風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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よも”ヤマ”話  第23話  天狗原と栂池自然園

よも”ヤマ”話  第23話  天狗原と栂池自然園  〔長野県〕  ’91・ 6


登山記がミズバショウの撮影記になっちまった

「登山の体験記」であるこの項目で、題名が山の名前でなく景勝地である・・と言う事は、つまり・・その・・「登山に失敗して引き上げてきた」って事ですね。 それも、高校時代にワンゲロにいた「一応・・経験者」であれば有り得ない類の理由で失敗したのですね。

ホント・・、ワンゲロにいた頃に僅かな期間いた先輩(すぐに引退した)から聞いた、「鍛錬を3日サボれば体力はゼロとなる」という格言は本当だったようである。 似たような格言に「勉学を3日サボれば、学習した知識はほぼゼロとなる」というのがあるが、筆者の場合はそもそも熱心に勉強などした事が無いから、そんな心配はないのであるが。

それは6月の中頃・・、いよいよ放浪の旅に出発して最初に挑んだのが、後立山連峰の白馬岳であったのだ。 まぁ、現役のワンゲロ時代も学校は落第ギリギリまで見計らってサボっていたので、コレに怒ったワンゲル部の顧問より夏合宿への参加を禁止されて、「高校時代にワンゲロに所属して、一応山の経験者である」と記したが、ぢ・つ・わ・・『日本アルプス』は”初めて”だったのですね。

だから、「2000m以上の山は、6月でも雪がある」というのを全く想定せずに、全く道具無しでキャラバンシューズのみで挑んでしまった訳である。 そう、寝袋も持たず、水筒も持たず、山岳地図も買うのをケチって持たず、カメラとレンズのみ・・という、ホントに「一応・・、経験者」として考えると有り得ない格好で・・である。

誰もいない栂池自然園の駐車場に車を止め、合羽とカメラだけいれたアイガーザックを背負う、「3000m級の山に行くには有り得ない」格好で出発する。 標高差200mほど上の《天狗原》というお花畑までは、ほぼ雪もなく順調に登っていく。


ツマトリソウ
失敗の中でもコレラの花を見られた事が
リベンジ心を強く抱く事になったのかも

その《天狗原》では「ダメな子にも少しは分け前がある」が如く、ヤマはこんな山をナメた井手達のタワケにも「咲き競う花々」という山の恩恵の一端を魅せてくれたのである。 チングルマやキンポウゲ、オトギリソウ、ツマトリソウなど、可憐な花を見ながらルンルン気分で歩いていく。


チングルマ


朝露を浴びて更に眩く・・
キンポウゲ

だが、その「ルンルン気分」のタワケの脚が向かう先は、ド平日で登る者もおらず雪に埋もれている白馬乗鞍岳の急斜面であった。 夏ならばジグザクを切っていて”何の心配もない”白馬乗鞍岳へのルートであるが、その登山道が雪に埋もれて直登ルートとなり、しかもド平日で誰もいないので踏み跡もなく、シーズン前でルートを示す目印もほとんど見当たらない雪の急斜面となっていたのである。


《天狗原》までは木道がある
”オンシーズン”だったが
その先はルートが雪に埋もれる”
オフシーズン”だった

始めは若さとワンゲロ時代の遺産の体力で、この雪の急斜面をラッセルで登っていくが、途端に進むべくルートを見失って雪の中で彷徨う事となるのである。 踏跡があればそれを追っていく事ができたのだがそれは全くなく、急斜面といっても山の取付付近なのでまだ天狗原から続く広い平原地形で、目ぼしい目印を見当付けする事ができなくなってしまったのである。 言うなれば、雪原で「リングワンダリング」に陥ってしまったって事である。


こういう取り止めのない光景の時に
「リングワンダリング」に陥ってしまう
※ ウィキペディア画像を拝借

ホントに「リングワンダリング」の通訳の通り、雪原の『輪』の中を行ったり来たり・・と『彷徨う』という真にその状態に陥ってしまったのである。 時折雪原に刺さる『道標リボン』をアテにしてウロウロと雪原を行ったり来たりする。

とどのつまり、平日で観光客や登山者のほぼいない(放浪旅だから6月のド平日だしィ)時期の山の状況を全く想定しないで行って、その筋書き通りに『自爆』した訳なのである。 言うなれば、『A・B・O』(あのバカヤロウ遭難)の典型例にハマった訳である。

その「行ったり来たり」を7~8回繰り返すと、さすがに気が萎えてくる・・っていうか、普通の人なら『遭難状況』となって「バニくり出す」のであるが、若さと体力だけはあるこのタワケは違った。
そう・・、「思慮が浅く簡単に『オチャメ』るが、一度『オチャメ』ってしまうと途端に冷静となる」このタワケの「ホメていいのか悪いのか解らん」特性が発動したのである。

取り敢えず山に登るのは断念して引き返す事にして、その引き返すルートの検討を始める。
引き返すルートを検討するに当たって眼を着けたのが、雪原に自分の着けた『踏み跡』である。


この登りの踏跡の着き始めが
迷い始めた所の『始点』となる訳だ
※ 別の冬山で撮影

「リングワンダリング」に陥って彷徨って深く掘れた踏み跡は捨て、踏み跡の靴型が『登りの向き』である踏み跡を探す。 この『登りの向き』の靴型が見つかればそれを辿っていけばいい訳で、それは「リングワンダリング」に陥る『起点』を示すモノであるのだ。

幸い、「リングワンダリング」に陥った地点が《天狗原》に近い山の斜面の裾の位置で、割と簡単に『登りの向き』の靴型を発見できてそれを伝って退き戻り事なきを得たが、こういった失敗とそれをリカバリーするべくの体験が、今後に大いに”活きる”のである。 そして、「この失敗を”悔しい”と思う心がリベンジ心を生むのだから、『オチャメ』や『シクジリ』を体験するのもまんざら悪い事ではない」と、自分のミスにトコトンまで寛容なワテであった。

でも、対応不可能な重大な『オチャメ』にハマって、『GAME OVER』となっちまったら元も子もない・・って言うのは念の為。 だが、このシクジリの悔しさが『リベンジ心』となって、この放浪旅の最後で白馬岳の登頂を成し得たし、「6月のアルプスは雪がある」という事や「アルプスに登るにはそれなりの装備が必要」という、この『シクジリ』で得た知識も数多くあったのである。 これは掛け値なしに、ワテの人生にとって大いなる『+』となったのである。

要するに、トラブルに差し当たってそれを自らで解決する事で、その体験が己の『血となり肉となる』訳なのである。 コレって、失敗が残るフイルムカメラと失敗を帳消しにできるデジタルカメラとの関係に似ているね。


始めて撮ったミズバショウは
今イチだった
今いちな結果でも「残す」事によって
次への対応を想定できるのである

これがワテが何度も口にする「失敗を”無かった事”にして消去を繰り返していると、『体験』という『引き出し』ができずに人間としての能力が枯渇していく」って事なのである。 コレって、人間にとって能力を失うっていう、かなり『危ない』事なのだと思うけど。

まぁ、失敗はしないに越した事はないのであるが、それは生きている限り完全な回避は不可能なのである。 そして、その失敗に出くわした時にそれを切り抜ける事ができるかどうか・・が、生きる上での『肝』となるのである。 その時の為に『体験』という『引き出し』を備えておいて、その『応用』を利かせてくのが、いざという時にパニくって『GAME OVER』とならない秘訣なのである。

それを『消去』して”無かった事”にしてしまうと、いざという時に対応する術が判らずにそのまま凍ってしまうのである。 それが生命に関わる事なら、そのまま『座して死ぬ』しかないのである。
このように失敗を”無かった”事として消去する事によって回避するデジタルって、ホントに『危ない』システムだと思うんだけど。


失敗を『消去』して顧みないでいると
いつか『消去』不能となる
『消去』不能=『GAME OVER』となれば
二度と撮れないし山には登れない

あらら・・、脱線しちゃったな。 まぁ、今まで・・の『クワムラハムの子』の時から、山は「誰かに着いていく」か、単独で行くにしても観光客が多くいる安全なハイキングルートでこんな状況にはハマるべくもなかったから、”初めて”のこういう単独行では未体験ゆえに見事に『オチャメ』った訳である。

そして、見事に『オチャメ』った事で数多くの体験を体得できた訳であるし、切り抜ける為に頭も使った=応用の引き出しが一つ完成した訳である。 だから思う。 「ワテが写真を知った時がフイルム世代で本当に良かった、助かった!」と。  そう・・、「何事においても失敗は有り得るし、失敗はリカバリーせねばならない」という生きる上での『形』が確立したのであるから。

これが始めから「失敗は”無かった事”にして消去すればいい」というデジタルのシステムに染まってしまうと、失敗のない『いい結果』だけに埋もれて満足のままに人としての大切な能力を失い、いざという時に対応できずにパニくるか凍るか・・しかなかったのである。 また、失敗を回避した後の『リベンジ心』もなく、事の成否に心をワクワクさせる事も同時に”有り得ない事”として失うのである。


この時の写真で
唯一マシだと思うのがコレ
結果を待ってワクワクする心
これのないデジタルを
ワテは趣味で使う事は有り得ない

だから、この未経験ゆえの最初の失敗は、今後のワテにとって貴重なモノだったと思う。
他人に言わせれば「失敗せぬように下調べをすればいい」やら「失敗せぬように細心の注意を払えばいい」と言うだろうが、全ての事においてそのようにしゃく正直に事が成り行かないのが世の常なのである。 そして『旅』に出る理由というのは、旅先において予定外の『ハプニング』を体験したいと思うからなのである。 予定通り・・、筋書き通りの『旅』って、面白くも何ともない訳でから。

要は、その『ハプニング』が身の危険に直面する『負のハプニング』だった時に、体験を元に知恵を使って切り抜けるか、そのまま何もできずに凍るか・・の違いなのである。 それと、失敗をして体験する事によって、切り抜ける事のできるシクジリかそうでないか・・を見極める力も備わってくるし。
これも重要な事なのだ。 それは、「失敗したら切り抜ける事が不可能な失敗」を察知する事で、その事を自重する『知恵』も生まれる訳だから。

まぁ、失敗談に対するワテの考えはこれまでにしておいて、山を断念して引き揚げてからの余った時間を車を駐車した登山口にある《栂池自然園》の散策に充てる。 山は登山道が雪で埋もれるシーズン前であったが、この《栂池自然園》はミズバショウが咲き乱れるシーズン真っ只中だったのである。


”初めて”のミズバショウは
ただ漫然に撮っただけ

だが花を撮るのもこれまた『初心者』のレベルだったので、満開だったにしてはあまり上手く撮れなかったよ。 これも「撮影にシクじった」という残念な気持ちが「次こそは」という『リベンジ心』に変わり、後の花の撮影に際した時の工夫の必要性を感じる訳だから、ワテ的に言わせれば「良かった」のである。←ずいぶんと、自分に優しい奴だな・・、このタワケは


『リベンジ』する心を抱いたのが
この失敗山旅の何よりの成果だと思う




















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