2017-09-18 (Mon)✎
路線の思い出 第226回 宇高航路・高松駅桟橋 〔香川県〕
線路から連絡船へ
高松駅桟橋の情景
※ グーグル画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
宇野駅桟橋~高松駅桟橋 18.0km 詳細不明
廃止転換年月日 転換処置 転換時就航便数〔’88/4/9〕
’91/3/16 JR本四備讃線〔’88/4/10開業〕 普通船便 14往復
高速艇便 7往復
ホバークラフト便 9往復
高速艇便 7往復
ホバークラフト便 9往復
宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた国鉄(転換後はJR四国)の航路(鉄道連絡船)である。 実際の距離は11.3海里(21.0 km)だが、営業キロ上の距離は18.0 km(擬制キロ)であった。
徳島・松山・高知といった四国地方の全県庁所在地を結ぶ特急列車が発着する高松駅は、80年間にわたり四国と本州を結ぶ鉄道連絡船「宇高連絡船」の接続駅であった為、その名残で線路が全て当駅で行き止まりになる終着駅構造になっている。
正直言うと本当の『顔』であった連絡船を失い、現在の”顔をもじった"ガラス張りのビルが建つ高松駅には興味はない。 ビルに模ったニセモノの『顔』でなく、本当の『顔』であった昔の高松駅なのだ。
ワテの心の中にある香川県の『顔』たる駅は
ガラス窓に貼られたニセモノ『顔』のこの駅ではなく
県庁所在地駅として威風堂々としたこの駅だ
そして四国の『顔』たる駅の先には
港があり桟橋があった
※ 3枚いずれもウィキペディア画像を拝借
そこには、現在の駅にはない躍動感があった。 『四国三大走り』と呼ばれた接続列車の座席を確保すべくの桟橋猛ダッシュ・・。 船から降りた多くの乗客・・、特に特急・急行の自由席のみ乗車が可能な周遊券を手にした鉄旅の若者が、列車まで凄まじいスタートダッシュをかけて1両ないし2両しかない自由席を奪い合ったのだ。
その荷物を抱えての桟橋間猛ダッシュはエキサイトを極め、将棋倒しになったり海に飛び出したりして死んだり重傷を負った者もいたほどで、半ば「命がけの競争」だったのである。 それは寄席のネタにもなる程に世間に語り継がれ、褒められた事ではないが今にない熱々とした活気がみなぎっていた。
でも、今は全てPCやスマホで列車の座席を予約・・、いや四国に渡る者の大半が鉄道なんかは使わず車で橋を渡ってくるようになった。 そして、新しいけれどなぜか寂れた雰囲気が漂う高松駅となったのである。
ワテも中坊の時の初めての鉄道撮影の旅で、この『四国三大走り』を体験している。
それは、今にない熱き躍動だった。 乗る列車を定めて、乗船中はそのスタートの瞬間を船内客室の中で待つ。
『四国三大走り』の最初の出走ゲート!?
となった船は土佐丸だった
※ ウィキペディア画像を拝借
この競争に『フライング』は御法度だ。 なぜなら、船内の下船口のあるフロアは着岸の放送があるまで、事故防止の為に立入禁止となっているからだ。 また、船内は乗客同士のトラブルとなる衝突を防止する為に・・というか、当然の常識として走る事は禁止されているからである。 もう、鉄道警察と思しき格好の者もいたので、船内で走り出すような奴は押さえつけられて『フェイドアウト=危険行為で拘束』となるのだろうね。
船室の中で着岸の時を待ち待機する事、それはゲートに入って出走の時を待つ競走馬の心境であった。
そして、夜の最終列車に接続する船便が特に活気づいていたのだ。 それはこの最終の船便に、予讃本線の松山・宇和島方面に夜行急行の【うわじま1号】、土讃本線の高知・中村方面には急行仕様の夜行快速・中村行が接続していたからだ。
当時は夜行急行もあった
急行【うわじま】1号
その内の土讃本線の急行仕様の夜行快速・中村行が、にわかアスリート達のターゲットとなっていたのだ。 なぜにら、この列車の4両目に急行用のグリーン車両が連結され、無料開放されていたからだ。
その座席の数は僅か68席・・、この68席をめぐっての激走が催されるのだ。
確か・・この急行【土佐】の折り返しが
グリーン車無料開放の夜行快速中村行となった?
そして、このグリーン車両の事を知っているのは、『周遊券キッパー』の中でもあまりいなかったようだ。 だから、早く走った奴が勝つのはもちろんであるが、事前情報を把握した奴も勝利に近いのである。
中防の時ワテは「使えない肥満児」で足も遅かったのだが、こういう事に関しての要領だけはよかったみたいである。 「この夜行快速がどのホームに停まって、グリーン車両は何両目なのか?」を事前に把握して、そのホームへの最も近い改札ラッチを通り、グリーン車両も比較的人がタカらない後ろ側の扉から乗り込む計画を立てて、その通りに行動すべくシュミレーションしていたのである。
その事前情報は功を奏し、この夜行快速のグリーン車の事を知らない者は「周遊券では乗れない指定席車(この頃は急行のグリーン車は指定席料金で乗れた)」と勘違いして避けてたし、いくら走るのが早くても走る経路に無駄があったり、到着番線を知らずに案内板を確認すべくムダ走りするような奴は次々と脱落していった。 そう、ほんのちょっとのムダが結構ずっしりと響くのである。
そして、グリーン車両の乗り口も手前側は駆けてきた奴が殺到して押し問答となっていた。
最初から後ろ側の扉に直行したワテは、この殺到に気がついて後ろ側に周り込んだ奴よりいち早くグリーン車両に乗り込む事ができたのである。
そうである・・、知恵は運動能力の不利を凌駕したのである。 恐らくであるが、クリーン車両68席を勝ち取ったウイナー達と比べても、ワテは1~2を争う位足が遅かったと思う。 でも、結果はこの『四国三大走り』は3戦3勝で、うち一回は最も獲りたかった一番後ろの座席を勝ち取る事も出来た。
ちなみに何故に一番後ろの席がいいかというと、座席の後ろのスペースに荷物を押し込めるし、後ろがいないのでリクライニングも気兼ねなしに倒す事ができるからである。
また、グリーン車が指定席車扱いで比較的人気のない急行【うわじま1号】に乗った時は走らずとも座席を確保できたので、改札口横の立ち食いうどんでうどんをすする余裕もあったよ。
それに人気がなく比較的空いていた急行【うわじま1号】は、発車間際まで室内灯を消していたし。
あれから30年経って、再び高松駅を訪れる機会があったが、その冷めた雰囲気に「これがあの熱き『四国三大走り』の聖地・高松駅か?」と愕然としたよ。 乗客はそこそこいるのだが、全部3~4両編成の電車に立席なく埋まっているのだ。 当然、電車に駆け込む者など誰もいない。
テナント然となった『連絡船うどん』屋に
あの時の熱気はなかった
※ ウィキペディア画像を拝借
そして、立食いうどん屋もテナント然としていて、あの時の座席を獲得して勝利のうどんをすすった熱き体験も30年の昔の事となった。 夜行列車も夜行高速バスに乗客を奪われて、遠の昔に消えていった。
熱き戦いを制してすすった「勝利のうどん」は
もう30年も昔の彼方に
『連絡船うどん』のルーツは
船内デッキ上での立食いうどんだった
※ 上下いずれもウィキペディア画像を拝借
その様子は香川県を代表する駅であるのに、本四備讃線の接続駅である坂出より活気がないのだ。
坂出駅は2面3線と規模は高松駅の4面9線よりもはるかに小さいが、常に乗り換え客がホームにいて活気を感じられたが、今の高松駅は列車待ちの客がほとんど見られないのだ。
旅においてのシンカンセンやデジタルカメラ・・。 手間いらずで目的を素早く達成できるようにはなったが、同時に大切な旅の味わいや写真を撮る醍醐味をポロポロと落としてきたのである。
それはこの高松駅の変わり様と同じく、常に完成良品や目的に則したモノ突き付けられる「当たり前」が繰り広げられる無味乾燥のつまらぬ光景となってしまった。
輝いていた頃の四国の鉄道
牟岐まで直通していた
急行【むろと】
土讃本線のエース
急行【あしずり】
10往復が運行され20号まであった
急行【阿波】
普通列車も新旧ごちゃ混ぜ編成で
4両は確保していた
小松島港(臨)駅に停車する急行【よしの川】
廃止された小松島線にも
急行(線内は快速扱い)が運行されていた
特急【南風】
鉄道が輝いていた頃の特急は
”特別急行”という高嶺の存在で
今のように安っぽいモノではなかった
上の文はこのような愕然とした思いを抱いた時に書く文だが、本当にこの文に書いたが如く、かつて輝いていたものが熱気を失って、ボロボロと手元からこぼれ落ちていくのだ。 そして「一度落ちたモノは二度と戻らない」と言っていい位に、元に戻すのは困難なのだ。
- 関連記事
スポンサーサイト
No title * by 風来梨
リカさん、こんばんは。
本州側の宇野でも接続列車の座席をめぐっての競争はありましたが、高松駅の比ではなかったようですね。 四国側の座席争奪戦は、真に激戦でした。
船のデッキの上ですするうどん・・、旨かったでしょうね。 海風にさらされるシチュエーションでは、温かいうどんはベストチョイスです。
本州側の宇野でも接続列車の座席をめぐっての競争はありましたが、高松駅の比ではなかったようですね。 四国側の座席争奪戦は、真に激戦でした。
船のデッキの上ですするうどん・・、旨かったでしょうね。 海風にさらされるシチュエーションでは、温かいうどんはベストチョイスです。
No title * by たけし
連絡船の廃止は郷愁を奪いました。
日本全国どこへ行っても無個性の、垢ぬけた綺麗なビルモドキ駅。
ロ-カル線も集客(若い女性)目当てのマンガチックで・・・・
停車中に便所を使ってはならぬ!という時代の列車はもうないのでしょうか・・・
日本全国どこへ行っても無個性の、垢ぬけた綺麗なビルモドキ駅。
ロ-カル線も集客(若い女性)目当てのマンガチックで・・・・
停車中に便所を使ってはならぬ!という時代の列車はもうないのでしょうか・・・
No title * by 風来梨
たけしさん、こんばんは。
>停車中に便所を使ってはならぬ!という時代の列車・・
肥やし列車ですね。 線路際に大根を植えるとよく育ちます(笑)
というのは冗談で、以前は肥やし列車だった車両も全車両に汚物タンクが取り付けられたようです。 JRを含めて鉄道会社は、沿線住民の抗議があれば善処するしかない・・というか徹底的に叩かれますからね。
速度超過でマンションに突っ込んだ福知山線の事故も、「早く・・、列車待ちなんか絶対にしたくない。でも値上げは嫌だ」という乗客側のわがままも事故を引き起こした要因なのですね。 でも、事故を起こしたJRや事故車両の運転手が全て悪いと片付けられてしまいましたが・・。 これに荷担したのもマスニダですね。
>停車中に便所を使ってはならぬ!という時代の列車・・
肥やし列車ですね。 線路際に大根を植えるとよく育ちます(笑)
というのは冗談で、以前は肥やし列車だった車両も全車両に汚物タンクが取り付けられたようです。 JRを含めて鉄道会社は、沿線住民の抗議があれば善処するしかない・・というか徹底的に叩かれますからね。
速度超過でマンションに突っ込んだ福知山線の事故も、「早く・・、列車待ちなんか絶対にしたくない。でも値上げは嫌だ」という乗客側のわがままも事故を引き起こした要因なのですね。 でも、事故を起こしたJRや事故車両の運転手が全て悪いと片付けられてしまいましたが・・。 これに荷担したのもマスニダですね。
No title * by 日本一周
なつかしいお写真の数々、ありがとうございました。
まさに気動車王国といわれた由縁でしょうね。
このころの高松駅、宇高連絡船が着くと、一斉に各ホームから3方向への急行が発車するにぎやかさでしたね。
行き先別のヘッドマークも必須だったわけでしょう。
まさに気動車王国といわれた由縁でしょうね。
このころの高松駅、宇高連絡船が着くと、一斉に各ホームから3方向への急行が発車するにぎやかさでしたね。
行き先別のヘッドマークも必須だったわけでしょう。
No title * by 風来梨
日本一周さん、こんばんは。
あの頃の控え目なヘッドマークがキハ58のツートンに抜群に合っていて、この時中坊だった私は特急より急行を撮りたいと四国の旅をした事を憶えています。
とにかく格好良かった四国の急行・・。
夜行急行や夜行快速があって、鉄道旅の全盛期でしたね。 願わくば、もう一度あの頃の鉄道に会ってみたいなぁ。
それと、トラックバック有難うございます。
あの頃の控え目なヘッドマークがキハ58のツートンに抜群に合っていて、この時中坊だった私は特急より急行を撮りたいと四国の旅をした事を憶えています。
とにかく格好良かった四国の急行・・。
夜行急行や夜行快速があって、鉄道旅の全盛期でしたね。 願わくば、もう一度あの頃の鉄道に会ってみたいなぁ。
それと、トラックバック有難うございます。
船でうどんも食べました。おいしいまずいは別です。