2017-03-12 (Sun)✎
路線の思い出 第198回 根室本線・厚床駅 〔北海道〕
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
滝川~根室 446.8km 2302 / 464
釧路~根室 運行本数
釧路~根室 6往復(うち下り2本、上り1本 快速)
釧路~厚岸 2往復
厚床駅(あっとこえき)は、北海道根室市厚床にあるJR北海道・根室本線の駅である。
かつては標津線が分岐していたが、1989年に廃止、バス転換された。
1面1線のホームを有する駅で、現在は無人駅となっている。 かつては単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する列車交換可能な交換駅であった。 駅舎側単式ホームの1番線が根室本線の下り本線、島式ホーム内側の2番線が標津線、外側の3番線が根室本線の上り本線となっており、互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム西側を結んだ構内踏切で連絡していた。 その他、1963年時点では3番線の外側に貨物側線を3線有していた。
かつての標津線ホームから望む
厚床駅舎
標津線廃止の際に2番線の線路が撤去され単式ホーム2面2線となり、3番線が新たに2番線に改称された(貨物側線の撤去時期は不明)。 その後、2016年3月25日までは、当駅にて列車交換がある場合のみ釧路方面行上り列車が2番線を使用していたが、同年3月26日のダイヤ改正に伴う減便で当駅での交換設備の運用を終了した。 現在は2番線の線路及びホームは残っているが、構内踏切跡の階段部分に蓋がされ立入禁止となっている。
現在の駅舎は1989年の標津線廃止後にバス待合所兼用として建て替えられたものであり、窓口は根室交通厚床案内所として営業する。 標津線廃止と同時の簡易委託化によりJR乗車券の発売も行っていたが、現在はバス乗車券のみ発売する。
戦前は馬市で活気づき、根室管内全域の馬が集まるほどだった。 戦後、軍馬の需要がなくなると、酪農が台頭。 1960年代は毎年約20万人が乗降するにぎわいを見せた。
駅が所属する路線は根室本線であるが、ワテの『路線の思い出』では、1989年に路線廃止となった標津線の駅なのですね。 だから、撮っている写真は1枚を除いて、全て標津線だけである。
かつてあった路線は
『墓 モニュメント』となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
その標津線であるが、支線系統の〔厚床線〕は1日僅か4本の運行しかなく、しかも最果ての根室地域で、アプローチにも時間と手間がかかり、鉄道乗って『撮り鉄』をしていた当時のワテをして『攻略困難路線』の称号(ゴメン・・、この言葉今思いついた)を得ていた路線である。
それは、当時は札幌から夜行急行の【まりも】が釧路まであったが、この列車から釧路で急行【ノサップ】に乗り継いでも厚床にほ7時過ぎと、標津線の僅か4本しかない路線では乗車必須となる6:33発の始発列車に乗れなかったのである。 要するに、この路線の始発列車に乗るには、厚床で駅寝するか、近くのあるかどうか分からん宿を見つけて泊まる以外に無かったのである。
まぁ、当時高校生の小僧にエトランゼな土地で宿を見つけるなんて、費用的にも実情的にも不可能だったし、当時は『駅寝猛者』になりつつはあったが、何の補給もない(当時はコンビニなんて便利なモノなかったし)標津線の原野にある駅で駅寝する程に練度(どんな練度や?)が高かった訳でもなかったので、10時前発車の2番列車に乗って”無理矢理”『撮り鉄』する以外に術がなかったのである。
標津線専用ホーム・2番線で発車を待つ標津線列車
:
1日4回の標津線列車の発着の時は
根室本線の接続列車も到着して駅は活気づいていた
でも、1日4本しかない路線の2番列車に乗って『撮り鉄』するのって、かなり”無理矢理”だよ。
この厚床駅を10時前に発車する列車で撮影地の奥行臼に向かったとしても、当然乗って来たこの列車を『撮り鉄』するのは不可能で、その次は14時過ぎまで列車の運行・・即ち『撮り鉄』する列車がないのである。 ・・つまり、奥行臼の駅に降り立った途端、4時間の『待ち』が発生するのである。
4時間待って撮れるのは
この1本のみ
そして、脱出しようにも路線バスは皆無で、駅間距離も隣駅の厚床・別海共に10km以上離れていて、到底歩いて脱出できる距離ではなかったのである。 そして、4時間の待ちで14時台の上り(厚床行)を撮ったとしても、この地を脱出できるのは中標津方面が16時前、厚床方面が18時前と、ほぼ半日何もない所での待機を迫られるのである。
春遠からじ
何もない荒野にも遅き春の訪れが
・・と言う訳で、食糧の持ち込みが必須の撮影地だったのである。 といっても、この路線に列車に乗って『撮り鉄』しにくる奴はワテ以外に見当たらず、ほとんどの『撮り鉄』が車できていたけど。
車で来たなら、上で書き連ねた『心配』は全て霧散解消するのだし。
かつて日本にはこのような所に
列車を走らせる“体力”があったのだ
これで幸運だった事といえば、国鉄当時には20日間フルで急行(後には特急も)乗り放題・・で、しかも北海道限定で冬季割引と学割を合わせると、ワテが住む大阪からの往復運賃込みで20日間特急を含めて乗り放題で、価格は3万円を切っていたのである。
そして、釧路・稚内・網走と三方向に夜行急行列車が運行され、根性を発揮すれば『夜行列車のリバース』で宿代を浮かせる事も可能だったのである。 ホント、今のJR北海道を見れば考えられないほどに、若者の鉄道旅に理解があって優しい制度だったよ・・、国鉄時代は。
急行【ノサップ】サボ
で・・、札幌から急行【まりも】で釧路まで出て、急行【ノサップ】に乗り継いで終点根室へ。
何故に根室まで向かったかというと、厚床で急行【ノサップ】を下りてしまうと、10時前発車の標津線2番列車まで2時間以上の待ちが発生しまう為である。
そういえば、最初に行った時は標津線は後回しにして、納沙布岬に流氷を見に行ったっけなぁ。
その納沙布岬の流氷はまた次の機会にこのブログの『日本百景』の書庫で語るとして、根室折り返しの急行【狩勝2号】(この列車は、根室~滝川~札幌のロングランだった)で厚床へ着く。
かつての駅は旅客への
思いやりで溢れた暖かい場所だった
当時の厚床駅は標津線を分岐する『ジャンクション駅』で、駅員の他に保線要員や運転要員も含めて多くの駅職員が所属し、木造の立派な駅舎があった。 待合室内も広く、常時ストーブが2台焚かれていて暖かい駅だったのを憶えている。
でも、JRになってから駅務の廃止によって運転要員のみの配置となって、同時にストーブも撤去された事も・・。 小僧だった当時は国鉄からJRへの経営移管を好意的に見ていたが、このような現実を見てから違和感を感じるようになったよ。 利益や採算を重視する事で、旅客への思いやりが次々とカットされていく現実に・・である。
話は脱線するが、何かにつけて『商売』って、利用客への隠れた心配りが後々になって活きてくるモノなんじゃないかな?って思うよ。 でも、だから・・といって赤字を垂れ流していた旧国鉄が正しいのか・・と言われると言葉が詰まるけど。
しかし、採算重視で切りつめるだけ切りつめても、JR北海道は更に「利用し辛く」なって、旧国鉄時代はまだ維持が可能だった『本線格』の根室本線でさえ存廃問題が浮上しているのだ。
利用客の利便を度外視して切りつめた結果、より経営不振を増大させているのある。
全てを取っ払われて棒線駅となった厚床駅
旅客への利便さえ切りつめた結果
更に営業不振に・・
※ ウィキペディア画像を拝借
この事からも思うのだ。 北海道の地域性を鑑みて、この地で鉄道業で利益を上げるのは不可能に近く、それなら採算は二の次にして、かつての旅客に対して思いやりが溢れて『良かった、利用しやすかった』国鉄時代に戻すのがベターと考えるのは、ワテ個人のエゴだろうか?
国鉄時代の駅は
今よりもずっと”活きて”いた
「採算は二の次」とはいったけど、ある程度の努力を見せればいいと思う。
いけないのは、無策のまま落ちていく現状を「嘆いている」「見ている」だけ・・なのである。
北海道に住む日本国民の為に使う北海道の鉄道が出す赤字額の補填400億が無駄なのなら、一部の土建屋の利権の為に日本の食を壊す豊洲市場の建設費5800億は無駄ではないのか!
しかも、やるべき汚染対策を手抜きして『毒物の肥溜め』の地下空間を放置して、専門家を金で買収して「この地下空間は安全」と、以前の答弁とは180度違う詭弁を出す犯罪・詐欺への金に比べたら、その地域に住む日本国民の為に使う鉄道の赤字補填なんて安いモノなのである。
あらら・・、脱線して熱くなっちまった。 この”無理矢理”追いかけた1日4往復の路線が廃止となって30年近くの時が経ち、ブリバリでなりふり構わず廃止路線を追いかけてたクソガキも、クソ野郎となった。 ・・で、追いかける目標も、鉄道から自然風景や野生動物となっていったのである。
大方30年の時が流れ
小僧だったワテのターゲットも
ローカル線から自然風景に変わっていた
春国岱にて
・・で、根室の自然風景を訪ね周る旅の寄り道に、この厚床駅に立ち寄ってみる。
建て替えられてかつての面影が皆無な駅舎に、何か胸が熱くなったよ。
現在の厚床駅
駅舎の変わり様に胸が熱くなったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
あの時のこの駅のキヤッチフレーズ「地平線の見える駅」というのはそのまま継承されていたようだけど、何故かあの時に魅せられたあの地平線とは別物のような気がして、この時は駅から望む地平線風景は撮らなかったよ。
厚床駅のスタンプ
『地平線の見える駅』でなかったのね
その内、駅舎の実質所有者である根室交通の路線バスがやってきて、駅舎内にいた数人を吸い込んで去っていった。 それを見届けて、久しぶりに標津線跡を訪ねてみる事にした。
※ この駅を取り上げた項目に
このブログの書庫にある『オホーツク縦貫鉄道の夢』もオススメ!←但し、筆者基準
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No title * by 風来梨
オータさん、こんにちは。
私の「初北海道」は、オータさんより1年後の1983年の夏でした。
その時は【まりも】などの夜行列車は全て14系になっていましたね。
旧客の夜行は旅の雰囲気満点ですね。 比較的遅くまで旧客のあった山陰本線で、急行【だいせん】と普通列車【山陰】、九州の普通列車【ながさき】で乗った経験がありますけど、スチーム暖房は熱い位でしたね。 牽引音や線路を刻むジョイント音とか、「これぞ、夜汽車の旅」って感じでした。
それと、我が「初北海道」の旅は、タングステンフイルムを使ってしまった「フイルム間違い」で全ボツとなり、これがリベンジ心に火をつけて、あれから30回位渡道してますね。
だから、初めての北海道は大失敗旅だったけど、北海道に熱中するきっかけとなりましたね。
それからは、北海道でいろいろな出来事がありましたね。
私の「初北海道」は、オータさんより1年後の1983年の夏でした。
その時は【まりも】などの夜行列車は全て14系になっていましたね。
旧客の夜行は旅の雰囲気満点ですね。 比較的遅くまで旧客のあった山陰本線で、急行【だいせん】と普通列車【山陰】、九州の普通列車【ながさき】で乗った経験がありますけど、スチーム暖房は熱い位でしたね。 牽引音や線路を刻むジョイント音とか、「これぞ、夜汽車の旅」って感じでした。
それと、我が「初北海道」の旅は、タングステンフイルムを使ってしまった「フイルム間違い」で全ボツとなり、これがリベンジ心に火をつけて、あれから30回位渡道してますね。
だから、初めての北海道は大失敗旅だったけど、北海道に熱中するきっかけとなりましたね。
それからは、北海道でいろいろな出来事がありましたね。
No title * by なべ
こんばんは。標津線懐かしいですね。80年代中頃は小生も周遊券を握りしめて何度か北海道行ってました。目当てはキハ22で、40だとガッカリしたものです。小生が標津線乗った時もキハ40でした。。。
No title * by 風来梨
なべさん、こんばんは。
北海道にローカル線があった80年代は、それを追う「鉄」にとっては周遊券は必須アイテムでしたね。 それももう、無くなってしまいました。 思えば、周遊券の終焉が、鉄旅が廃れた合図だったのかも・・。
それと、私もキハ22狙いでしたが、キハ40でもローカル線のお宝写真が撮れましたので、朱5号塗装(俗にいうタラコ色)のキハ40は好きですね。 私の標津線では、この厚床線はほとんどキハ40で、本線はキハ22が半数でした。
北海道にローカル線があった80年代は、それを追う「鉄」にとっては周遊券は必須アイテムでしたね。 それももう、無くなってしまいました。 思えば、周遊券の終焉が、鉄旅が廃れた合図だったのかも・・。
それと、私もキハ22狙いでしたが、キハ40でもローカル線のお宝写真が撮れましたので、朱5号塗装(俗にいうタラコ色)のキハ40は好きですね。 私の標津線では、この厚床線はほとんどキハ40で、本線はキハ22が半数でした。
No title * by ♂茉莉花
はじめまして
地元で花咲線活性化活動しているものです!懐かしい厚床駅の写真保存させてもらっても宜しいでしょうか?
地元で花咲線活性化活動しているものです!懐かしい厚床駅の写真保存させてもらっても宜しいでしょうか?
No title * by 風来梨
♂茉莉花さん、こんにちは。
どうぞ、厚床駅の写真を使って下さい。
昔の駅は温かかったですね。 ストーブも常時焚べていたし。
『オホーツク縦貫鉄道の夢』の前半(第6回から8回辺り)にも霧達布湿原の事を取り上げてますので、宜しければどうぞ。
どうぞ、厚床駅の写真を使って下さい。
昔の駅は温かかったですね。 ストーブも常時焚べていたし。
『オホーツク縦貫鉄道の夢』の前半(第6回から8回辺り)にも霧達布湿原の事を取り上げてますので、宜しければどうぞ。
1982年秋、初めての渡道で 標津線を乗りつぶしに行きましたが…
急行まりもがまだ 旧客編成で、スロ44のグリーン車がついていました。普通車は スハ44ながら 指定、自由席が各一両ずつ。この二両の客車が、急行ノサップが出た後 根室行き客レとして 荷物・郵便車を 併結して現れたのには 驚きましたね。
結局 同じ車両に 友人と共に乗りまして、彼は根室を目指して。私は 厚床で降りて 標津線の二番列車へ乗り換え。キオスクの隅に 三つだけ置かれていた 名物の ほたて弁当500円を 珍しく購入して 食べたのです。実は 物凄い台風が来ていて、怖くなって 実家に 駅前の公衆電話から連絡した記憶があります。18歳の秋でした。