2011-05-30 (Mon)✎
私の訪ねた路線 第27回 鍛冶屋線 〔兵庫県〕
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
野村~鍛冶屋 13.2km 1382 / 1219
廃止年月日 転換処置
’90/ 4/ 1 神姫バス
廃止時運行本数
野村~鍛冶屋 13往復
西脇~鍛冶屋 1往復
野村~西脇 下り12本・上り11本
西脇~鍛冶屋 1往復
野村~西脇 下り12本・上り11本
《路線史》
地元の有志が設立した軽便規格による民間鉄道(播州鉄道)が前身。 この播州鉄道は現在の加古川線を建設する形で延伸を続け、1913年に厄神(当時は国包)~西脇を開業させる。 その先の建設は停滞気味であったが、1921年に地域の大地主が『我田引鉄』の如く自らの地盤である市原までを開業させる。
これに慌てた鍛冶屋地区などの住民も鉄道用地や建設資金の拠出に乗り出し、1923年に鍛冶屋までの既存区間が全通する。
この先は杉や檜など森林資源の輸送に供するべく、多可郡加美町(現在の多可町加美区)までの延伸計画もあったが、第一次大戦後の不況による経営の悪化で断念となっている。 なお、播州鉄道は鍛冶屋線が全通した年の暮れに播但鉄道に経営譲渡され、翌年には加古川線の残存区間の野村~谷川を開通させている。 これによって鍛冶屋線区間は、加古川線自身としての本線の地位から支線扱いへと降格している。
戦前は貨客共に順調で、森林資源の輸送や鍛冶屋の地場産業である『播州織』の原糸輸送、酒造米である『山田錦』の輸送などを手掛ける事となる。 また、西脇市の市街地中心部を通る事から旅客需要も大きく、最盛期には30分ヘッドの運行もあったという。
第二次大戦中に他の特定地方交通線の多くが『不要不急線』としてレールを剥がされる中で、戦時買収(1943年)によって国鉄・鍛冶屋線となる所が、この路線の戦時中における重要度を端的に示している。
だが、昭和40年頃から押し寄せるモータリゼーションの波と、地場産業の変化や輸送体系の陸送(トラック輸送)切換えによって貨客共に輸送量が落ち込み始める。 昭和50年代に入ると更に輸送業績は落ち込み、1980年の『国鉄再建法』では、一時的にせよ先立って廃止バス転換を迫られる『第一次特定地方交通線』に指定されてしまう(その後、西脇市の住宅開発計画による利用増が見込まれ、昭和60年度廃止予定の第三次対象線に緩和)。
これに対する路線存続運動としては、1984年にミニ独立国“カナソハイニノ国”(国名は鍛冶屋線内に所在する駅名の頭文字を鍛冶屋側から並べたもの)の建国を宣言し、様々な利用促進イベントを実施して注目を集めたものの、廃止承認を回避するまでには至らなかった。
先述に述べたように1986年に第三次廃止路線として指定され、第3セクター化や区間単独で廃止基準どころか地方交通線基準(4000人/キロ)をも上回る西脇~野村のみの存続などが検討されたが、第3セクター路線として先行開業した北条鉄道・三木鉄道の経営状況が芳しくなかった事からバス転換が選択され、1988年末に全線廃止が決定する。
そして、1年数ヵ月後の1990年3月末をもって、決議通りに全線廃止と神姫バスへのバス転換となった。
この先は杉や檜など森林資源の輸送に供するべく、多可郡加美町(現在の多可町加美区)までの延伸計画もあったが、第一次大戦後の不況による経営の悪化で断念となっている。 なお、播州鉄道は鍛冶屋線が全通した年の暮れに播但鉄道に経営譲渡され、翌年には加古川線の残存区間の野村~谷川を開通させている。 これによって鍛冶屋線区間は、加古川線自身としての本線の地位から支線扱いへと降格している。
戦前は貨客共に順調で、森林資源の輸送や鍛冶屋の地場産業である『播州織』の原糸輸送、酒造米である『山田錦』の輸送などを手掛ける事となる。 また、西脇市の市街地中心部を通る事から旅客需要も大きく、最盛期には30分ヘッドの運行もあったという。
第二次大戦中に他の特定地方交通線の多くが『不要不急線』としてレールを剥がされる中で、戦時買収(1943年)によって国鉄・鍛冶屋線となる所が、この路線の戦時中における重要度を端的に示している。
だが、昭和40年頃から押し寄せるモータリゼーションの波と、地場産業の変化や輸送体系の陸送(トラック輸送)切換えによって貨客共に輸送量が落ち込み始める。 昭和50年代に入ると更に輸送業績は落ち込み、1980年の『国鉄再建法』では、一時的にせよ先立って廃止バス転換を迫られる『第一次特定地方交通線』に指定されてしまう(その後、西脇市の住宅開発計画による利用増が見込まれ、昭和60年度廃止予定の第三次対象線に緩和)。
これに対する路線存続運動としては、1984年にミニ独立国“カナソハイニノ国”(国名は鍛冶屋線内に所在する駅名の頭文字を鍛冶屋側から並べたもの)の建国を宣言し、様々な利用促進イベントを実施して注目を集めたものの、廃止承認を回避するまでには至らなかった。
先述に述べたように1986年に第三次廃止路線として指定され、第3セクター化や区間単独で廃止基準どころか地方交通線基準(4000人/キロ)をも上回る西脇~野村のみの存続などが検討されたが、第3セクター路線として先行開業した北条鉄道・三木鉄道の経営状況が芳しくなかった事からバス転換が選択され、1988年末に全線廃止が決定する。
そして、1年数ヵ月後の1990年3月末をもって、決議通りに全線廃止と神姫バスへのバス転換となった。
なお、路線中の西脇駅が廃止となったのを受けて、加古川線の野村駅が西脇市駅と改称されている。
《乗車記》
鍛冶屋線の在りし時は西脇市の街外れで、田舎の駅そのままの野村が鍛冶屋線の始発駅だ。
今は駅舎もリニューアルされて西脇市の代表駅となっているとの事だが、やはり野村から鍛冶屋線に乗っての次の駅・西脇が市街地の中心で、利用客の数もそれに相応しかったようである。
そして、野村~西脇の1区間を行き交う区間列車の設定も、全運行列車の約半分を占めていたのである。
駅舎も中核都市の中心駅らしく、コンクリート造りの長い平屋建の町の駅らしい様相であった。
さて、この西脇を出ると、途端に片田舎の長閑なローカル線となる。 似ているといえば、五能線の東能代~能代のそれと似ているだろう。 五能線も能代を出れば、1日数本の超閑散線区となるのだから。
次の市原は、蔵のように屋根の高い立派な駅舎を持つ木造駅。 途中駅でこの立派な門構えは、この路線の創業期には一時終着駅になっていた事からだろうか? 周囲は裕福そうな農家の戸建と、その田園が広がる典型的なローカル線の眺めだ。
次の羽安は、当時のローカル駅舎の定番のような造りの駅舎であった。 木の壁にオロナミンCやボンカレーなどのあのチラシが張ってあるのを目にしたなら、たちまちタイムトラベルしたような心地となろう。
次の曽我井は後の開業駅で、駅舎もなく始めから無人駅を想定した駅。 次の中村町は、当時の行政町であった多可郡中町(現 多可町)の中心駅。 駅舎も町の中心で、町の名産である酒造米の蔵を模った立派な駅舎が印象的だった。
中村町を出ると、ほどなく終点・鍛冶屋に着く。 駅は中町の街外れで、いつも閑散としていた。
また、この奥にある加美町(現在は中町と共に合併されて多可町となっている)は杉やなどの森林資源の宝庫で、木材の集積場があちらこちらにあったのが印象的だった。
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