風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第273回  広尾線・中札内駅跡

路線の思い出  第273回  広尾線・中札内駅跡 〔北海道〕


この駅跡・鉄道公園の遊具で
遊びに興じた思い出・・
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
     営業区間と営業キロ        輸送密度 / 営業係数(’83)  
    帯広~広尾 84.0km           780  /    851       

    廃止年月日         転換処置        廃止時運行本数
    ’87/ 2/ 2           十勝バス          6往復

中札内駅(なかさつないえき)は、北海道(十勝支庁)河西郡中札内村字札内にあった国鉄・広尾線の駅である。 広尾線の廃線に伴い1987年2月2日に廃駅となった。

廃止時点で、相対式ホーム2面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と対向側ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡していた。
駅舎側ホーム(西側)が上りの1番線、対向側ホーム(東側)が下りの2番線となっていた。
対向側ホームの外側1線を側線として有し、そのほか1番線の帯広方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。

職員配置駅で、駅舎は構内の北西側(広尾方面に向かって右側)に位置し1番線ホーム中央部分に接していた。 改修されていたものの、土壁と板張りの駅舎であった。
1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は232人との事。


現在は広大な駅跡敷地を使った
『鉄道記念公園』となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

広尾線廃止後の駅跡地は、「鉄道記念公園」として整備されている。 駅舎は撤去されたものの、公園入口に蒸気機関車の動輪を使ったモニュメントや腕木式信号機、レール、アスファルト舗装されたホームが保存され、ホームに横付けされた形で有蓋車2両(うち1両は児童用に改造、塗装されている)が静態保存・展示されている。 公園の敷地は長く延びていて、線路跡を利用している事がわかる。




縁起切符を1000万枚以上
売った路線であった広尾線

この駅は鉄道在りし時には降りた記憶がない。 まぁ、ローカル線を無我夢中で追っかけていたワテにとって広尾線は、白糠線や興浜南線・北線の『偉大なるローカル線』と比較すれば遥かに”格下”だったし、この路線で有名な『縁起きっぷの駅』の《愛国》・《幸福》の存在も、当時の(ヒネくれまくった)ワテ目線からすれば、「人だかりを誘発する」という『-(マイナス)』イメージを抱いていたのである。

そういった訳で、一次廃止線が廃止となって二次線の廃止の期限が迫ってきた頃も、帯広から北に向かう士幌線の情景に絆されてそちらばかり訪ねてしまって、結局は最初の北海道旅(あの痛恨の・・、ISO感度に釣られてタングステンフイルムを使ってしまって、撮った写真が全ボツとなった大失敗旅ですね・・ お陰で『リベンジの鬼』となれたけど・・)で1往復”乗っただけ”に終わってしまった路線である。


在りし日の広尾線の思い出は
広尾までの1往復と愛国・幸福に
”とりあえず”降りただけ・・
現役時代のこの駅には降りた記憶がない・・
※ グーグル画像を拝借

だが廃止後は、ローカル鉄道の次に夢中となった日高の山々の麓の起点となる地域がこの広尾線の沿線にあったので、広尾線の廃線跡には足しげく通う事になったのである。
ヤマに入る時、そしてヤマから降りた時、また天候が思わしくなくて麓の街で沈殿した時の”ヒマつぶし”も、この広尾線の遺構めぐりや、この路線が「延伸の夢を馳せた」襟裳岬へと、広尾線が延長されたなら通ったであろう『黄金道路』を通って足を運んだモノである。


愛の国から・・


幸福へ・・

ぢ・つ・わ・・、持っているスタンプの大半は、廃止後に「愛と幸せの駅」として観光施設となった《幸福》や《愛国》駅で押したモノだったりして・・。 現役時代にワテ自身の手て購入したのは、昭和58年の印字がある『愛国~幸福』と『幸福~愛国』の乗車券だけ・・だったりして。 ちなみに『広尾駅入場券』と『新生~大樹』の乗車券は、マルゥ〜テツ(鉄オタ)である事を隠匿する強い意志をお持ちであった殿下からのお下げ渡し品だったりして・・。


広尾線は縁起切符区間の宝庫だった

このように、北海道に放浪山旅に出かけては日高の山を縦走して、山から下りてきては「ローカル線の廃止以来、鉄道から心が離れた」、「もう鉄道にはさして興味がない」と寝言をヌカしながら、未練タラタラに”ヒマ潰し”と称しては廃止路線の遺構めぐりをしていたのである。

それを繰り返していた矢先、我が登山史最大の出来事(もちろん『オチャメ』)が発生する。
この山域でワテ・・、一緒に救助された爺やんとの二人だけに『ノストラダムスの大予言』が的中してしまったのである。

その『ノストラダムスの大予言』とは、「1999年の7月末に、水難によって人類が滅亡する」との内容だったと思う(まぁ、『ノストラダムスの大予言』自体が、尾ヒレ着きまくりで迷走していたし・・ね)が、人類にとっては、この年の7月末は「タダの暑い夏」でしかなかったのである。


ワテとこの爺やん以外には
ひまわりの咲く暑い夏だった
※ 中札内村の観光ウェブサイトより

だが、ワテとこの爺やんの頭上だけに、予言通りに『水難』が降りかかる。 それは、ワテ自身2度目となる中部日高のカムエク(カムイエクウチカウシ山)の八ノ沢で、三日三晩降り続いた雨で川が増水して沢が渡れなくなり、1週間に及ぶ沢での『カンヅメ』に遭ってしまったのである。


あぁ・・ 過去のオチャメをゲロってしまったよ
この9ヶ月後に皇海山でヘリ捜索されたので
前人未到の『1年間に2度の”被”行方不明捜索』だわ・・

初日は上々の天気で、『奇跡の体力』の最盛期だった事もあって予定通りに、七ノ沢出合からカムエク・八ノ沢カールまで所要6時間半で登り着き、テントを設営してここに泊る。
・・が、夜半から大雨に晒され、暴風雨状態となったのである。


対面の十勝幌尻岳より望む
カムエクと八ノ沢カール
行きは”憧れのヤマ”に向けて
意気揚々だったが・・

テントの天井が地べたに着く程に暴風に凪ぎられて、テント内が酸欠状態となる。
要するに、テントの上部が地べたに着く程に凪ぎられる事で、通気部分が下地の密閉部分に潜り込んでしまったのだろう。 以前に《賀老ヶ滝》の千走温泉の温泉の蒸気で酸欠になったのと同じく、心臓がバクバクと高鳴り、酸欠だと気づいて急いでテントの外に首を出して息をしたのを憶えているよ。
この時にテントの下地が防水密閉構造だって事を、体験を持って理解したよ。


楽園の朝・・
八ノ沢カールの夜明け
この時は酸欠アリ~の
テントのポールへし曲りィ~の・・
という地獄絵巻だった

同じくこの日に泊った爺やんは、気がつけはいなくなっていた。 でも、この爺やん、テントじゃなくてツエルトだったからなぁ。 雨の中降りたのかも。 その翌日もテントの天井がタッチダウンする事はなかったが、雨が降り続いて八ノ沢で沈殿。


雨の中の滝を降りていくって・・
『奇跡の体力』のあったワテは
かなりの猛者だったね

その翌日に雨が小康状態になったので、八ノ沢カールより沢を下る。 《八ノ沢・1000m三俣》まで下り、八ノ沢出合に向けて下っていくが再び雨が本降りになり、沢が濁流となる。
途中でこの濁流を渡って降りていく(上にいなかったから、登頂断念して引き上げの最中だったのか?)学生と思しき一団と遭遇するが、奴らは現役で素早く着いていけなさそうなので見送る。
でも、無理やり付いていった方が良かったか・・。


日本一の清流である札内川も
濁流の渦と化していた

沢の水が入ってこない大きな中洲で、この暴風雨でポールが曲って歪んだテントを立てて、この地で雨が止むまで2泊3日のビバーク。 雨は、これより3日3晩断続的に降り続く。
この時は雨の浸水でテントの底5cmが水に浸かり、キツかったよ。 それに時計が水没してお亡くなりになって、朝の明るくなり始めと、夜の日没時しか時間が判らんかったし。

まぁ、コリは遭難ですな・・。 でも、当人は遭難した認識がない究極のタワケだったりして・・。
・・で、八ノ沢カールに登り着いた日の夜半から大方5日間降り続いた雨は止み、『ノストラダムスの予言』”週間”である7月が終わって8月に突入していた。 雨が止んだのは、『ノストラダムスの予言』”週間”が過ぎたからか?

雨が止んで、テントをたたんで八ノ沢出合まで下る。 着いた八ノ沢出合は、沢の中洲にあるテント場が沢の増水による濁流で渦を巻いていたよ。 そして、下山する為には渡渉しなければならない札内川本流は、この5日間降り続いた雨で渡るのが不可能な位に増水していたよ。


普段はこのように穏やかな流れの沢が
氾濫した川の如くになっていたよ

仕方がないので、札内川の右岸の岸で再びテントを張って減水を待つ事にする。
幸いほとんど運動してないので腹が減らず、3泊4日分の食料は2食消費しただけで、このペースの消費具合ならあと1週間位持ちそうだったのと、八ノ沢出合に着いてからは薄日が射す程に天候が回復していたのである。

もう、する事がないので、雨に濡れたシュラフや衣服、そしてカメラやレンズ、そして時計を薄日を利用しての天日干し・・。 時計はお亡くなりのままだったけど、シュラフや衣服はある程度乾いたし、カメラも戻ってから車のボンネットで強制乾燥させたら、奇跡的に動いたよ。 もしかして、このCanon F-1は、ワテと同じくいい加減な構造なのか? それとも持ち主に鍛えられて、持ち主と同じくゴキブリ並の耐久力を持つに至ったか?

・・で、2日間八ノ沢出合で寝るか天日干しを繰り返していると、山に入って7日目・・、「夕方になったな・・」と認識した頃にバリバリバリとヘリの音が・・。 ちなみにその時、ワテ・・乾いたシュラフでお昼寝中でした・・、ハイ。 だから、救護隊員の「大丈夫ですか?」、「身体は大丈夫ですか?」、「意識はありますか?」という問いに、アクビで応えるナメたマネをしてしまったよ。

で、自衛隊のレスキュー部隊がキチンとテントを撤収してくれるなどの大サービスを受けて、頭上でホバーリングするヘリへの搭乗を促されるが、このタワケは「待った!」をかける。
それはありきたりではあるが、この状況では究極の問いかけとも言える「コレ・・無料?」という、ゲスさ極まる質問だ。


遭難も大いにあり得る山域に入るには
「厚顔無恥」と陰口を叩かれる
コレ位の度胸が必要・・なのかも

だが、この状況に陥ってもコレを聞けるのだから、ある意味大したモノである。
日頃から”ロクデナシ”を自認しているワテだが、この状況でコレを聞けるのは『ロクデナシ道・免許皆伝』の“king of ロクデナシ”だからであろう。

そして、タワケの「待った!」はまだ続くのである。 それは、「天日干し中のカメラ一式の回収をせねばならん・・」と。 どこまでもノーテンキで顰蹙モノのタワケであった。 でも、沢が減水したら自力で降りるつもりだったし、あと2日もすれば沢の水も退いてそれは可能だと思ってたしィ。

・・自衛隊のレスキュー隊員の兄さんは、この遭難沙汰を全く把握していないタワケの要望を聞いて、天日干ししていたカメラを丁寧にアルミの用具箱に回収して、ヘリから垂らしたハシゴでタワケを搭乗させる。 搭乗したら・・アラ、まっ! 八ノ沢カールでツエルトを立てていた爺やんも搭乗してるでないの! そして、「もう夕方近くだ・・」と思っていた時間は、まだ昼前の11時過ぎだったのである。

どうやら、このヘリの出動はこの爺さんの家族の要請で捜索していたようである。
この爺やんはツエルトではあの雨に耐える事ができないと、岩陰に隠れてツエルトを被って耐え忍んでいたとの事だが、この爺やんの方はアト数日遅れるとヤバめだったかも・・。

で・・、ヘリは日高・カムエク山域の登山基点となっている、ピョウタンの滝・札内川園地にある《日高山脈山岳センター》の駐車場に着陸する。 ヘリから下りる時、新聞屋が浴びせるフラッシュが眩しかったよ。

この《日高山脈山岳センター》で調書を取られた後に開放となるが、ヘリが着陸したのと報道陣のフラッシュを目にして「何事か!?」と、観光客(この山岳センターは、宿泊施設もレストランも温泉施設も完備)がこちらに野次馬するべく近寄ってくる。

この野次馬の群れにさすがにバツが悪くなっのとウザさを感じて、荷物をまとめて七ノ沢出合に止めた車を回収しにゆく。 事情聴取の場でレスキューの自衛隊員に聞いた話では、「一応、この林道は通行止だが、被害箇所はナシ」との事なので、「もし、車が通れなくても、食糧備蓄(放浪旅ゆえに車内に食糧20食分位備蓄していた)しているから、今日は車で泊ろう」と決めて七ノ沢出合へ歩いていく。


車の回収へ・・
この時の車はハッチバックのパルサーGTI
ちなみにコレは旧札内ヒュッテでっす


建て替えられた新札内ヒュッテ
抜群の設備の綺麗な小屋だが
雰囲気は旧小屋の勝ち!
※ 日高山脈山岳センターのウェブサイトより

すると、レスキューの別動隊の車が通りかかって、「車を回収するなら七ノ沢まで送ってあげるから、乗りなさい」との御厚意を受けて乗せてもらう。 どうやら、このレスキューの別動隊は、ワテともう一台の車の移動が目的だったようである(もう一台の車は、後ほど青空荷台のトラックで運びだしたようだ)。

七ノ沢出合までの道中は道の破損個所がないか・・をチェックしながら通り、車内では「車の通行が可能なら先導するから着いてきて」と、更なる御厚意を受ける。 ・・で、道路の損壊被害は全くなく、レスキュー隊の誘導を受けて、この日の内に『遭難』という事態からの脱出が成ったのである。

アララ・・、鉄道駅の思い出を語る記事なのに、ワテの最大の『オチャメ』を語る記事になっちまったよ。 ・・で、無事に『遭難』という事態からの脱出が成し得ると、今まで止まっていた時間が急に動くようになった。

もう、午後4時過ぎとなっていた。 「(遭難に遭って一週間ぶりの・・)フロに入らなきゃ・・ そして、夕飯食わなきゃ・・」という、一週間ぶりの”時間に沿った生活行動”がしたくなってきたのである。
でも、温泉完備とはいえ《日高山脈山岳センター》に風呂に入りに行くのは、”時の人”として蜂の巣を突いた騒ぎとなり得る「ミイラ取りがミイラ」そのままなのである。

そこで考える。 その考えついた答えが、『中札内の街にある銭湯』だった。
だが、中札内村の中心に出て国道に並んで建つ市街地を1往復したものの、銭湯は見当たらない。
なぜなら、人口の少ない村ゆえに国道沿いにほとんどの商店が並ぶ市街地を形成していて、集落が途切れた時点で発見できなければ”無”と判断できるのである。

今は『道の駅・中札内』があり、中札内から5kmほど先の隣村である更別村には《ナウマン温泉》というクアハウスができているが、この頃はまだ温泉施設は充実しておらず、「今日はフロは仕方ないか・・」と諦め半分でコンビニで銭湯の場所を尋ねてみる。

すると、コンビニの店員さんから、「中札内駅跡前にある公民館に風呂があるよ」との天の声が・・。
・・で、早速駅のあった所に行ってみると、風呂あったよ。 家庭の浴槽の倍くらいの『普通の風呂』だったけど。 まぁ、何故に公民館で風呂が沸かされていたかは分からないが、とにかく人生でも指折りのいい風呂だった。


入浴後の一週間ぶりの夕食は
このテーブルで頂きました
※ 中札内村の観光ウェブサイトより

気持ちいいひと風呂を浴びて、いい気分で駅跡の鉄道公園で久々に鉄道車両を使った遊具で遊びに興じたよ。 30男が公園の遊具で遊びに興じるなど「いい歳して恥ずかしい」と思われるだろうが、この日のこの時だけは無性に遊具遊びに興じたくなったのである。


遊具の下を潜ったり・・
その上に仁王立ちしてみたり・・
歳の事など忘れてとにかく遊びたかった
※ 中札内村の観光ウェブサイトより













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No title * by たけし
愛国から幸福行きの切符、アタシも持ってます。

千葉市には愛生町、房総には長者町とかあってアベックには人気があるそうな・・・
アタシには愛とか恋とか面倒くさいものは無縁です。
ってか、スケベな私は女体が・・・・

No title * by 風来梨
たけしさん、こんばんは。

この切符は売れに売れたみたいですけど、鉄道の売り上げ上昇と存続にはつながりませんでしたね。 今でも、愛国・幸福の駅跡ではグッズ付きで縁起切符を販売してますね。

私もこのオチャメな内容を示す記事の如くこの地に通うようになったのは、鉄道が廃止になった後の日高登山を目指す『奇跡の体力』の最盛期でしたね。

No title * by 鳳山
本当に縁起の良さそうな駅名ですね。廃線になったのが惜しい。

ナイス

No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。

日本の鉄道縁起切符で最も売り上げたのが、この『愛の国(愛国)から幸福へ』の乗車券ですね。 1000万枚売ったの事ですから、大まかに数えても5世帯に1枚は飼った経験があるって事ですね。

でも、買いにくる者はほぼ全てマイカーかレンタカーか観光バスで、キップ代以外に鉄道にお金が落ちませんでした。 それで廃止になっちゃったんですね。

コメント






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No title

愛国から幸福行きの切符、アタシも持ってます。

千葉市には愛生町、房総には長者町とかあってアベックには人気があるそうな・・・
アタシには愛とか恋とか面倒くさいものは無縁です。
ってか、スケベな私は女体が・・・・
2018-08-03 * たけし [ 編集 ]

No title

たけしさん、こんばんは。

この切符は売れに売れたみたいですけど、鉄道の売り上げ上昇と存続にはつながりませんでしたね。 今でも、愛国・幸福の駅跡ではグッズ付きで縁起切符を販売してますね。

私もこのオチャメな内容を示す記事の如くこの地に通うようになったのは、鉄道が廃止になった後の日高登山を目指す『奇跡の体力』の最盛期でしたね。
2018-08-03 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

本当に縁起の良さそうな駅名ですね。廃線になったのが惜しい。

ナイス
2018-08-03 * 鳳山 [ 編集 ]

No title

鳳山さん、こんばんは。

日本の鉄道縁起切符で最も売り上げたのが、この『愛の国(愛国)から幸福へ』の乗車券ですね。 1000万枚売ったの事ですから、大まかに数えても5世帯に1枚は飼った経験があるって事ですね。

でも、買いにくる者はほぼ全てマイカーかレンタカーか観光バスで、キップ代以外に鉄道にお金が落ちませんでした。 それで廃止になっちゃったんですね。
2018-08-03 * 風来梨 [ 編集 ]