2017-08-20 (Sun)✎
路線の思い出 第222回 宮原線・肥後小国駅 〔熊本県〕
地元の人でさえ”みやはらせん”と
誤読するような路線の終着駅・肥後小国駅
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
恵良~肥後小国 26.6km 109 / 1860
廃止年月日 転換処置
’84/12/ 1 大分交通バス
廃止時運行本数
豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
豊後森~宝泉寺 下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)
輸送密度109人の超閑散線でも
終着駅には駅員が配置されていた
肥後小国駅(ひごおぐにえき)は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字宮原にあった国鉄・宮原線の駅(廃駅)で、行き止まりの終着駅である。 廃止時点で単式ホーム1面1線を持つ有人駅で、本線のほか機回し線と側線があった。
黒潰れ写真だけど
側線があるのは判ります・・よね?
駅跡は道の駅小国として整備され、施設内には往時の列車写真が掲げられている。
建物の周囲の歩道部分には枕木が敷かれ、さらに構内の片隅にはレール・駅名標・転轍機・腕木式信号機もひっそりと保存されている
道の駅に”アサッテの方向”の思考
で残された宮原線の遺構
※ ウィキペディア画像を拝借
また当所のバス停留所名称は「小国ゆうステーション」でもあり、ここがかつて「鉄道の駅」であったことを証明している。 但し、本来のホームの場所は南方50mほどの場所であり、ホームへ上る階段が残されている。
道の駅となった肥後小国駅跡
肥後小国駅の思い出
かつての駅通りは集落街の外れにポツネンとあって、町に住む人でさえ『みやはらせん』と
誤読する程に忘れ去られた存在だったのに、今や駅跡は道の駅となり、国道が交差する
街の中心となっていた。
駐車許容台数以上にやってくる車、ガラス張りのギラギラしたドーム型の道の駅施設、
御土産物屋に名産品売り場や人気のアイスクリーム、その脇にほんの僅かに駅跡だ
った事を示すモニュメント・・ 過ぎ行く時の無常を、ここでも違う形で見せつけられた
これが道の駅となった「我が青春のローカル線」の終着駅跡を訪ねての印象だった。
駐車誘導員さえ駆り出される程に訪れる道の駅利用者でごった返す駅跡を目にして、「駅があった時にこの1/10でも利用客がいたなら、廃止があと2~3年先延ばしできたのであろうか」なんて思いが頭に過る。
「我が青春のローカル線」だった宮原線
ここでなぜ「あと2~3年持ってくれれば」と思ったのは、2~3年後にはもう少しキチンと写真が撮れて、幸野川の眼鏡橋など撮りきれなかったシーンもゲットできたものを・・という「自分本位」の考えからだった。
幸野川橋梁で撮ったモノは
目を覆わんばかりの手ブレ写真だった
そう、この幸野川橋梁での写真は目を覆うばかりの手ブレ写真で、30年経った今でもリベンジの叶わぬ後悔の一つとなっている。 この幸野川橋梁は北里と肥後小国のちょうど中間部にあり、当時の『乗り鉄&撮り鉄』では撮りに出るのが難しい撮影場所であったのだ。
湧蓋山が背景の絶好の撮影地・廣平橋梁
宮原線撮るならやっぱりここだよね
まぁ、同じ眼鏡橋の写真を狙うなら、橋の位置も知っていてバックに湧蓋山がそびえる廣平橋梁の方を選択していたし。 でも、一度は撮りたいと思って行動した事も2回ある。 その時のネックは、やはり宮原線以外に交通手段の乏しい北里からのアプローチ方法だ。
その1回目は、北里から駅寝グッズ一式を担いで歩いていったのである。 もちろん、歩いたルートは線路上である。 当時は「ホェ~」と唸る程に重くて嵩ばるホエーブスを含めた20㎏のザックと8kmの銀箱を担ぐ”ブリバリスタイル”で、灼熱の炎天下の中の幸野川橋梁を歩いて渡ったよ。
線路の有った現役時代にこの橋を渡ったのは
ワテ以外にはそうはいないだろうね
でも、ここからが間抜けで、幸野川橋梁の上からの下への降り口が見当たらず、そのまま肥後小国まで抜けてしまったのである。 まぁ、今は歩道橋となって橋上へ登る階段も設けられてるが、鉄道があった現役時代は、当然線路への立ち入りは”トンデモナイ”事だったので、当然下から登る階段などなかった訳である。 ここで「線路上を歩くな! このタワケ!」という、正しいけど話をブチ壊す野暮はナシにしようね。
・・で、小国の街の近くまでくると容易に線路上から下の道に降りる事ができ、降りた所に狙い済ましたように公衆銭湯があったのである。 若い現役ワンゲロだったとはいえ、炎天下で荷物と銀箱の30㎏近くを担ぎ歩いた為に汗ダクダクになっていて、たまらずこの公衆銭湯に飛びこんだのである。
恐らくこの時は、この炎天下を歩いた理由である幸野川橋梁での撮り鉄なんか吹っ飛んでいたと思うよ。
宮原線沿線は
九州でも有数の湯の里ですね
※ さよなら記念切符の裏面デス
公衆銭湯に入りサッパリして、脱衣場で腰に手を当てて飲むフルーツ牛乳は、忘却力を促進させる”甘い密”である。 こうなったら、もう動く事は敵わない。 脱衣場のテレビで高校野球を見ながら、緩やかに回る扇風機の風に身体を晒してボ~っとしていると、幸野川橋梁は吹っ飛んだよ。
16:43と早すぎる最終列車だった宮原線
・・で、16時近くなって、16:43発の最終列車の列車の発車時刻が近づくとようやく我に帰って、『楽園』から起ち戻る。 ここで帰還ができずに『楽園』に溺れてしまったなら、最終列車に乗り遅れて小国に置いてきぼりになっちまった所である。 でも、最終列車が16時台って、すごいねぇ。
まぁ、今は1日の運行が1往復や2往復で、「最終列車が午前中」ってのがザラだけど。
『楽園』からの帰還が遅れて
結局幸野川橋梁での撮影は
肥後小国駅での最終列車に変更となりますた
2回目は秋の事である。 廣平橋梁で土曜の増便列車を撮っていると、天気が崩れ出してポツポツの雨模様となってきたのである。 下りの肥後小国行を撮ったし、雨の中で折り返しの列車を待つのも「なんだかなぁ」と思い、切り上げて小国へ向かうべく荒野の何もないバス停でバスを待つ。
この時は曇天で
山もくすんで今イチだったよ
すると軽トラが通りかかり、ワテの前で停まったのである。 軽トラから初老のおっちゃんが下りてきて、「小国まで行きたいんか?」、「送ってやろうか? 雨ん中待つよりいいだろう?」と厚意を示してくれた。 それに二つ返事で応じて軽トラの助手席に乗り込もうとすると、おっちゃんは「そこは濡れたらダメなモノを置んにゃあならん 悪いが荷台に乗ってくれんか」と完全なる『道交法違反』を素で言ってのけたよ。
こんなので雨の峠でこの上でケツ振られたら
『イニシャルD』になっちまうよ
・・で、小雨であったが雨の降る中、軽トラの荷台の上に乗り、カーブが続く道路でケツを振りまくる田舎のおっちゃんの荒っぽい運転で雨が直撃する中を悶える事となる。 当時の国道387号はバイパス開通前の峠道で、連続する山道カーブでKO寸前となったよ。
でも、このおっちゃんは勘がいいのか、「あんな所でバスを待ってるなんて、坊主は汽車を撮りに来たんだろ?」、「今日土曜日だから学生の汽車(土曜の増便の事)があるなぁ」、「下の橋で撮るか?」と『天の声』を発してくれたよ。
このようにして、『たなぼた』というか『神展開』というか、訪れたくも遠かった幸野川橋梁での撮影チャンスが転がり込んできたのである。 でも、せっかくのこんな美味しいチャンスを荷台で振られて平衡感覚を失ったのか、見事手ブレの失敗となったよ。 だから、この幸野川橋梁にはちょっとしたトラウマがあったりして。
夏の肥後小国駅標
小僧の頃撮った写真って時に今のワテを凌駕するよ
夏の雰囲気が醸し出ていいしゃん・・コレ
幸野川橋梁で撮り鉄をしたあとは、キチンと肥後小国駅まで乗っけてくれたよ。
そして、駅前にあった雑貨屋でパンを買って分けてくれたよ。 このおっちゃん、ちょっと『トンデモ』だったけど、いいおっちゃんだったよ。
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No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。
>地元の私も「みやはら」線・・
仕方がないですよ。 キチンと読めたのは「鉄」くらいでしたから。
九州には「原」と書いて「はる」と呼ぶ地名が多いですね。
西郷隆盛で有名な「田原坂」や、福岡の「長者原」・「原田」等々。
たぶん、歴史的になにかしらの意味が有るのでしょうね。
>地元の私も「みやはら」線・・
仕方がないですよ。 キチンと読めたのは「鉄」くらいでしたから。
九州には「原」と書いて「はる」と呼ぶ地名が多いですね。
西郷隆盛で有名な「田原坂」や、福岡の「長者原」・「原田」等々。
たぶん、歴史的になにかしらの意味が有るのでしょうね。
ナイス