風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  路線の思い出 >  路線の思い出 251~300 >  路線の思い出   第283回  宮原線・麻生釣駅 秋

路線の思い出   第283回  宮原線・麻生釣駅 秋

路線の思い出  第283回  宮原線・麻生釣駅 秋  〔大分県〕


麻生釣駅舎
山峡の秘境駅の雰囲気を欲しいままに・・

《路線データ》
        営業区間と営業キロ         輸送密度(’79) / 営業係数(’83)   
      恵良~肥後小国 26.6km          109  /   1860 
          廃止年月日                転換処置         
          ’84/12/ 1                    大分交通バス
廃止時運行本数
       豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
       豊後森~宝泉寺 下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)


麻生釣駅(あそづるえき)は、かつて大分県玖珠郡九重町大字菅原にあった国鉄宮原線の駅である。 1984年11月30日の宮原線廃止に伴い廃駅となった。 廃止時点で、単式ホーム1面1線を持つ無人駅であった。

駅跡は自然回帰が進行しており、痕跡を辿るのは困難を極める。 近くを国道387号が通り、駅より100m程の場所の路側帯の隅に駅入り口の道が残っている。




『我が青春のローカル線』・宮原線の
定宿・麻生釣での思い出おば・・

九州の『ローカル線の雄』・宮原線は、北海道の白糠線と並び『我が青春のローカル線』たる路線であった。 廃止ローカル線に身も心も虜になっていた少年時代に、吉田拓郎の唄にあった「この身を賭けても・・、全てを捨てても・・」というワンフレーズの如く、小僧の身ながらも「まじめな学生生活」という将来につながる評価や地位などをかなぐり捨ててでも追っかけた路線だったのである。


「この身を賭けても・・、全てを捨てても・・」
訪れたいと思った路線・宮原線

でも、ワテだけの特殊な結果かもしれないけれど、今は小僧の時に「この身を賭けても・・、全てを捨てても・・」でローカル線を必死に追いかけて良かったと思うし、見通しが立っている訳でも保障されている訳でもない将来に怯えて、「真面目な学生」という皆と横並びな事をしなくて正解だったと思うよ。

だって、このように生きてきたからこそ、良くも悪くも普通の人が一生で味わえない体験を数多くしてきたのだから。 そして、有り余る『お宝』も手に入ったし。 それに学歴がなくったって、そんなに不自由な事はないし・・ね。 言えば、『アリとキリギリス』という童話を例に取ると、数少ない『キリギリス』の生き方を選択しての成功例だと思う。


ローカル線の光と影
もし・・真面目な学生だったら
この『お宝』写真も撮れなかったんだな・・
と思うとゾッとする

まぁ、「成功した」なんてワテ自身の思い込みでしかない訳で、他人から見たら不真面目過ぎてダメな生き方なのかもしれないけれど、逆に「生真面目一直線」で財を成したり名声を得たりした成功例も、ワテから見たならそんなに羨ましい生き方とは思えないのである。


金メダルやノーベル賞よりも
自分だけの体験や『お宝』を得る方がずっといい

なぜそのように感じたのかというと、その成した財は墓場には持っていけないし、それを成功するには全ての楽しみを犠牲にして、その事に没頭しなければ成し得ないだろう・・と想像が着くからである。
そして、何よりワテがこういった生き様を拒否したくなる理由は、人生の全てと言っていい程のモノを費やしても結果が得れるとは限らないからである。

スポーツや研究などでよく見かけるように、寧ろ結果が出ないで挫折する方が多いのではないか?と思う。 そんな事になったなら、その為に費やした”若さ”という貴重な時間が無駄となってしまうのだ。
そして、取り返しも着かない。 そんなのより、「生きている証」となる様々な体験の方がずっと貴重だと思うしね。

アララ・・、のっけから脱線してしまったが、話を「宮原線での思い出」に戻すとしよう。
その我が『青春のローカル線』の宮原線には、高校生という旅に出られる歳になってから路線廃止となる1年半の間に5回訪れる事が叶ったのである。

でも、「旅に出られる歳」といっても、旅行資金の捻出方法はアルバイト程度という高校生の事、旅に金をかけれる訳も無く、旅行の宿泊の全てが『駅寝』だったのである。 言うなれば、こういった境遇が積み重なって、「真冬でも駅寝するようなロクデナシ」になっていったのだろうねぇ。


夏に訪問したこの時は親戚の別荘へ向かう
シンカンセン代を「セ・セ・セ・セ青春18きっぷ」に代えて
宮原線の旅費を捻出する裏技を使ったよ

・・で、廃止の11月末まで「あと1ヶ月ちょっと」となった、学校行事でいう「二学期」真っ只中の秋のド平日。 このロクデナシな小僧は、廃止となる宮原線が気になって居ても立っても居られず(勉学にも身が入らず←んな訳ないだろう)、自身の心に素直になって宮原線に会いに出かけたのである。
もちろん学校は、「拠所ない事情」で1週間の欠席である。

まぁ、金のない小僧がムリヤリこういった旅をするとなると、秋真っ只中ド平日の事もあって『セ・セ・セ・セ青春18』などのシーズン向けのフリー切符は発売されておらず、往復乗車券を片手に普通列車で行く事となるのである。


『駅寝』の利点
それは始発列車を『風景鉄道』撮りできる事

そして、宿泊場所も宿への宿泊は想定だにも挙がる事はなく、極力限られた夜行列車を使う事で宿泊費を浮かす事になる。 その「限られた列車」とは、京都から出雲市を夜行で結ぶ普通列車〔山陰〕である。
そういう訳もあって、木次線の出雲坂根のスイッチバックにも立ち寄ったしィ。

そして、目的である宮原線沿線での滞在中は『駅寝』必須となるのである。 ・・という訳で、ワテはこの麻生釣駅を『常宿』としていたのである。 その『定宿』ぶりは冬に倒壊しかけの廃屋で焚火をしたり、「鯉が泳いでるから大丈夫」と池の水でカップ麺を作って食ったり、線路を伝って撮影場所に向かったり・・と、「良い子はマネしてはいけません」な事ばかりしていたのである。


ブロック造の真に山小屋!
宮原線を訪れた際は
「我が別荘」と化していた麻生釣駅

そうして、山小屋風駅舎の麻生釣駅が「我が別荘」になりつつあった、この秋の訪問時に『事件』が起きたのである。 まぁ、『事件』というよりは、このタワケの数少ない他人を救った『善行』体験なのであるが。←コレって『善行』といえるのだろうか? それでは、この時の『事件』を書き記すとしよう。


自然に還りつつある麻生釣駅跡

宮原線の廃止が近づいてきた秋のある日、いつもの如く学習の秋たけなわのド平日に宮原線の惜別撮影旅行を敢行した時の事である。 当然の如く金がないので、4日間の行程の全てが野宿(駅寝)である。
木次線の撮影を経て、2日がかりで目的の宮原線やってくる。

翌日の撮影場所に近い麻生釣で駅寝する事を決めて、シュラフ一式(この時はテントなし)をもって駅舎へ“入城”する。 我が『別荘』と化した麻生釣駅舎へ“入城”する前に、乗ってきた最終列車を見送ってから駅舎に入る。 この「最終列車の見送り」は、この後すぐに出演する彼がドツボに叩き込まれる事につながったのである。

駅舎へ“入城”してカンテラをかざすと、中学入りたて位の少年が『My・ベット予定地』で寝息を立ているではないか。 そ~っと近づくと、この少年はおもむろに飛び起きてホームへ走り出した。
だが、最終列車はテールランプの赤い点となり、程なく暗い闇に吸い込まれていった。

しばらくして、その状況を見届けた彼が半ベソをかいて戻ってくる。 どうやら、最終列車に乗るつもりが寝過ごしてしまったみたいである。 しばらくして、この少年は恐る恐るワテに訊ね事をした。 
「あの~、列車は発車してしまいましたか?」と。 ごまかしても仕方がないので、「今、乗ってきたのが最終列車だよ。 発車を見送ってから駅舎に入ってきたから」と正直に『死刑判決』を言い渡す。

ワテのこの言葉を聞いて、少年は限りなく『全泣き』に近い顔で『肥後小国へ行く方法はないか?」と懇願してくる。 まぁ、ワテとて当時は、車の免許どころか原チャリ免許がいい所の歳(高校生)である。
懇願されたって、どうにもならんしィ。 だが、少々哀れに感じて、彼の為に少し考えてみる。
少し考えて、「もしかしたら、バスがあるかも・・」と返答してみた。

彼は少し“復活”して、「あの~、バス停はどこですか?」と訊ねてくる。 「国道に出て、300mほど宝泉寺側に行った所にあるよ」と答えると、また『半ベソ以上全泣き未満』となり、「付き添ってもらえませんか?」と懇願してくる。 仕方なしにカンテラを点けて(街灯の一つなく、外は月明かりのみ)、バス停まで付き添う。


麻生釣バス停
あの頃は待合室なんてなかったしィ
※ グーグル画像を拝借

バス停に着いて、そのバス時刻表を目にした彼の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。 
宮原線と同じく1日僅か3便で、最終は15時台であった。 予想できた事とはいえ彼にとっては最悪の結果が示され、動揺した彼は半ばすがりつくように「他に方法はありませんか?」と訊ねてくる。


宮原線を撮りに来ただけの
ロクデナシ小僧にすがりついても
対処できる訳もなく・・

すがられてもどうしようもなく、「そうだなぁ、ヒッチハイクするか、歩いていくしかないのとちゃう? でも、車通らんね」とつれない返事を返すしかなかったのである。 「もう、こうなったら今晩は、この少年の面倒をみるしかないだろう」と決めて、敢えてこのような返事を彼に返したのである。
その後すぐに、大粒の涙で瞼を腫らす彼をなだめに入る。 「今晩は駅で泊ろう。 怖ないって。
心配せんでも飯食わしたるし、寒くなくしたるから」

・・前置きが長くなったが、という訳で彼にシュラフとシュラフマットを貸して、『My・ベット』の長いすを譲ってあげて、ワテ自身は防寒着のジャージを下にはいて、ジャンバーの中にジャージを着込んで、駅の土間に新聞紙を敷いて寝るハメとなる。 結構、寒かったよ。 でも、人生で5本の指に入る慈善事業をして天晴れの心地であった。


翌朝はスッキリとした秋空だったよ
朝飯も美味かったし
秋の宮原線の『お宝』写真も撮れたし・・

翌朝、瞼を腫らす位に涙をこぼしてスッキリしたのか、それとも・・ワテの貸したシュラフが心地良かったのかグッスリと眠れたようで、ワテより早く起きて、ワテを起こしてくれたよ。 取り敢えず7:06の豊後森行が到着する前に、カップスープとカップメンやビスケットのリッツ(コレ、朝飯にはすごく重宝)で豪華なブレークファーストを取る。 この時の朝飯は、記憶に残る「美味い朝食」だったよ。

朝飯を食ってると、程なく7:06の豊後森行の時刻が近づいて来たので、ホエーブスの火を消してから「高原の朝靄をつく宮原線列車」を撮るべくスタンバイする。


朝靄をついて列車がやってきた

一方、彼は昨夜はぐっすり眠れたようだが、寝過ごして予期せぬ駅寝に追い込まれた為か、「もう宮原線は結構・・」とばかりに、ホームでこの列車に乗るべくスタンバっていたよ。


振り返ると彼は
即座に列車に乗り込んでいたよ

でも、彼はラッキーだったと思うよ。 下手すりゃ、秋の夜長を何もナシで夜明かしせねばならなかったのだから。















 







関連記事
スポンサーサイト



No title * by 鳳山
麻生釣駅、駅というより山間のお堂という感じで風情がありますね。

No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。

駅舎・・、特に無人駅では、壁などは安普請のブロック造りなのですが、この麻生釣駅は何と本物の石を積み上げた『石室』なんですよね。 その姿は、真に山の避難小屋でしたね。

九州地方は眼鏡橋の通潤橋が有名なように、石の文化が色濃い地域ですので、このような駅舎となったのかも・・と、勝手に想像しております、ハイ。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No title

麻生釣駅、駅というより山間のお堂という感じで風情がありますね。
2018-10-19 * 鳳山 [ 編集 ]

No title

鳳山さん、こんばんは。

駅舎・・、特に無人駅では、壁などは安普請のブロック造りなのですが、この麻生釣駅は何と本物の石を積み上げた『石室』なんですよね。 その姿は、真に山の避難小屋でしたね。

九州地方は眼鏡橋の通潤橋が有名なように、石の文化が色濃い地域ですので、このような駅舎となったのかも・・と、勝手に想像しております、ハイ。
2018-10-19 * 風来梨 [ 編集 ]