2011-05-17 (Tue)✎
『私の訪ねた路線』 第23回 北陸本線 〔滋賀県・福井県・石川県・富山県・新潟県〕
急行【くずりゅう】号
米原~富山 間の急行だったっけ?
米原駅
《路線データ》
北陸本線
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
米原~金沢 177.6km 19453 / 135
運行本数
大阪~金沢 特急【サンダーバート】23往復
名古屋~金沢 特急【しらさぎ】8往復
米原~金沢 特急【しらさぎ】8往復
その他、深夜にかけた時間帯に福井まで
特急【ダイナスター】、【オヤスミエキスプレス】運行
普通列車は小松・福井方面に毎時2本、ラッシュ時5本運行
《路線史》
建設当初から幹線鉄道として官営にて建設された路線である。 まず、1892~89年に米原~敦賀港が開業する。 この区間では柳ヶ瀬トンネルの掘削に手間取り、トンネル開通(1884年)までは峠越えを要する徒歩連絡であったという。
敦賀港が国際港として開港すると、ロシアとの定期航路に連絡する列車が運行されるようになる。
続いて、1896年には福井まで延伸する。 だが、敦賀~今庄には嶮しい山岳地帯が横たわり、これを避けて海沿いに路線を敷設したようだが、それでもスイッチパック4ヶ所を要する“ジグザク路線”となってしまったようである。
続いて、1899年には富山までの延伸が完成する。 富山より先は、『富山線』として建設される事になる。 1908年に富山~魚津が開業し、その後も順次泊・青海と延伸していく。 また、直江津側は信越線の支線として延伸建設が成され、1911年の名立までの延伸を皮切りに、こちらも順次糸魚川まで延伸させる。
そして、1913年に青海~糸魚川が完成し全通となる。 同時に、米原~直江津までの全線が『北陸本線』への編入となる。 こうしてようやく全通したのだが、これよりは突貫工事による旧態路線からの脱皮、即ち路線改良が課題として持ち上がるようになる。
まずは、この路線の黎明期に建設した木ノ本~敦賀であるが、日本初のダイナマイト掘削で掘られた柳ヶ瀬トンネルを含む旧規格の勾配線区で、運行上の事故や災害が多発する区間であった。 何でも、崩落・雪害・路線凍結やヤスデの異常繁殖によるスリップ、トンネル内の窒息事故など、今では考えられない事故が多発していた・・との事である。
1928年のトンネル窒息事故を契機に、新線への付け替えが決定される事となる。 戦争で一度は頓挫したものの、1952年より建設が再開となり、不況による紆余曲折を経たが1957年に近江塩津経由の新線が完成し、これに付け替えられた。
付け替えと同時に旧線区間は『柳ヶ瀬線』として分離され、2エンジン搭載のキハ52が専用車輌として運行されるが、赤字運営から脱却できず1964年に廃止となっている。 現在の旧線路線跡は、新線への路盤提供や高速道路のサービスエリアの用地利用、そして自然に回帰するなど、形跡はほとんど残ってはいない・・との事である。
この旧線区間の付け替えに続く改良工事は、敦賀~今庄の路線改良である。 鉄道建設の黎明期に建設された為、スイッチバック4つを要するなど路線の“肝”となっていたが、この区間の改良は難所・木ノ芽峠を貫く北陸トンネルの掘削による新線への付け替えが案として採用される事となる。
そして、1962年に全長13870mの北陸トンネルが開通し、スイッチバックを含む旧線はトンネル縦断の新線に切り替えられる。 旧線跡はそのほとんどが高速道路用地となっている。 今は、高速道路のPAが駅跡として、その軌跡が記されるのみである。
その後も路線改良は続き、倶利伽羅峠・親不知・直江津付近のフォッサマグナ地帯なども、長大トンネルを含む新線への付け替えが行なわれている。 これと平行して複線・電化工事も行なわれ、1957年の田村~敦賀が新線付け替えと同時に電化されたのを始め、1962年の北陸トンネル開通の年に米原~田村も電化される。 その後も電化・複線化は推し進められ、1969年の谷浜~直江津の新線切換と複線電化により全線の複線電化が完成した。
当初の電化は建設コストの事もあって交流電化であったが、新快速直通運転などに供する為、米直~敦賀は直流電化に転換されている。 従って、北陸本線の敦賀以遠をゆく列車は、以前からであるが交直流切換対応の車輌となっている。
今は、大阪~富山(金沢から和倉温泉)に高速の特急列車が走り、全てはこの列車の為にダイヤが組まれている・・といっても過言ではないだろう。 だが、2014年の北陸新幹線開業時には、JRから分離される事が決まっているという。 その時の恐慌とも言える変革に、果たして利用客としての自らが対応できるだろうか・・という不安が募るのである。
敦賀港が国際港として開港すると、ロシアとの定期航路に連絡する列車が運行されるようになる。
続いて、1896年には福井まで延伸する。 だが、敦賀~今庄には嶮しい山岳地帯が横たわり、これを避けて海沿いに路線を敷設したようだが、それでもスイッチパック4ヶ所を要する“ジグザク路線”となってしまったようである。
続いて、1899年には富山までの延伸が完成する。 富山より先は、『富山線』として建設される事になる。 1908年に富山~魚津が開業し、その後も順次泊・青海と延伸していく。 また、直江津側は信越線の支線として延伸建設が成され、1911年の名立までの延伸を皮切りに、こちらも順次糸魚川まで延伸させる。
そして、1913年に青海~糸魚川が完成し全通となる。 同時に、米原~直江津までの全線が『北陸本線』への編入となる。 こうしてようやく全通したのだが、これよりは突貫工事による旧態路線からの脱皮、即ち路線改良が課題として持ち上がるようになる。
まずは、この路線の黎明期に建設した木ノ本~敦賀であるが、日本初のダイナマイト掘削で掘られた柳ヶ瀬トンネルを含む旧規格の勾配線区で、運行上の事故や災害が多発する区間であった。 何でも、崩落・雪害・路線凍結やヤスデの異常繁殖によるスリップ、トンネル内の窒息事故など、今では考えられない事故が多発していた・・との事である。
1928年のトンネル窒息事故を契機に、新線への付け替えが決定される事となる。 戦争で一度は頓挫したものの、1952年より建設が再開となり、不況による紆余曲折を経たが1957年に近江塩津経由の新線が完成し、これに付け替えられた。
付け替えと同時に旧線区間は『柳ヶ瀬線』として分離され、2エンジン搭載のキハ52が専用車輌として運行されるが、赤字運営から脱却できず1964年に廃止となっている。 現在の旧線路線跡は、新線への路盤提供や高速道路のサービスエリアの用地利用、そして自然に回帰するなど、形跡はほとんど残ってはいない・・との事である。
この旧線区間の付け替えに続く改良工事は、敦賀~今庄の路線改良である。 鉄道建設の黎明期に建設された為、スイッチバック4つを要するなど路線の“肝”となっていたが、この区間の改良は難所・木ノ芽峠を貫く北陸トンネルの掘削による新線への付け替えが案として採用される事となる。
そして、1962年に全長13870mの北陸トンネルが開通し、スイッチバックを含む旧線はトンネル縦断の新線に切り替えられる。 旧線跡はそのほとんどが高速道路用地となっている。 今は、高速道路のPAが駅跡として、その軌跡が記されるのみである。
その後も路線改良は続き、倶利伽羅峠・親不知・直江津付近のフォッサマグナ地帯なども、長大トンネルを含む新線への付け替えが行なわれている。 これと平行して複線・電化工事も行なわれ、1957年の田村~敦賀が新線付け替えと同時に電化されたのを始め、1962年の北陸トンネル開通の年に米原~田村も電化される。 その後も電化・複線化は推し進められ、1969年の谷浜~直江津の新線切換と複線電化により全線の複線電化が完成した。
当初の電化は建設コストの事もあって交流電化であったが、新快速直通運転などに供する為、米直~敦賀は直流電化に転換されている。 従って、北陸本線の敦賀以遠をゆく列車は、以前からであるが交直流切換対応の車輌となっている。
今は、大阪~富山(金沢から和倉温泉)に高速の特急列車が走り、全てはこの列車の為にダイヤが組まれている・・といっても過言ではないだろう。 だが、2014年の北陸新幹線開業時には、JRから分離される事が決まっているという。 その時の恐慌とも言える変革に、果たして利用客としての自らが対応できるだろうか・・という不安が募るのである。
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