2018-07-08 (Sun)✎
路線の思い出 第269回 富内線・富内駅跡、振内駅跡 〔北海道〕
往時のまま保存され
国の文化財に指定された旧富内駅駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83) 廃止年月日 転換処置
鵡川~日高町 82.5km 280 / 2021 ’86/11/ 1 道南バス
廃止時運行本数
鵡川~日高町 4往復 鵡川~富内、1往復 鵡川~振内 1往復
富内駅の駅名標
※ ウィキペディア画像を拝借
富内駅(とみうちえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡穂別町字富内(現・むかわ町)にあった国鉄・富内線の駅である。 富内線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は29人との事である。 当駅を発着駅とする区間列車が1往復設定されていた。
駅名の由来は当駅の所在する地名からで、旧駅名の辺富内(へとない)は、アイヌ語の「ケト・ウン・ナイ」(毛皮の干し枠のある川)、或いは「ペトムナイ」(股になった川)など、由来には諸説ある。
その『辺富内』から『辺』を除き、読み方を変えて「とみうち」になった。
廃止時点で単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡していた。
駅舎側単式ホームが上りの1番線、島式ホーム駅舎側が下りの2番線、同外側が上下共用の当駅折り返し列車用(番線表示なし)となっていた。 その他、1番線の鵡川方から駅舎側に分岐して、駅舎西側のホーム切欠き部分の貨物ホームへ至る貨物側線を1線有していた。
その側線の一つが
このようになったみたい・・
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
運行最終日まで運転取扱い要員が配置されるのみの無人駅扱いの駅であったが、乗車券類は簡易委託化されており、廃止時まで販売が行われていた。 駅舎は構内の南側に位置しホーム中央部分に接していた。
1958年の振内への延伸開業まで富内線の終着駅であったが転車台はなく、鵡川方面から混合列車を牽引してきた蒸気機関車は、富内駅で機回しの上、荷物を積載した貨車、客車を連結してバック運転(逆機)で戻っていった。 富川駅で扱っていた貨物は、周辺から産出されるクロム鉱石、木材、薪炭などで、構内には貨物の積み下ろしを行っていた日本通運の施設や業者の倉庫などが多数存在していた。
往時のままを再現した駅舎内部
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
廃駅となった現在は駅舎・側線を含むレールとホーム・木式信号機が保存され、『富内銀河ステーション』と名付けられた鉄道公園となっていて、駅舎・プラットホーム・線路など駅全体が国の登録有形文化財に登録されている。
ホームに横付けする形で国鉄時代の旧型客車2両が静態保存・展示されている。 客車内は富内線の写真パネル展示場として利用されている他、カーペットを敷き詰めて宿泊可能なライダーハウスとなっている。
ライダーハウスとして第二の役務に就く
旧国鉄時代に活躍した旧型客車
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
移設保存された駅名標
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
駅舎内は窓口や手小荷物窓口が現役当時の状態に修復され、旧駅事務室内に当時使用していた備品などが保存・展示されている。 またホームには、当駅の他に栄駅・豊田駅・穂別駅の駅名標が移設保存されている。
『銀河鉄道999』のノリだな
松本零士はあまり好きくないので
マンガやアニメは見てないけど・・
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
これらは当時の穂別村長による宮沢賢治構想の実現を目指した「ほべつ銀河鉄道運動」によるもので、構内には銀河鉄道をイメージしたレールが空に向かっているオブジェが展示されている。 これは宇宙飛行士の毛利衛のアイデアから、側線を改造してできたモノである。
在りし日の振内駅
※ グーグル画像を拝借
振内駅(ふれないえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町振内に設置されていた国鉄・富内線の駅である。 富内線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度(昭和56年度)の1日当たりの乗降客数は106人との事。 当駅を発着駅とする区間列車が1往復設定されていた。 駅名の由来は当駅の所在する地名からで、その地名はアイヌ語の「フレ・ナイ」(赤い川)に由来する。
廃止時点で、1面2線の島式ホームを有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 駅舎側が上り線、外側が下り線となっていた。 その他、上下本線それぞれの外側に安全側線を持った側線を各1線ずつ有し、上り線側の側線の駅舎傍には貨物用の短い単式ホームがあった。 職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置してホーム東側とを結ぶ構内踏切で連絡していた。
旧駅構内は1986年11月から、平取町によって「振内鉄道記念館」として整備されている。
駅舎は撤去されたが新たにバスの待合所兼用の建物が建築され、館内1階にC58形蒸気機関車の動輪や、当時使用していた閉塞器、備品、保線用具、駅スタンプ、写真パネルなどが保存・展示されている。
コチラの旧型客車も
ライダーハウスという第二の役務に就いていた
※ 振内鉄道公園のウエブサイトより
館外には当時の状態のままに側線を含むレールとホーム・腕木式信号機が保存され、旧上り線上には樺太から戻された国鉄D51形蒸気機関車が静態保存・展示されている。 また、旧下り線ホームに横付けする形で国鉄の旧型客車2両も静態保存・展示されている。 客車はライダーハウスとして利用されており、内装は宿泊施設用に変更されている。 ホームには当駅の他、幌毛志駅、仁世宇駅、岩知志駅の平取町内にあった駅の駅名標が移設保存されている。
この富内線は、鉄道が在りし時は日高町まで往復しただけで、ロクに写真も撮らずに廃止となってしまったのである。 それもこの路線を訪れたのは、ワテが『リベンジの鬼』となるキッカケとなった痛恨の「フイルム間違い」(ASA感度に釣られて室内用タングステンフイルムを使ってしまって全ボツ)をしでかした北海道へのファーストコンタクトの旅(言ってて恥ずかしくないか?)・・、『初めての夏の北海道ローカル線撮影旅行』での事である。
富内線関連で撮れたのは
サブカメラのペンタクッスで撮ったこの1枚のみ
まぁ、在りし日の富内線は富内、振内までは日に6往復あったが、富内線の写真を撮りたいと思った振内~日高町の区間は僅か4往復で、これは当時の『乗り鉄&撮り鉄』の小僧たる身の上では撮りようがない位に少ない便数だったしィ。
富内までは6往復遭ったけれど・・
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
それで白糠線や興浜南北線などの一次廃止路線の追っかけを優先して、二次廃止線である富内線は後回しにしたんだよね~。 そしたら予想より早く1986年の11月に廃止になってしまって、結局撮れず終いになってしまったのである。
“モノ”ならあるが写真は一枚しかない
そう・・、富内線が廃止となった1986年はワテの受験(ロクに受験勉強をしなかったが・・)の年で、この年の春は行くに行けなかったしィ。 でも、これまでの様に「受験なんぞ放っぽって北海道に出向いていれば良かった」と、今になって後悔する事しきりである。
ワテが生きてきた半生の中では、受験勉強という経験は生きる上ではクソの役にも立たなかったのだから尚更である。 まぁ、真剣に勉強などしなかったので、当然の結果だったし・・ね。 「同世代の皆と同じ事(受験勉強)をせねばならぬ」と変な体裁を繕った為に、お宝写真や貴重な思い出・体験を手に入れ損ねたのだから・・。
『我が一人のパラダイス』
山上の楽園・七ッ沼カール
:
この情景に虜になったのが
再びこの路線跡を訪れた理由だった
でも、その富内線が廃止になって10年後に、この地域に毎年の如く訪れるようになったのである。
それは目指すターゲットが鉄道からヤマへと変わって、この地域にそびえる日高山脈の峰々の虜となったからである。 そして、その日高山脈の最高峰で盟主たる峰・幌尻岳の登山口へと向かう林道が、この振内に所在したからである。
真に楽園・・
コレを見たくて・・この地に訪れたくて
放浪山旅生活に陥ったよ
それで日高の山に登るべく毎年この地域に訪れる事になったのだが、日高の山は沢の渡渉を強いられる難度のキツい山が多く、この幌尻岳も最初に5kmの林道歩きと4kmの沢遡行を強いられるのである。
幌尻岳の登山基地・幌尻山荘
:
この山荘に行くには
5kmの林道歩きと4kmの沢遡行か必要だ
こういう事から日高の山に登る前後は、渡渉や幕営装備を担ぐ厳しい山行に向けての下準備が必要となるのである。 最低でも食糧の買い出しと、渡渉でヤラれる足へのプロテクト(絆創膏や包帯など)の購入が必要となってくるのだ。 まぁ、足のプロテクトに関してはこんな過疎地域にそんな便利なモノは売っているハズも無く、事前に苫小牧などの大きな街で買っておく必要があるが、食糧に関しては現地購入が基本となるのである。
咲き競うチングルマ
行きに関しては登山口となる林道のゲートまで振内から32kmもある事から、獣が徘徊する真っ暗闇の林道ゲート前で車寝(但し、常人なら精神が圧迫されるような暗闇ですよ・・)をして翌朝に夜明けと共に出発するのが有利であるが、下山時はハード山行で疲れているだろうし、また風呂にも入りたいので、その日は国道の通る富内線の沿線で泊る事になるのだ。
山の上ではこういう所に
テントを張って泊りました
それでヤマから下りてきた後に、その日は「泊まれて」・「飯が食えて」、「風呂に入れる」所を見つける必要ができるのである。 ・・で、クローズアップされるのが、振内駅跡と富内駅跡の『鉄道公園』に展示されている客車の『ライダーハウス』なのである。
豊かな自然環境にマッチする
国鉄時代の旧型客車
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
それで、どちらを利用するか比較するべく、天候のスッキリしない日に1日山行を順延して(放浪旅だから時間は腐る程にあるのデス)、その日を使って車で振内駅跡と富内駅跡の『交通公園』を索敵・偵察して周ったのである。
その比較検討の項目は、第一に「車を止めるスペースがあるか?」という事である。 なぜコレを比較の最重要項目据えたかというと、最悪『ライダーハウス』が使えなくても、車さえ駐車できれば『車寝』に逃げれるからである。 その次に近くにコンビニがあるかどうか・・である。 それに続くは大衆食堂やクアハウスの有無で、ホカ弁やコインランドリーがあれば重宝なのである。
振内の旧型客車の中
管理者は町役場なので綺麗だったよ
なお、利用料金やライダーハウスの内部(客車内部)は、著しく差がなければ比較条件とはならないと考えたのである。 まぁ、簡易宿泊施設として町に存在するなら、ある程度は衛生環境に気を使っているハズだし、簡易宿泊施設で千円以上なんて見た事も聞いた事もないからである。
富内の旧型客車の中
まずまず綺麗に清掃されているが
比較すると振内に分があるかな
その条件を比較してみると、「車を止めるスペース」に関しては、どちらも広い駐車スペースがあって双方『○』であった。 次の『コンビニの有無』であるが、振内は平取町の第二の集落で小さな市街地を形成しているので、数件の飲食店とコンビニがあって『○』なのに対して、富内の方は往時も小さな一集落の駅に過ぎず、最寄りのコンビニは旧穂別町(現在は合併してむかわ町)の中心部である穂別まで8km離れていて、判定は『×』であった。
まぁ、『重宝』と記したホカ弁やコインランドリーはどちらもなかったけど。 そもそも、こんな人口稀薄な山間の町で、ホカ弁やコインランドリーがある事を期待する方が間違っているしィ。 また大衆食堂も、市街地を形成している振内では確認できたが、小さな一集落でしかない富内には大衆食堂どころか店屋自体無かったのである。
ここまで比較検討を進めた中では富内に分が悪くなったが、ワテの判定は富内となったのである。
それは最後に連発で『どんでん返し』が炸裂したからである。 その一つは、富内駅跡のすぐ裏側に『富内生きがいセンター・富久寿荘』というクアハウスがあり、下山の後に待望の風呂に入れるからである。
なお、振内はコインシャワーだけだったりして。
『どんでん返し』のその2は、『ライダーハウス』宿泊申し込み場所、つまり『鉄道公園』施設の管理先が振内の現地から1km程離れた平取町の振内支所であるのに対して、富内は駅のすぐ裏手の商店が鍵の預り先で、すぐに利用できるからである。
この教会仕様で廃線跡の鉄道記念公園と
言われたってピンと来ないなぁ
※ ウィキペディア画像を拝借
それに加えて、振内駅跡が場違いな教会仕様の建物に建て替えられているのに対し、富内駅跡は国の文化財に登録された現存駅舎で、雰囲気が段違いだったからである。 ワテの判定は、この雰囲気の違いが先に挙げた比較の重要要件を凌駕したって事ですな。 あと利用料金は、富内が500円と100円安かったしィ。
やっぱり鉄道好きは
鉄道の面影が濃い方を選ぶよな
※ 富内駅保存会のウェブサイトより
・・で、この後の日高登山におけるワテの下山後の行動指針は、「山から下りたなら振内の大衆食堂でメシ食って、コンビニで買い出ししてから、富内に向かって富久寿荘で風呂に入って、富内駅跡の『ライダーハウス』で身体を癒す」という事となったよ。
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