風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  私の訪ねた路線 >  私の訪ねた路線 第20回  明知線

私の訪ねた路線 第20回  明知線

『私の訪ねた路線』 第20回  明知線 〔岐阜県〕
 

この路線は
この頃に一度行ったきり

《路線データ》
         営業区間と営業キロ          輸送密度 / 営業係数(’83)
         恵那~明知 25.2km          1509  /  588    

          移管年月日       移管時運行本数       転換処置
          ’85/11/16    恵那~明知 下り9本上り8本    明智鉄道


国鉄時代の明知駅
どこか寂れていた
 
   《路線史》
路線の建設計画としては、静岡県の掛川より遠州二俣、佐久間町の浦川、稲武町の武節を経て明知・恵那に至る壮大な構想があったようである。 いわゆる、『佐久間未成線』の一環として建設された路線である。 だが、地元住民の希望としては、静岡県に向けてではなく岡多線の延びる新豊田であったようで、豊田方向へ向けての延伸は度々要請されていたとの事である。

だが、未成線区間は国鉄再建法施行と同時に工事が凍結され、現存区間である明知線を始め掛川~遠州二俣を擁する二俣線も、それぞれ第一次、第二次の廃止転換路線の候補に指定されてしまう。

廃止転換については、転換問題が起こった当時に阿木川ダムの建設工事があり、代替輸送に供する道路の付替え工事が必要となった為、第一次廃止候補に指定されてはいたが道路の付替え工事が完成するまで承認の先送りがなされていたようである。

代替道路である国道257号の付替えが終了した時点で1年遅れの転換協議会が開催されたのだが、他の路線の転換協議会動向を見据えた結果、早々に『第三セクター』運営への移管を表明し、表明してから約1年後の1985年11月に『明知鉄道』に経営移管される。

この明知線の利用が振るわなかった原因は、人の流れと鉄道の向きが違っていた事が挙げられる。
人の往来は恵那ではなく、より名古屋に近い瑞浪や土岐なのである。 沿線の町である明智町の位置も恵那より瑞浪や土岐に近いのである。 その点の克服がこれからの『明知鉄道』の課題となるだろう。

なお、町名は『明智』だが、路線名は『明知』と名乗っている。 この訳は、この町は安土桃山時代の武将・明智光秀の由来の地であるのだが、謀反人である明智光秀を嫌いワザと知力の『知』に置き換ているとの事である。 
 
これは、以前に近鉄が「『鉄』と言う字は“金を失う”とあり縁起宜しくないので、つくりの『失』の上部分を削って『矢』に置き換え、“金を(矢で)射止める”に変えた」とのエピソードに似ているだろう。
ちなみに近鉄は、後に国語学者などからの抗議を受けて元に戻した・・との“オチ”が続くのであるが。
 


   《乗車記》
昼間は閑散とする恵那駅の母屋から中津川寄りの突端式の専用ホーム【0番線】から発車する。
私の乗車した国鉄時代(ローカル鉄に目覚めた中学生時代)は、一部の列車は中津川発着だったようで、その列車は本線発着だったようである。
 
恵那を出た列車は中津川方向に進み、高速道路の高架の手前で分岐して大きく右へ反れていく。
国道19号をクロスして山際に広がる田園地帯に飛び込むと、駅舎のない棒線駅・東野に着く。
線路は山際の高台を通っていて、田んぼと街なみを見下ろす感じで小気味良い。
 
東野から更に集落から離れるように進んでいく。 鉄道路線が集落から離れて野山に進んでいくとは普通では考えられない事だが、これは戦前の『空襲を避ける為』という鉄道建設のセオリー通りに建設が進められたから・・との事だ。 この理由が、利用客の流動と合わずに閑散線区として廃止転換候補となった路線の主原因となっているのである。
 
大きく迂回して阿木に着く。 この付近には転換協議を1年遅らせた阿木川ダムのダム湖がある。
阿木駅の駅舎は木造モルタルの国鉄駅らしい造りであったが、今はどうなっているのだろうか?
 
阿木駅から西に進路を取って、恵那市と明智町を経由する国道257号の方へ進んでいく。 飯羽間駅の先で国道257号と併走するが、国道の8kmあまりに対して明知線の方はここまで12.7kmも要している。
 
飯羽間駅は、田圃の迫った典型的な田舎の無人駅。 夏になれば、駅のホームの上では蛙の鳴き声のオーケストラが大音響で聞こえてくるだろう。 次の岩村は、線内最大の駅。 国鉄時代からの列車交換が行われた有人駅だ。 近くに高校もあり、朝夕は通学生で賑わうとの事。
 
岩村を出ると小さなサミットを越えるべく、列車は勾配を上っていく。 次の花白は、峠の手前の何もない駅。 民家が数件あるだけだ。 次の山岡は、山岡町(現在は恵那市に編入)の町の代表駅なのだが早くから無人化されており、閑散としていた印象がある。
 

所詮、中坊が撮るとこんなもん
(今もそう変わらんが)
花白~山岡
 
山岡を出ると、本格的なサミット越えに差し掛かる。 この峠越えは連続25‰(25/1000勾配)の勾配が続き、この路線にエンジン2基搭載のキハ52が当てがわれていたのも当然と言えそうだ。 サミットを越えてエンジン音が軽やかになれば、程なく明知駅に到着する。
 
写真を撮るとなれば、冬の雪肌の乗ったこの勾配なんか良さそうだが、あの時はそんな所まで行ける足もなく、訪れる事もないままに四半世紀という時が流れてしまった。

   ※ 詳細はメインサイトより、『魅惑の鉄道写真集』の『明知線』を御覧下さい。



関連記事
スポンサーサイト



No title * by オータ
この線、乗ったことがあるはず…スタンプに駅の写真に入場券もあるのですが…どうしても記憶が思い出せず困っています。

No title * by 風来梨
こんばんは。

正直言うと、私も訪れたのは昭和58年の中学生の頃のみ・・と、印象が薄い路線です。 でも、冬の厳しい気候は、いい写真が撮れるかもしれませんね。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No title

この線、乗ったことがあるはず…スタンプに駅の写真に入場券もあるのですが…どうしても記憶が思い出せず困っています。
2011-05-17 * オータ [ 編集 ]

No title

こんばんは。

正直言うと、私も訪れたのは昭和58年の中学生の頃のみ・・と、印象が薄い路線です。 でも、冬の厳しい気候は、いい写真が撮れるかもしれませんね。
2011-05-17 * 風来梨 [ 編集 ]