2017-03-27 (Mon)✎
路線の思い出 第200回 興浜北線・斜内駅 〔北海道〕
鉄道から気持ちが離れた頃に
ふと立ち寄った思い出の駅・斜内駅跡
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
浜頓別~北見枝幸 30.4km 111 / 2201
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85/ 7/ 1 宗谷バス 6往復
斜内駅(しゃないえき)は、北海道枝幸郡浜頓別町字斜内にあった旧国鉄・興浜北線の駅(廃駅)である。 興浜北線の廃線に伴い1985年7月1日に廃駅となった。 駅名は所在する地名からで、その地名はアイヌ語の「ソー・ナイ」(滝の川)に由来する。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する棒線型の無人駅であった。 駅舎は線路の東側に位置し、ホームに接していた。 有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛駅と同型の駅舎となっていた。
現在はホームなどは残っていないが廃線時の駅舎は残存している。 だが、駅舎は残存してはいるが、個人所有となっている為に中に入る事はできない。 いち時期は所有者の別宅として再利用されていたようで、現在は物置となっているようである。
この岬も「我が青春のローカル線」の一つだった
白糠線の上茶路や北進駅跡と共に、若きローカル線を追っかけていた時の事を懐かしんで時折訪れるのが、この興浜北線の斜内駅跡と北見神威岬である。 列車は斜内の駅を出ると岬を馬蹄形のような急カーブで周り込んで枝幸の町へ向かっていった。
目梨泊から眺める北見神威岬
かつて岬の裾を興浜北線の鉄路がめぐっていた
そう・・、その列車が通る事のできる限界に近い岬の周回では、車輪が「キン・・キンッ」と悲鳴を上げ、それは廃線間際のこの線が奏でる『鎮魂歌』(レクイエム)のように聞こえた。 ローカル線の追っかけに熱中していた小僧時代のワテは、一発でこの情景に絆されたのである。
岬の限界ギリギリのカーブを
ゆく車輪の軋み音は
消えゆく路線が奏でる
『鎮魂歌』(レクイエム)のようだった
だが、ワテが学校を出て比較的自由に旅に出れるようになる前に、この路線は廃止になってしまった。
廃止になったその時のワテは受験期に遭遇していて、状況的には「最後の別れ」に行けそうにない状況だった。 でも、ガキの頃から懲りないワテは、幾度も「受験を放り出してでも興浜北線に逢いにいこう」と思ったものである。 普通の人の感覚からは、不謹慎・・どころか「コイツは救いようがない」と思われるかもしれないけれど、真剣に行く事を目指して実行計画まで立てていた位である。
受験なんかかなぐり捨ててでも
この路線にお別れにいこうとしてたワテ
でも・・、行けなかった。 なぜなら、受験を控えてアルバイトなどを辞めてしまったから、逢いに行くために必要な金が無かったのだ。 「最後のお別れ」に行けなかった事で、「この時に最後の別れに行けていたら・・」という後悔が今も頭の片隅に残っている。
まぁ、結果論であるが、学歴は無くてもなに不自由なく楽しく暮らしているが、この後悔はあれから30年以上もの間ずっと『悔い』として頭の片隅に残っているのだから。 最も、真面目に学業に励んでいても、結果はそれなりだっただろうし・・ね。
その時成し得なかった『悔い』が
30年経った今もワテの足を向けさせる
興浜北線という思い入れの大きい路線の回顧で少し熱くなってしまったが、路線在りし時の出来事を語っていこうと思う。 最初の北海道への『撮り鉄』旅で室内用の『タングステンフイルム』を使っちまうという痛恨の「フイルム間違い」をしでかして、今回のアタックは『リベンジ心』で気合が入っていたのである。
で・・、『リベンジ心』で”罹り気味”となったタワケ小僧は、夜行列車を音威子府で降りて、興浜北線へ車両を送り込む為の4時過ぎ発車の早朝便に乗り継ぐ。 この列車では抱く目論見から、終点の北見枝幸までいって折り返す『乗り鉄の儀式』も端折って、朝の6時に斜内の駅に降り立ったのである。
その目論見とは、北見枝幸からの折り返し列車も撮る為だ。 要するに、1本でも多く撮影チャンスを得る為である。
でも、このお陰で北見枝幸駅での写真が撮れず終いで全くなく、タングステンの失敗作品を白黒化するという『サルベージ』しなけりゃならなくなったんだけど・・ね。
リベンジの気合が入ると
岬を撮るだけにしても
魅惑的なのが撮れるみたい
岬灯台の下をめぐる興浜北線列車
わが国でも屈指の鉄道風景であった
:
そしてワテの所蔵写真の中でも
『お宝写真』となった
線路を剥がされた現在でも
その周回のカーブのキツさが忍ばれる
そして、目論見通りの朝の折り返しの1本目を、ひと目見て虜になった《北見神威岬》で撮る。
これが我が『お宝写真』の一枚となったのである。 だが朝は快晴だったのが、1時間も経った8~9時台の上下列車の時はチラチラ雪が舞い出し、程なく小吹雪状態となってきたのである。
上の写真と同じアングルで見た
北見枝幸側の情景
この天候で岬の大岩の前でつっ立っていると命の危険とも成り得るので、とりあえず基地の斜内駅に戻るか・・とトボトボと歩く。 《北見神威岬》より斜内駅までは、近いようで約2kmほど離れているのである。 これを吹雪く状況で歩くのは、結構"くる"モノがあるのだ。 それに、吹雪くのは『西高東低』の冬型で『低気圧』様がオホーツク海に張り出すので、モロにアゲインストで風が向かってくるし・・。
1時間もたたずに雲行きが怪しくなり
で・・、風を避けながら歩いていると、駅付近に住むおばちゃんが「どこいくの? 外は吹雪いているから危ないよ」と声をかけてきて、それに「斜内駅に避難しに」と答えると、「駅は寒いから吹雪が収まるまでウチさ・・来な」という『神展開』となってきたのである。
そう・・、『神展開』はこの時と同じような展開が大いに期待されるのである。
その家の中は広く居間には漫画雑誌が高積みしてあり、そして『神展開』そのものの温かい『お昼ごはん』も出されて、「遠慮」という言葉が”マイ辞書”に存在しないこのタワケガキは、当然の如く「3杯目はそっと出し・・」をしていたよ。
その後は居間にある漫画雑誌を読みながら吹雪が弱くなるのを待ち、吹雪がやや収まった昼過ぎに温かい『お昼ごはん』で腹いっぱいとなったこのタワケは、13時台の列車を撮るべくこの好意でお世話となった『陣地』を出撃する。 でも、やや収まってきたとはいえ吹雪いてたので、岬まで行けなかったよ。
収まってきたとはいえまだ吹雪いていたので
岬まで行くのは自重した
今思えば行っておけばよかったよ
そして、最後の『撮り鉄』チャンスとなる15時台は収まっていた吹雪がぶり返して、コレも岬まで行けなかったよ。 で・・、その途中で撮ったのが下に掲載するコレ。 そして、コレが興浜北線の”ラストショット”となったのである。
ぶり返した吹雪の中を岬まで行くのは無理だった
それでコレが興浜北線のラストショットに
興浜北線の『撮り鉄』はラストを迎えたが、先程からの『神展開』はまだ終わってなかった。
15時台のラストショットを終え、この折り返しの上り列車に乗って稚内へ向かうべく斜内の駅で待機していると、先程にお世話となったおばちゃんが駅に現れ、「夜食だよ、持っていき」といって折詰め弁当を渡してくれた。 何と、お弁当を作って持ってきてくれたのである。 これには、厚顔無恥なワテでも思いっきり感動したよ。 半分嬉し涙が出たかも。
おばちゃんの好意に小僧が思いつくばかりの礼を尽くして、16時半の浜頓別行に乗り込む。
お弁当は稚内までの天北線の車内で頂くべく開けてみると、おにぎりまで握ってくれていたよ。
この弁当を見て、またウルッとなったあの時のワテを今でも憶えている。
・・そして時が経ち、廃止になってから20年という時を経た時、その時は鉄道から離れて山に向かっていた時だが、松山湿原の探勝の帰りに美幸線の仁宇布駅跡にあった石碑に絆されて、「かつてときめいた廃線の跡をめぐろう」と思い立ってこの斜内駅跡に訪れる。
名も無き野花が切ないまでの
時の無常観を漂わせていた
その久方ぶりに訪ねた懐かしい駅跡にはマーガレットの花が咲き乱れ、夏でも冷たい海風に揺れていた。 その情景は切ないまでの時の無常観を漂わせていた。
荒れ狂う冬の荒波が捨てられた
鉄路と道が奏でるレクイエムなのか
冬季は訪れる人もなく
閉鎖されていた岬めぐりの道
その岬をめぐる道も、国道238号線の《斜内山道》を貫く『北オホーツクトンネル』が完成すると岬めぐりの観光道に落とされ、住居もすべて『北オホーツクトンネル』よりも浜頓別寄りに移転してしまったようだ。
岬灯台の建つ高台からの風景が
無常観を魅せているようだった
駅舎は個人所有の別宅から物置になっていた
そして周囲は資材置場になっていて
雰囲気を壊すそれを入れないで撮るのに苦労したよ
そして、斜内駅は抱いていた『無常観』も消え去って、資材置き場の脇に物置としてポツンとたたずんでいた。
※ 関連記事として、『撮影旅行記集』より
『”オホーツク縦貫鉄道の夢めぐり”のハズが・・』もどうぞ。
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No title * by 風来梨
鳳山さん、こんばんは。
地名から歴史の夢を馳せるのも、その地を訪ねる旅の醍醐味ですね。
なるほど~と納得の地名から、ムリクリィ~と苦笑いが出るのまで、地名を訪ねる旅も面白いです。
地名から歴史の夢を馳せるのも、その地を訪ねる旅の醍醐味ですね。
なるほど~と納得の地名から、ムリクリィ~と苦笑いが出るのまで、地名を訪ねる旅も面白いです。
No title * by 風旅記
こんばんは。
今日もお写真と記事、楽しく拝見させて頂きました。
北海道に鉄路が張り巡らされていた頃、その一つ一つの路線を旅したらどんなに楽しかっただろうと思うことがよくあります。
興浜北線のみならず、一帯の天北線や名寄本線まで廃止された今、もはや遠すぎる夢になっています。この路線の起点、終点共に鉄道で訪ねることができないとは、もうどうにもなりませんね。
今回も素敵なお写真ですね。灯台の下を回り込む列車の写真は、今までにも見たことがありますが、厳しい気候の中で撮られた思い出が重なって本当に大切なものになっているのではないかと思います。
旅の過程で出会った方、いいお話です。私自身が年齢を重ね、若さ故に甘えることもできたし、一層周りの方も親切にしてくれたのだと実感することが増えましたので、どこか感情移入して拝読致しました。
興浜北線、興浜南線、美幸線、旅された方の記憶として大切なものが残っているでしょうが、やはり私にとっては、手が届くことのない夢のまた夢です。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
今日もお写真と記事、楽しく拝見させて頂きました。
北海道に鉄路が張り巡らされていた頃、その一つ一つの路線を旅したらどんなに楽しかっただろうと思うことがよくあります。
興浜北線のみならず、一帯の天北線や名寄本線まで廃止された今、もはや遠すぎる夢になっています。この路線の起点、終点共に鉄道で訪ねることができないとは、もうどうにもなりませんね。
今回も素敵なお写真ですね。灯台の下を回り込む列車の写真は、今までにも見たことがありますが、厳しい気候の中で撮られた思い出が重なって本当に大切なものになっているのではないかと思います。
旅の過程で出会った方、いいお話です。私自身が年齢を重ね、若さ故に甘えることもできたし、一層周りの方も親切にしてくれたのだと実感することが増えましたので、どこか感情移入して拝読致しました。
興浜北線、興浜南線、美幸線、旅された方の記憶として大切なものが残っているでしょうが、やはり私にとっては、手が届くことのない夢のまた夢です。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
No title * by 風来梨
風旅記さん、こんにちは。
私も、今も時折この『オホーツク縦貫鉄道』での空想旅を思い描きますね。 そして北海道へ行くと、この地の何も無くなった鉄道の跡を訪ねます。 それだけ、あの時の思い出と憧れが強かったのかと・・。
そして、あの頃は全てにおいてゆとりがあったなぁ・・と。
ゆとりと優しさと力強さがあったあの頃に、鉄道の思い出を刻む旅ができて幸せだったとつくづく思いますね。
私も、今も時折この『オホーツク縦貫鉄道』での空想旅を思い描きますね。 そして北海道へ行くと、この地の何も無くなった鉄道の跡を訪ねます。 それだけ、あの時の思い出と憧れが強かったのかと・・。
そして、あの頃は全てにおいてゆとりがあったなぁ・・と。
ゆとりと優しさと力強さがあったあの頃に、鉄道の思い出を刻む旅ができて幸せだったとつくづく思いますね。
ナイス