風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第284回  近鉄大阪線・今里駅

路線の思い出  第284回  近鉄大阪線・今里駅  〔大阪府〕


駅前からは昔ながらの商店街が続く
下町の高架駅・今里駅
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
      営業区間と営業キロ              運行本数(’18) 
  大阪・上本町~伊勢中川 108.9km    特急から区間準急までの全ての優等列車は当駅を
                       通過し、停車するのは普通列車のみとなっている
                       大阪線 上下とも毎時5本、ラッシュ時6~9本
                       奈良線 上下とも毎時6本、ラッシュ時7~9本


路線別複々線では珍しい
上下別の線路配置の今里駅
※ ウィキペディア画像を拝借

今里駅(いまざとえき)は、大阪府大阪市生野区新今里四丁目にある近畿日本鉄道(近鉄)・大阪線の駅である。 相対式ホームの間に島式ホームが配置された3面4線の高架駅である。 有効有効長は全面6両編成分。 改札・コンコースは1階、ホームは2階にある。 改札口は南側の1か所のみとなっている。

1956年の複々線化までは2面の相対式ホームで、奈良線の普通列車のみが停車していた。 
複々線化後は2番ホームが奈良線上り、3番線ホームが大阪線下りの扱いとなっていたが、1975年に現行のホーム使用形式(1番線・奈良線下り、2番線・大阪線下り、3番線・奈良線上り・4番線大阪線上り)に変更された。

鶴橋駅管理の有人駅で、PiTaPa・ICOCA対応の自動改札機および自動精算機(回数券カードおよびICカードのチャージに対応)が設置された都市圏駅の機能を有する駅である。

当駅を含む大阪・上本町〜布施の間は多くの列車が乗り入れる過密線区であり、高頻度の運行を維持するために戦時中から大阪線の全列車は当駅を通過する措置を採っていたが、それでも同区間は架線電圧の異なる2路線(近鉄の成り立ちが合併につぐ合併の為に電圧の異なる路線が存在した)が乗り入れていた事から混雑はさほど解消されていなかった。


あの頃も奈良線の方が業績が良かったのか
冷房・方向幕付きの新装車は
奈良線により多く投入されていたよ

そこで戦後に同区間では複々線化工事が行われ、大阪線と奈良線の線路が完全に分離され、当駅の南側には高架橋が造られ大阪線上りホームが設置された。 この両路線の分離により架線電圧の違いによる問題が解消され車両の輻輳が抑えられた結果、大阪線の列車の当駅への停車が可能となったのである。 
その後、1975年に現行のホーム使用形式となり現在に至っている。


通勤電車の花形・奈良線の快速急行は
ほとんどが冷房・行先表示幕のついた
最新鋭の8600系が充てられていた

なお、当駅を通る路線は大阪線と奈良線の2路線あり、列車の運行本数や駅での利用実態は奈良線の方が上回るものの、奈良線の正式な起点駅は布施駅となっていて、線路名称上で当駅が通る路線は大阪線単独となっている。 2015年の1日平均乗車人員は5358人との事である。



先週は山に行っていたので1週間まるまる開いてしまいましたが、再開しようかと。 なお、不人気を理由にブログ閉鎖に追い込まれたとかいうのではありませんのでご安心を・・って言っても、心配する奴なんか誰もいないか。 ローソクの灯のように儚い人気のブログだしィ。 ちなみに、11月の初めも『紅葉狩り』に行くのでまた開いちゃうかも・・です。←自爆に走るこのブログ

さて、今回取り上げたこの駅であるが、記憶ではカメラを触り始めて2度目か3度目の撮影行であったと思う。 記憶をたぐると本当の“最初”に撮ったのは三島で、親戚の所有する別荘(筆者の身内はうだつが上らぬものの、親戚は皆割と裕福だった)に泊りに行った時に、三島駅で通過するブルートレインを撮った9歳の時が最初だったよ。


初めての『撮り鉄』は三島駅でのブルトレ
貴重な20系寝台客車だし
9歳が撮ったにしては秀逸!


今ではプレミアの価値の着く
EF58牽引の臨時寝台特急【あさかぜ】
この小僧の特性として
初回はいいのが撮れるが後が続かない

これが小学校低学年にしては「なかなかなデキ」(デキを吟味すると、さすがに小坊のワテがかわいそうなので吟味しないでネ)で、それに味をしめて大阪駅へ撮りに行っていた(タワケが小坊だった当時の大阪駅は、『撮り鉄』目線で見るとそれはもう華やかであった)ようである。

だが、生まれた時から家の窓からいつも眺めていた近鉄線の特急電車に憧れを抱いていたのか、華やかな大阪駅の優等列車よりも近鉄の方に目がいっていたようで、大阪駅で撮る傍ら鶴橋に向かって近鉄も撮っていたようである。


小僧が「初めての撮り鉄」をしたその年に
デビューした30000系ビスタ・カー


疾走感を魅せる為に
ワザと前面をブラしたのですね
ムリクリの自分の弁護
恥ずかしくないか?

この事から考えると、この今里駅は3度目が4度目の『撮り鉄』行って事になるね。 でも、手元に保存しているネガの『2番目に古いモノ』なんだよね~。 たぶん、無くしちゃったか破損・破棄しちゃったかのどちらかであろう。


この年ともなるとさすがに
駅撮りはできないしィ
なのでウィキペディア画像を拝借

まぁ、タワケのどうでもいい『撮り鉄』の記憶はこの辺で置いといて、今里駅での撮影の思い出を“思い出す”としようか・・。 この今里駅での『撮り鉄』写真は、10歳の小僧が撮るモノだから大したモノではなく、寧ろ公開するのが恥ずかしくなるほどのブレ写真のオンパレートだが、別の意味で「物凄い写真」でもあるのだ。


30000系ビスタ・カーとは相性が悪かった
30000系の持ち弾はほとんどブレまくり


これもブレた
でも 露出は割と合ってる

それは、現在のタワケの前身となる小僧の使っていたカメラである。 そのカメラは、今ではカメラ愛好家の中で細々と流行っている『レンジファインダー』形式のカメラで、もう壊れてしまったけど今ではカメラ収集マニアの間では10万前後の価値のつく『プレミアム』なカメラだったのである。


東京光学・Topcon35-L
壊れて使わなくなってから調べると
小僧の時に使っていたカメラは
カメラマニアがヨダレを垂らすような『名機』だった

そのカメラの名は『東京光学(Topcon)』の『35L』というもので、当時の『撮り鉄』に勤しむ小僧がよく使っていた『ジャスピン・コニカ』などのいわゆる「バカチョンカメラ」と違って、扱いが超難解なカメラだったのである。

それはピント合わせは元より、絞りシャッター速度といった諸条件を全て自己セットして撮る『フルマニュアル』カメラだったのである。 もちろん、フイルムの巻き上げも手動巻きで、しかも2回巻き上げという、現在では有り得ない設定のカメラだったのである。


ピントは元より絞りもシャッター速度も
自身で要設定のフルマニュアル
重量800gのカメラを
小坊の細腕で操ってこのデキ!
コリは奇跡の神業でない?

更に付け加えると露出の表示が一切なく、シャッタースビード・絞りといった露出の組み合わせも全て自らで決定して設定しなければならないシロモノだったのである。 だが不思議な事に、露出表示が一切ないのにASA感度(現在はISO感度)の設定(もちろん手動)があったのは、このカメラの大いなる謎である。


当時最も好みだった12400系
・・流れたよ
同時にプレッシャーに弱く
最も撮りたいモノをシクじったりするのが
このタワケの小僧の時からのクオリティ

唯一着いていたのは、合致プリセット式のピント合わせ補助機構のみであった。 あと、ストロボも装着できるようで、『X接点』の他にも『F』だったか『M』だったかの複数の接点が存在していたのである。 どうやら報道カメラマンが使う巨大ストロボの装着もできたみたいである。


この扱いの厄介なカメラを
当然の事と思っていた純粋無垢なワテ
おかげで僅か10の歳で
こんな疾走写真が撮れたよ

こんな大人でも扱いが厄介なカメラを齢一ケタの9歳から使っていたのである。 だが、無知とは恐ろしいもので、当時の小僧だったワテは、「コレがカメラの当たり前の扱い方」と思っていたのである。
まぁ、身内に誰も写真を撮る者がおらず、当時流行った『ジャスピン・コニカ』のような自動ピント合わせと巻き上げの着いた「標準家庭に1台」のカメラに触れる機会がなかった事もあるが。

そして、このカメラを使うにあたっての「写真の知識」も、小僧ながら「晴れたら絞りF8~11、曇りの時はF5.6、雨の時はF4から解放値のF2」、「動くモノはシャッタースビードを高く設定」などを把握していたし、この昔ながらの重たいカメラ(鉄製で800g近くあった)を小僧の細腕でガッチリホールドして撮っていたのである。


でも小坊の細腕では
800gのカメラはスペックオーバーだしィ
半数以上が正面ブレ

そう・・、こういった事全てを「写真を撮るなら当たり前の事」と思っていたのである。
記述はダブるが、ホント・・無知とは恐ろしいし、「一家に一台のジャスピンコニカの所有」といた世間の流れに取り残されるとこの様になる『見本』でもあったのである。 だから撮影条件を瞬時に目算する事やその知識は、ひょっとすると今のタワケより上かもしれないね。 今はクダグタだから。

まぁ、このタワケはどんな事でも小僧の時からそうだった。 それは幼稚園児の段階で百人一首のほとんどの人物(句ではないよ・・、でもその人物の歴史的な経歴は把握していた)を憶え、算数でも分数の割り算や掛け算ができたのである。 レベルとしては小学校高学年のレペルに達していたのである。 その幼稚園児や小学校低学年の段階では、同学年の奴らを「足し算引き算もできない奴ら」と見下していたのを憶えているよ。

だが、この幼児には突出したレベルは、このタワケがロクデナシとなる『引き金』ともなったのである。  それは当然の如く、幼稚園児から小学1年では突出した知識に慢心して努力を怠って、気がつけば中学に入った段階では「並から並よりやや下」まで落ち込んだ『タダの小僧』と化していたのである。
その後も、一度身に着いた「努力をしないで上手くいったらラッキー」というロクデナシ道に邁進して、救いようのない「タワケ」として現在に至るのは藪の中に。


大阪線の長距離急行は
『逆日ノ丸』に行先を表示したデザイン

まぁ、撮り鉄小僧の『駅撮り』という事で撮影の出来事としては記憶にないのであるが、昔の行先表示看板を取り付けた近鉄電車は、撮影云々を抜きにしても楽しいモノであった。 但し、鉄道に興味ある奴だけを対象にした事ではあるが。


奈良線の東生駒行の普通列車は
蒼の逆ホームペース型
近鉄の行先表示看板は
路線・種別・行先・上下方向別に
デザインが変えられていた

それは普通が『蒼』、準急が『ライトグリーン』、急行や快速急行が『赤』と色分けされ、行先毎に配色・デザインが変えられていたのである。 しかも普通電車に至っては、同じ区間を走る電車でも上下で、『青と白』が反転した今をして”唸らせる”デザインだったのである。


大阪線の上り上本町行普通列車は
菱形に「河内国分・上本町」の表示
下りの河内国分行の普通列車は
蒼と白の配色が逆になっていた

もう、小僧ながら特急より興味をそそられたのが、この『行先表示看板』のついた通勤車両である。
それでは、その魅せられる『行先表示看板』の一部をごろうじろ。


準急は『ライトグリーン』に
急行と同じ『逆日ノ丸』のデザイン
上りの準急も配色が逆転していたようだ


今はロングシートに替えられた
4扉オールクロスシートの伊勢急行
区間快速急行や快速急行は
日ノ丸の位置が上になり
種別が下の白地に赤文字で記されていた

それと、一つだけ『思い出』らしき事があったよ。 それは、10歳そこそこの小僧ならまず目に入らないコレを撮っていた事である。 今となっては近鉄の戦前車両という稀少性のある『お宝写真』に昇華したよ。


晩年は荷物車両となった
戦前の旧型車両
でも齢10やそこらのガキの
目を向ける被写体ではなかったよ

あと、掘り出せば、近鉄の古き良き時代の列車をたくさん撮っていたよ。
それでは、それも「最後のひとつまみ」。


一時期は修学旅行専用車両の
【あおぞら】に就任した
18200系の”ヒゲ”特急時の姿


昔の幅の狭い奈良線向けに
細見の成りであった18200系”ヒゲ”特急


初代エース・カーの容姿は『猪ブタ』だった
今の新エース・カーの容姿は
『トノサマバッタ』になったようですね


ちなみにその『トノサマバッタ』のアップをば
ウィキペディア画像からお借りしました






















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