生している・川)、又は「オヌウペッ」(川口・豊漁・ある・川)のいずれかからとされる。

廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム西側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側ホームが上りの1番線、待合所が設置された島式ホームが下りの2番線となっていた。
その他、1983年時点では、島式ホームの外側に3線を側線として有しており、1番線の音威子府方から分岐し駅舎東側の切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。


駅跡の敷地に建てられた
鬼志別バスターミナル
※ ウィキペディア画像を拝借

天北線の廃止後に駅舎は撤去され、『鬼志別バスターミナル』に建替えられている。 また、ターミナル館内の1階に天北線の資料展示室が設けられ、周辺駅の駅名標、乗車券、備品、写真などの天北線関連資料が保存・展示されている。


バスターミナルの1階は
天北線の資料館となっている
※ ウィキペディア画像を拝借




雄大な北の原野を行き交った
夢の鉄路・天北線

鬼志別駅の思い出・・。 それは自分で言うのも何だが、壮大なロマンの起点として降り立った駅である。 まぁ、この「壮大なロマン」とは、天北線在りし時の廃止ローカル線を追いかけていた小僧の頃のワテにとっての事であるが。

それは、当時は途中の稚内市のオホーツク沿いの南端にある東浦地区までしかバスがなく、オホーツク海に沿って公共の交通機関を乗り継ぎ、我が国の最北端・『宗谷岬』まで北上する事ができなかったのである。

そして、この我が国の最北端・『宗谷岬』までのアプローチルートは、稚内市街から国道238号《オホーツク・ライン》を東周りでゆく最短ルートで『確定』していた・・というか、『宗谷岬』を訪れる全ての観光客が、この『稚内市街からの東周りルート』を通っていたのである。


若き日のワテは
「我が国最北端の地」への
アプローチの方法を問うていた

でも、ワテは違った。 なぜ普通の観光客と同じルートを取らなかったのかというと、この頃から『オホーツク縦貫鉄道の夢』の写真集を製作する構想を抱いており、根室から稚内まで実際にオホーツク海沿いに伝って、それをルポする企画を立てていたのである。

まぁ、当時は車も持たない小僧という事で、根室標津から斜里の間は交公共の通機関もなく距離も長くて、車が無ければ伝う事は不能だったので『割愛』を決め込んでいたが・・。 ここで、「オメェ、受験はどうした?」、「そんなヨタ計画に酔ってないで勉強しろ!」などという、筆者が最も嫌う話の根幹をへし折る”嫌がらせ”はナシね。

話は反れたが、この『宗谷岬』まで伝う交通機関が『稚内市街からの東周りルート』しかないとはいえ、小僧だったワテが目論んだ『オホーツク海に沿って北上するルート』にも、先程に述べたように稚内市のオホーツク沿いの南端にある東浦地区までは、東浦地区に隣接する猿払村の村営バスの路線があったのである。


古き良き時代の駅舎風景を魅せていた
鬼志別駅

その猿払村の村営バスの基点となる所が、猿払村の役場所在地駅である『鬼志別駅』だったのである。
当時はマイクロバスが日に4往復する完全な「生活路線バス」で、初乗りは何と『チロルチョコ』と同額の10円だった事が鮮烈な記憶として残っている。

前日は浅茅野駅で駅寝して、天北線の始発に乗って鬼志別駅へ。 猿払村営バスは「生活路線バス」という事で、稚内へ向かう利便を最優先に、天北線の下り稚内行列車の鬼志別到着時刻に程よく合わせた時刻になっていたと思う。


猿払村営バス
こんなマイクロバスだった
※ グーグル画像を拝借

このバスに約30分乗ると、《東浦小学校前》というバス停ポールのみの停留所に着く。
終点で下車を促すバスの運転手に、小僧のワテはここが終点だとは解らずバスの運転手に、「《東浦》までいかないのですか?」とトンチンカンな事を訪ねる。 何故にこんな事を訪ねたかというと、「少しでも北上したい」気持ちに苛まれていたからであるのは言うまでもない。

でも、「ここが《東浦》だよ」というバスの運転手は、「どうせ、折り返しのバスで駅に戻るのだろう」と踏んでいたようで、「1時間程で折り返してくるから、寒いけどそこで待ってて・・」と言い残してバスを出した。 恐らく詰所のある車庫で待機の上、折り返しのバスとして戻ってくるのだろう。


バスの運転手は
このように思ったに違いない
「バスには天北線を撮りに来た小僧の
気まぐれで乗ったのだろう」と

でも、ワテの企画した「(小僧にとっての)壮大なロマン」は、ここから真に開始となるのである。
これより「我が国の最北端」・『宗谷岬』まで、オホーツク海に沿った国道238号線・通称《オホーツク・ライン》を歩いていくのだ。 その距離は15.5km。 車も持たないし、もちろん『宗谷岬』にも行った事がない小僧が歩いて「我が国の最北端」へ到達するという、当時のワテが考え得る中では最大の「壮大なロマン」の出発地点なのだ。

ここからは先述の如く、公共交通機関はない。 そして、店屋も見当たらない。 更に言えば民家など見当たらず、人の住んでいる気配もない。 つまり、ただひたすら歩いていくしかないって事だ。
ある意味、前回の『路線の思い出』で出て来た『六甲全山縦走』に似ているのである。
これは、ガキという若さだったからできた「無謀と紙一重の”壮大なロマン”」へのチャレンジであった。


宗谷岬への道中で唯一撮った
岬に向かって飛んでいくオオセグロ

その《宗谷岬》までの道は右手には果てしない海が広がり、左手は崖が壁のように迫り立つだけの単調な風景だった。 民家は全くなく、目標となるようなものも何もない。 ただ風が強くうねる中を、地図で見た以上に激しい高低差の峠もどきを、いくつも越えていかねばならない。 途中、唯一の目標となる地点としては、《豊岩》にある《豊岩遺跡》であろうか。

まぁ、遺跡といっても、大理石に刻まれた案内表示が置かれているだけで、インターネットでも見つける事がてきなかったが・・。 たぶん、竪穴式の住居か何かが確認された遺跡だろう。 この遺跡を越えて切り立つ崖を周り込むと陸地の果て・・、即ち《宗谷岬》が海に突き出しているのが見えてくる。
これが見えてくると、あとひと息だ。


凍りつく「♪そぉ~うやのみさきィ~」
歌詞モニュメント

やがて、小中学校や集落のある《大岬》という《宗谷岬》地区の居住区(この《大岬》は東浦地区以来の民家である)を越えて、ドライブインやら土産物屋やらが出てきて、「♪そぉ~うやのみさきィ~」と演歌のカラオケが周囲に流れ出したら、我が国の最北端の地・《宗谷岬》到達だ。 これで、この旅の目的であった根室と宗谷の岬をめぐる旅を達成できたのだ。


岬に到達すると心が高揚する
その岬がこの国の最北端であれば尚更だ

岬のモニュメントの前に立ち、しばしその充実感に身を委ねる。 もちろん、『日本最北端到達証明書』も手に入れよう。 この証明書は、自分の中できっと力強い証となると思うから。 それは、本当に自分の足で到達したのだから・・。


自分の足で辿り着いた証明だから
この証明書は自身の力強い証となるだろう
 
帰りはバスで稚内市内へ戻るのがセオリーというか当たり前の事なのだが、勢いだけで我が「壮大なロマン」を達成したとはいえ、稚内に出ても泊る宿代も持たず、更に明日は天北線を『撮り鉄』する行動予定を立てていたこのタワケ小僧は、来た道を引き返す。 この時点では、本気で《東浦》まで歩いていくつもりだった。

だが、《大岬》の街中で運良くヒッチハイクに成功して、天北線の沼川駅まで送ってもらったのである。 何でも、ワテが宗谷岬まで歩いていく姿を車から見ていたそうである。

沼川駅は何と石油ストーブもあり、この壮大なロマンを達成した喜びもあって、快適で優雅な駅寝ライフを送れたよ。 それでは、最後にワテの天北線での『一番星』おば・・。←この次の年に撮ったモノだけど・・


『光の輪』という夢まぼろし

どこまでも果てしなく広がる荒涼とした原野
その無人の荒野に貨客を大量輸送する目的で
建設される鉄道路線があった事は
正しく”夢まぼろし”と捉えていいのかもしれない





















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No title * by pikes peak
こんにちは。
猿払へ行ったばかりなので、なかなか見応えありました。
鬼士別には天北線資料館があったとは.... 近くまで行ったのに行きそびれました....
しかし、あのR238を雪の残る季節?に15km以上は、恐れ入ります....

個人的には、このキハ400 480に一度会いたかった、撮りたかった が強いです。

No title * by きゃみ
こんばんは。
15キロの徒歩はすごいですね。しかも冬期というのが素晴らしいです。
私は残念ながら天北線には乗車できませんでしたが、急行「天北」を札幌で見かけることはできました。86年の冬だったかな?当時は14系客車での運用でした。乗車してみたかったですね。
今は根室から稚内までのオホーツク海沿いを公共機関で乗り継ぎながらでも行けるのでしょうか。いつかやってみたいですが今は難しそうですね。

No title * by 風来梨
pikes peakさん、こんばんは。

浜頓別のバスターミナルにも天北線の資料館があるそうですが、こちらはいつも閉っていてヤル気がないですね。 北見枝幸の鉄道資料館は、宗谷バスが枝幸町に払い下げたそうです。 基本的に宗谷バスは鉄道に対して冷たい態度で知られてます。

その中で鬼志別だけ鉄道資料館がキチンと運営されているのは、猿払村がかなり力をいれているからでしょうか・・。

キハ400・・。 小僧の眼から見てもカックイかったです。
今の特急なんかと比べモノにならない位に・・。

No title * by 風来梨
きゃみさん、こんばんは。

あの頃は「若かった」・・ コレに着きますね。 そして、この翌年から『冬の北海道を駅寝しながら周るキ△ガイ四人衆』の「周回遅れの4番手」の称号を得るようになりましたね。

でも、あの時の3人様は、弟子まで連れる真に『レジェンド』な存在でした。 でも、この3人様は、ネットでも見当たらない謎な存在となってます。

No title * by 風来梨
それと、根室から稚内ですが、根北線区間(根室標津~斜里)は道路はありますが交通交通機関は皆無で、冬場は根北峠を通る国道244号も冬季閉鎖するようです。

後は、乗り継ぎしながら何とかなりますが、天北線の鬼志別~曲淵~稚内のバスルートは宗谷岬周りに替わりました。

今は、私が歩いた国道238号の海沿いルートが、天北線の代替区間となっています。

No title * by 鳳山
鬼志別の語源、勉強になりました。情景が浮かんできますね。

ナイス

No title * by なべ
こんばんは。天北線は国鉄末期に乗った事がありますが、乗り心地が悪く揺れが凄かったのを覚えています。浜頓別で興浜北線に乗り換えて青い海が見えた時には感動しました。

No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。

北海道は末端地域になるほどに、これといった目標物も日本史の絡む歴史的な出来事も薄く、地名をつけるのも苦労しているようです。

バス停等は「田中前」など近所の個人居宅から取っているケースが多々ありますし、「川尻の木が多く茂る場所」などという、土地柄をアイヌ語読みしてそれを漢字に転化して当てはめた地名が多いですね。

No title * by 風来梨
なべさん、こんばんは。

私の場合の興浜北線は、最初の訪問ではイソ感度に釣られてタングステンフイルムを使ってしまったフイルム間違いで全ボツ、その冬にリベンジで何とか撮ることが間に合いました。 その様子は「路線の思い出の第200回 興浜北線・斜内駅」で記事にしているので宜しければどうぞ。

天北線は余裕の出てきた「ローカル線追っかけ」の最盛期で、真冬に駅寝して天北線を追っかける事ができましたね。

コメント






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こんにちは。
猿払へ行ったばかりなので、なかなか見応えありました。
鬼士別には天北線資料館があったとは.... 近くまで行ったのに行きそびれました....
しかし、あのR238を雪の残る季節?に15km以上は、恐れ入ります....

個人的には、このキハ400 480に一度会いたかった、撮りたかった が強いです。
2018-12-02 * pikes peak [ 編集 ]

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こんばんは。
15キロの徒歩はすごいですね。しかも冬期というのが素晴らしいです。
私は残念ながら天北線には乗車できませんでしたが、急行「天北」を札幌で見かけることはできました。86年の冬だったかな?当時は14系客車での運用でした。乗車してみたかったですね。
今は根室から稚内までのオホーツク海沿いを公共機関で乗り継ぎながらでも行けるのでしょうか。いつかやってみたいですが今は難しそうですね。
2018-12-02 * きゃみ [ 編集 ]

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pikes peakさん、こんばんは。

浜頓別のバスターミナルにも天北線の資料館があるそうですが、こちらはいつも閉っていてヤル気がないですね。 北見枝幸の鉄道資料館は、宗谷バスが枝幸町に払い下げたそうです。 基本的に宗谷バスは鉄道に対して冷たい態度で知られてます。

その中で鬼志別だけ鉄道資料館がキチンと運営されているのは、猿払村がかなり力をいれているからでしょうか・・。

キハ400・・。 小僧の眼から見てもカックイかったです。
今の特急なんかと比べモノにならない位に・・。
2018-12-02 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

きゃみさん、こんばんは。

あの頃は「若かった」・・ コレに着きますね。 そして、この翌年から『冬の北海道を駅寝しながら周るキ△ガイ四人衆』の「周回遅れの4番手」の称号を得るようになりましたね。

でも、あの時の3人様は、弟子まで連れる真に『レジェンド』な存在でした。 でも、この3人様は、ネットでも見当たらない謎な存在となってます。
2018-12-02 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

それと、根室から稚内ですが、根北線区間(根室標津~斜里)は道路はありますが交通交通機関は皆無で、冬場は根北峠を通る国道244号も冬季閉鎖するようです。

後は、乗り継ぎしながら何とかなりますが、天北線の鬼志別~曲淵~稚内のバスルートは宗谷岬周りに替わりました。

今は、私が歩いた国道238号の海沿いルートが、天北線の代替区間となっています。
2018-12-02 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

鬼志別の語源、勉強になりました。情景が浮かんできますね。

ナイス
2018-12-05 * 鳳山 [ 編集 ]

No title

こんばんは。天北線は国鉄末期に乗った事がありますが、乗り心地が悪く揺れが凄かったのを覚えています。浜頓別で興浜北線に乗り換えて青い海が見えた時には感動しました。
2018-12-05 * なべ [ 編集 ]

No title

鳳山さん、こんばんは。

北海道は末端地域になるほどに、これといった目標物も日本史の絡む歴史的な出来事も薄く、地名をつけるのも苦労しているようです。

バス停等は「田中前」など近所の個人居宅から取っているケースが多々ありますし、「川尻の木が多く茂る場所」などという、土地柄をアイヌ語読みしてそれを漢字に転化して当てはめた地名が多いですね。
2018-12-05 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

なべさん、こんばんは。

私の場合の興浜北線は、最初の訪問ではイソ感度に釣られてタングステンフイルムを使ってしまったフイルム間違いで全ボツ、その冬にリベンジで何とか撮ることが間に合いました。 その様子は「路線の思い出の第200回 興浜北線・斜内駅」で記事にしているので宜しければどうぞ。

天北線は余裕の出てきた「ローカル線追っかけ」の最盛期で、真冬に駅寝して天北線を追っかける事ができましたね。
2018-12-05 * 風来梨 [ 編集 ]