風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第251回  深名線・朱鞠内駅

路線の思い出   第251回  深名線・朱鞠内駅  〔北海道〕


在りし日の朱鞠内駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借

《路線データ》
       営業区間と営業キロ        輸送密度(’79) / 営業係数(’83) 
     深川~名寄 121.8km            168  /   3157

         廃止年月日                転換処置
                      ’95/ 9/ 4                   名士バス
 
廃止時運行本数
       深川~名寄  1往復(車両は直通・列車番号は朱鞠内で変わる)
       深川~朱鞠内 下り3本・上り2本
       深川~幌加内 下り1本・上り2本
       朱鞠内~名寄 2往復
 




朱鞠内駅スタンプ

朱鞠内駅(しゅまりないえき)は、北海道雨竜郡幌加内町字朱鞠内にあったJR北海道・深名線の駅である。 深名線の廃線に伴い、1995年9月4日に廃駅となった。 名羽線が開業すれば、当駅は名羽線と深名線とをスイッチバックで接続する乗換駅になる予定だった。


運転系統分断上での乗り継ぎ駅だったが
末期はほとんど乗り継ぎ不能なダイヤだった
※ ウィキペディア画像を拝借

廃止時点で、相対式ホーム2面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 駅舎側ホーム中央部分と対向側ホーム南側を結んだ構内踏切が設置されていた。 駅舎側ホームと対向側ホームは、上下線共用となっていた。 対向側ホームの外側1線が側線となっており、その他にも駅舎側本線の名寄方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。

国鉄時代は構内外側にさらに3線の側線を有し、最も外側の側線からは名寄方に分岐して転車台を有し、その先で更に3線に分岐し車庫に至る行き止まりの側線を有していたが、1993年までに上記の側線2本以外は撤去された。


末期は利用客一ケタでも
駅員は配置されて乗車券類も売られていた

職員配置駅で、駅舎は構内の西側に位置しホーム中央部分に接していた。 駅舎は1964年の大火の後に建て替えられた耐火ブロック造の平屋の建物であった。 ちなみに、焼失した旧駅舎は一部二階建ての木造で、面積は旧駅舎の方が1.5倍程広かったようである。 1981年度の1日乗降客数は48人、1992年度の1日乗降客数は8人との事。

当駅ができる以前は湖畔駅近くの三股が朱鞠内の中心市街であったが、当駅がかなり離れた位置に設置された為に、駅の建設と共に多くが三股から移転して新市街が形成された。 また、駅構内の南北両端に接する敷地にはそれぞれ木工所が開設されて、特に北側の三津橋木工所は専用線が廃止された後も長く操業を続けていた。 駅前広場には「歓迎 道立朱鞠内湖公園」と記載された鉄製のアーチが設置されていた。


北海道最大のダム湖・朱鞠内湖への玄関口だが
列車に乗って訪れた者はほとんどいないだろう

北海道内最大の人造湖である朱鞠内湖を擁す雨竜第一・第二ダム建設の際には、当線の延伸工事も重なった為に当駅は大変に活況を呈し、水没地域の伐採林材や建設資材の運搬のために臨時貨物列車が頻繁に増発された。 


巨大人造湖を堰き止める
正式名称・雨竜第一土堰堤の朱鞠内ダム

ダム建設完了とともに1949年には宇津内駅(ダム資材搬入のために設置された駅で最盛期は6人の駅職員がいたとの事、ダム建設完成後に仮乗降場に格下げられた後に1956年頃廃止された)での林材貨物積込も無くなって潮が引くように貨物便数も減り、翌1950年には機関支区が廃止となった。

以前は当駅で夜間滞泊の設定がされていたが、廃止直前には夜間滞泊設定は解除されて、深川駅まで戻って旭川運転所まで回送していた。




バスの待合所となった朱鞠内駅跡地
※ ウィキペディア画像を拝借

お題では朱鞠内駅を挙げたが、どちらかというと次の共栄の方が深名線の撮影場所に近かったりするのである。 また、朱鞠内ダムにも歩いて行った事あるので、駅の思い出としては朱鞠内より両隣りの共栄と湖畔の2つの仮乗降場の方が明確にあったりして。

まぁ、お題の朱鞠内駅の現役時代での「駅の思い出」は、1日3往復で運転系統が朱鞠内で分断された深名線の”路線の都合”により乗り換えただけ・・なのである。 その深名線であるが、朱鞠内での運転系統の分断を受けての『両区間の接続』であるが、「全く考慮されていない」に等しい状況だったのである。




3往復になってからの深名線時刻表
これでは朱鞠内での『撮り鉄』はムリ
※ グーグル画像を拝借

その深名線の時刻表を掲げたが、見ての通り下りの始発と上りの17時台の1往復のみが車両運用の都合で列車番号が変わるだけで直通運行される以外に列車の『接続』はないのである。

この運行系統が完全に分断された3往復時代は、さすがに深名線の撮影場所を朱鞠内にするのは困難で、より深名線のイメージの濃い名寄~朱鞠内の区間を撮るべく、名寄から入っての北母子里を拠点にして”伝説の駅”《白樺》まで出張って(もちろん歩いて)撮っていたな。

それにこの頃は若くて、『撮り鉄』に対して『大陸情熱バカ』たる”ネットリとした”熱(苦し)いモノで溢れ返っていたしィ。 その熱(苦し)い情熱を原動力にしたパワーで、「3往復を撮る為に《白樺》の方へ3km以上歩き、雪の小吹雪の中で3時間待つ」という『3フィーバー』を実現させた若き日のタワケであった。


『3フィーバー』の苦難を経て
深名線に抱くイメージ通りの写真が撮れたよ

お題の朱鞠内駅から反れてしまったが、元に戻すとしよう。 ワテが深名線の撮影に訪れたのは国鉄時代の末期からJRへの移管前後の時期で、この時は本線格の深川~朱鞠内で5往復、支線格の朱鞠内~名寄でも4往復あり、接続も下りで2便、上りで3便で確保されており、通して乗る『乗り鉄』は元より、今は無き夜行の急行【利尻】を滝川で降り立ち深川まで戻して、深名線の朝の始発に乗って朱鞠内に至っても、2往復位の深名線列車を『撮り鉄』して名寄に抜ける事ができたのである。


4往復時代の深名線時刻表
これだけ便数があると”ライド&ゴー”も可能だ
※ グーグル画像を拝借

そして、この列車本数の少ない深名線で『乗り鉄&撮り鉄』の”ライド&ゴー”(このタワケ・・アタマ膿んでるのか?)が可能となったならば、より撮影機会を多くするべく運転系統が分断されている朱鞠内を撮影地に選んで、本線格の深名”南線”と支線格の”北線”の両方を狙うのがベターとなるのである。


分断駅の朱鞠内は”南線”から
”北線”へ渡る中継点であった
朱鞠内に着いて駅付近で
”北線”の名寄行から行動開始

それに分断駅を跨いで撮影本数が多かったといっても、運転本数が4~5往復と極少の深名線の事、撮影地の朱鞠内で降りると撮影を終えて名寄に戻る夕暮れ時まで、9時間の時間の空きができるのである。


時間が有り余るから
朱鞠内湖へも繰り出した

まぁ、この時間の空きがあるから、《湖畔》・《共栄》の両隣の仮乗降場まで5kmに及ぶ広域な撮影地を闊歩し、またついでに朱鞠内ダムに立ち寄る事もできたのである。


湖畔乗降場
待合室の扉は木製でやや重かった


駅寝も可能な
”育ちのいい”共栄仮乗降場

その上に昼飯は、共栄又は湖畔の”育ちのいい”駅待合室の中で、高校ワンゲロ時代の遺物(廃部と共に最後の部員たちが部の備品を掠め取って私物化していた)を使って釜飯の素と豚汁を拵えるという、今の血と闘う国民的(怠惰と飽食ゆえの)難病へ一直線な豪華な献立だったよ。 まぁ、『撮り鉄』に訪れる毎に課せられる大いなる空き時間故に出来得る事なのだが。


朱鞠内湖はダムに行くより
国道275号のPAからの方が良く見える
※ ウィキペディア画像を拝借

さて、その『撮り鉄』であるが、大概前半戦は本数の多い本線格の”南線”を撮りに共栄側へ出張り、ダムの下流となって流れが小さくなった雨竜川の鉄橋や白樺林などを絡めて撮る。


完全に凍り着いた雨竜川を渡る


共栄手前の白樺林越しに撮る

そして、共栄の駅待合室で上記の如くの豪華な昼飯を取った後に朱鞠内に戻って、更に湖畔に向かってダム湖に立ち寄った後に15時台の”北線”の列車を撮ってから、この折り返しに乗って名寄に抜けるべく駆けて朱鞠内に戻る・・、今ではほぼ不可能な行動パターンであった。


除雪された雪の溜まりの上に乗ると
軽く見下ろすアングルで撮れた


振り返って撮るのは
列車本数の少ない路線での”お約束”

なぜなら最後の朱鞠内駅への駆け戻りは、自炊用具一式とカメラバックの20数kgをかついでの『奇跡の体力』を擁する駆け戻りだったからである。


その『奇跡の体力』を使った
駆け戻り必須の”北線”撮影に向かう


何せ朱鞠内での折り返しは
僅か8分なのだから
乗り遅れれば共栄か湖畔で
『駅寝』確定だしィ

このように列車の運行本数が少なく時間は有り余るほどにあるのに、なぜか目一杯の体力を使った行動を余儀なくされるなど、豪華てんこ盛りの不可思議な『撮り鉄』が深名線の『撮り鉄』だったのである。


深名線の『思い出』よ
永遠に・・




















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No title * by オータ
こんばんは。
最初に挙げられた 最末期の深名線ダイヤは わずか三両の キハ53を一両ずつに分けて、この広大な路線のすべてのダイヤを まかなっていましたね。ある意味 パズルのようなお見事なダイヤでしたが、旅行するほうには たまったモンじゃないです。ただこれでも 幌加内~深川、朱鞠内~名寄間の 数少ない通学生に配慮してあったり、日中の用足しにはなんとか使えるようになってはいましたね。

No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。

>わずか3両のキハ53を一両づつに分けて、この広大な路線の全てのダイヤをまかなって・・

そうか! だから鷹泊で見た下りの始発が3両編成だったのですね。 幌加内で1両切り離して深川に折り返し、もう1両は朱鞠内で切り離して朱鞠内からの上りの始発とし、残りは名寄まで直行させて北線の担当車輌とする訳てすね。

いゃあ、パズルを解くが如く・・ですね。 幌加内の町も、鉄道がなくなってより過疎が進む状況のようです。

No title * by yocci
こんばんは!
体力勝負の撮影行、本当にお疲れ様でした。

でも、そこまでハマるだけの魅力があったんですよね。
もう少し早く自分も行っておけばよかったと思うことしきりです。

No title * by 風来梨
yocciさん、こんばんは。

若さと『奇跡の体力』があってこそ・・、今は絶対に無理ですね。

でも、あの時は、ローカル線に全てをかけていましたね。 あの時の熱い『大陸情熱バカ』な思い入れがあって行動したからこそ、生涯に通じる思い出となったと思います。

No title * by 鳳山
このブログのおかげでいろいろな鉄道路線を知ることができます。深名線は北海道の北部を走る路線ですね。1995年廃止、勉強になりました。

No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。

かつての日本には、こんな過疎地帯でも列車を定時運行させる力と、学生や老人といった交通弱者に心配りがある優しさがありました。 無人駅でも地元の方々が清掃し、冬は石炭ストーブが焚かれていました。 でも、余裕と心のゆとりを失った今、日本自体がフラフラと危うい方向に向かってますね。

便利すぎる今の世の中で、考える機会が少なくなった事や、多くの事が自動化されて失敗を体験する事がなくなったからかもしれませんね。

No title * by なべ
こんにちは。深名線懐かしいですね。私も一度冬に訪問した事があります。朱鞠内の駅には木造の車庫と腕木信号機が有り、それをバックに入線するキハ22を撮ったりしてました。常識を越える積雪と寒さで、歩いて撮りに行こうとは思いませんでした。

No title * by 風来梨
なべさん、こんばんは。

私は逆に、車庫や腕木信号機、転車台跡などの朱鞠内駅の貴重な情景を見落としてます。 この時は「駅を入れる事でローカル線の素顔を表現する」といった思考は思い浮かびませんでしたね。

幸い、常識を超える積雪と寒さに対しては"ブリバリ体力"で対する事ができましたが・・。 でも、今自身で撮った写真を見ると、「よくもやったものだな」と思いますし、「今は絶対ムリ!」と即答できますね。

コメント






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No title

こんばんは。
最初に挙げられた 最末期の深名線ダイヤは わずか三両の キハ53を一両ずつに分けて、この広大な路線のすべてのダイヤを まかなっていましたね。ある意味 パズルのようなお見事なダイヤでしたが、旅行するほうには たまったモンじゃないです。ただこれでも 幌加内~深川、朱鞠内~名寄間の 数少ない通学生に配慮してあったり、日中の用足しにはなんとか使えるようになってはいましたね。
2018-03-11 * オータ [ 編集 ]

No title

オータさん、こんばんは。

>わずか3両のキハ53を一両づつに分けて、この広大な路線の全てのダイヤをまかなって・・

そうか! だから鷹泊で見た下りの始発が3両編成だったのですね。 幌加内で1両切り離して深川に折り返し、もう1両は朱鞠内で切り離して朱鞠内からの上りの始発とし、残りは名寄まで直行させて北線の担当車輌とする訳てすね。

いゃあ、パズルを解くが如く・・ですね。 幌加内の町も、鉄道がなくなってより過疎が進む状況のようです。
2018-03-12 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんばんは!
体力勝負の撮影行、本当にお疲れ様でした。

でも、そこまでハマるだけの魅力があったんですよね。
もう少し早く自分も行っておけばよかったと思うことしきりです。
2018-03-12 * yocci [ 編集 ]

No title

yocciさん、こんばんは。

若さと『奇跡の体力』があってこそ・・、今は絶対に無理ですね。

でも、あの時は、ローカル線に全てをかけていましたね。 あの時の熱い『大陸情熱バカ』な思い入れがあって行動したからこそ、生涯に通じる思い出となったと思います。
2018-03-13 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

このブログのおかげでいろいろな鉄道路線を知ることができます。深名線は北海道の北部を走る路線ですね。1995年廃止、勉強になりました。
2018-03-14 * 鳳山 [ 編集 ]

No title

鳳山さん、こんばんは。

かつての日本には、こんな過疎地帯でも列車を定時運行させる力と、学生や老人といった交通弱者に心配りがある優しさがありました。 無人駅でも地元の方々が清掃し、冬は石炭ストーブが焚かれていました。 でも、余裕と心のゆとりを失った今、日本自体がフラフラと危うい方向に向かってますね。

便利すぎる今の世の中で、考える機会が少なくなった事や、多くの事が自動化されて失敗を体験する事がなくなったからかもしれませんね。
2018-03-14 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんにちは。深名線懐かしいですね。私も一度冬に訪問した事があります。朱鞠内の駅には木造の車庫と腕木信号機が有り、それをバックに入線するキハ22を撮ったりしてました。常識を越える積雪と寒さで、歩いて撮りに行こうとは思いませんでした。
2018-03-24 * なべ [ 編集 ]

No title

なべさん、こんばんは。

私は逆に、車庫や腕木信号機、転車台跡などの朱鞠内駅の貴重な情景を見落としてます。 この時は「駅を入れる事でローカル線の素顔を表現する」といった思考は思い浮かびませんでしたね。

幸い、常識を超える積雪と寒さに対しては"ブリバリ体力"で対する事ができましたが・・。 でも、今自身で撮った写真を見ると、「よくもやったものだな」と思いますし、「今は絶対ムリ!」と即答できますね。
2018-03-24 * 風来梨 [ 編集 ]