2017-02-11 (Sat)✎
よも”ヤマ”話 第13話 矢筈山 〔岡山県〕 ’88・4
矢筈山 751m
麓から見上げる矢筈山
※ グーグル画像より拝借
高校を卒業してからは、国鉄の分割民営化前に第二次の廃止線の廃止を終えてしまおう・・という当局の思惑から廃線ラッシュとなり、それを追っかける事が最優先となってしまって、この二次廃止線の大方の路線のすう勢が決まるまでの約2年間は山からは遠のいていたのである。
矢筈山・城址めぐりルート地図
・・で、今回の事も、明らかに登山の復活を目指したモノではなく、『○鉄』で時間が余ったついで(ローカル線は運行本数が少ないからねぇ)に、カメラバックを肩に掛けてズック靴履きという登山とは相容れないスタイルで登った山の事である。
まぁ、正確に言えば『登山』というより、山城の跡をめぐる『歴史探索ハイキング』といった方がいいかもしれない。 まぁ、ガキの頃から歴史探索は好きで、齢10歳位の小僧の時にこんな事もしているしィ。 そして今回も、今ワテが展開している(閑古鳥が鳴く)ホームページの『日本百景』の草案というか『前身』というかの写真文集『ローカル線 ぶらり散歩・・』という胡散臭い写真集を、ナカバヤシの『フエるアルバム』を台紙にして製作していたのである。
『○鉄』から気持ちが離れつつあった頃だから
気合入ってませんね
まぁ、この『ローカル線 ぶらり散歩・・』はローカル線のすう勢が決まって鉄道から心が離れていった途端に”打ち切り”となって、『日本百景』内のコンテンツ『魅惑!?の鉄道写真集』に合併吸収されたけど。
その『日本百景』(こんなに同じリンクを多発するのは、こちらのページにアクセスを誘導したい・・という下心がミエミエだわ・・)の創生期は『ローカル線 ぶらり散歩・・』と同じくナカバヤシの『フエるアルバム』で、はち切れんばかりに増補したアルバムが12冊・・今も残っていたりして。
ちなみに、すへてリバーサル写真をプリント(1枚130円~250円と高かった)したので、製作費25万位も費やしたのに”使えない”駄作だったりするのも青春の藪の中に・・。
清流を強調して撮るつもり
だったのだろうけど中途半端に
話は反れたが今回の事は、その『ローカル線 ぶらり散歩・・』に掲載するべく因美線の撮影を目的に訪れたのであった。 でも、この ’88年というのは第二次廃止線の大方のすう勢が決まって、『○鉄』に対して気持ちが離れていった頃の事なのである。 云わば、青少年時代の『○鉄』期の終焉の頃ですな。
で、因美線の他にソロソロもたげ始めた『日本百景』(←クドいわ・・このタワケ)も並行して進めるべく、景勝地の鳥取砂丘を訪ねていたのである。 まぁ、青少年時代の『○鉄』期の旅の形態ではあんまりなかったケースですな。
この旅で撮った鳥取砂丘の風紋
・・で、前々日の今は無き夜行急行の【だいせん】で翌朝の4時に鳥取に着き、タクシーで鳥取砂丘へ。 鳥取砂丘から因美線の河原駅に向かって前夜はここで駅寝をしたのであるが、鳥取砂丘から河原へ移動するまでの広大な空き時間は記憶が消えていて分からないままである。
美作河井駅
※ ウィキペディア画像を拝借
・・で、翌朝河原駅を始発で発ち、適当に『○鉄』できそうな所として撮影地として選んだ所が美作河井駅であった。 当時のこの駅は列車交換設備があり、タブレットの受け渡しが行われていた駅であった。
でも、当時のワテはこういう事には疎く、結構貴重な通過する急行【砂丘】からのタブレット引掛けシーンを撮るの忘れたよ。 このタブレット収受シーンは、結構鉄ネタとして鉄道誌上で話題となったようである。
写真は駄作でも
キハ58はカックイイ
まぁ、この駅を撮影地として選んだのは駅付近を流れる加茂川の清流に魅かれて・・であるが、「この川を前景に、午前と午後イチの急行と普通を4~5本撮れればいいかな」なんて考えていたが、鉄道から気持ちが離れつつあったこの時は「列車を何時間でもじっと待つ」という耐性が崩壊していて、朝の3本(この3本を撮ると13時前まで列車はなかった)を撮ると、急激に『撮り鉄』に飽きてきたのである。
急行【砂丘】の雄姿
面倒クサくなって同じアングルで撮り出すと
途端に飽きてくる
でも、まだ10時前・・、3時間以上のヒマとなる。 そこで一度駅に戻って、ふと駅の『名所案内』を見ると『矢筈山と矢筈城址 ・・戦国時代の城跡 北3km 徒歩1時間半』とあったのである。
・・で、駅にあった矢筈山を案内したパネルを見て、「ヒマ潰しはここで・・ 午後の『○鉄』は撮れなくてもいいや!」って事となってカメラバックを担いで矢筈山へ。
登山道はハイキングコース
として整備されていた
※ グーグル画像より拝借
でも、矢筈山への道中は1枚も写真を撮らなかったんだよね。 そう、登頂の『アリバイ写真』でさえも・・。 何故ならカメラに入れていたのが最後のフイルムで、しかも残りフイルムのコマ数が少なくなっていて、これで間に合ったら因美線の午後の列車はおろか、気持ちが前に向けば今日開通の瀬戸大橋線(この日は’88年の4月10日の本四備讃線の開業日だったのデス)をも・・と目論んでいたので、フイルムを使う訳にはいかなかったからである。
まぁ、当初は矢筈山に登る気持ちはなく、13時台の列車で岡山に出て、夜でいいから本四備讃線を往復しようか(セ・セ・セ・セ青春18利用なので切符の心配はナシ)と考えていたし・・。
それでは、登った矢筈山の頂上にあった城跡・矢筈城址の概要を書き記してこの記事を締めようと思う。
矢筈城の概要
※ 矢筈上保存会のウェブ写真より拝借
美作河井駅より持ち帰った地元保存会発行のパンフレットより
矢筈城は高山城ともよばれ、戦国時代に美作国と因幡国にかけて勢力を有した草刈氏の築いた城で、 岡山県内では最大級の山城である。 天文元年(1532)に草刈衡継が築いた山城で、 以後、景継・重継の三代の居城となった。
城址説明板に描かれた矢筈城イメージ図
標高756メートルの山上に設けられた主郭は全国屈指の高さにあり、 山麓との比高差は426メートルという険しい山上に位置する要害城である。 矢筈城主草刈氏は毛利氏に属して尼子氏、ついで織田信長の命を受けて 中国攻めの陣を進めた羽柴秀吉と戦い、その間の草刈氏は美作の強豪として美作北部に勢力を保持した。
ところが、毛利氏の処遇に不満をもった景継は織田方の誘いに心を動かされ 毛利陣営から離脱しようとしたが露見、景継が毛利氏に粛清されたのちは弟の重継が当主となり 果敢に羽柴勢に抗戦を続けた。
本能寺の変を契機として毛利氏は秀吉と和睦、 天正十二年、吉川元春の命を受けて矢筈城を開城するまで一度も落城する事はなかったのである。
山上の矢筈城に立てば、その規模の大きさ、たくみな縄張構造、 加えて周辺の山々に散在す矢筈城を取り巻く支城群とがあいまって、 草刈氏が羽柴軍・宇喜多軍らの攻撃を勇猛果敢に跳ね返した事が偲ばれるだろう。
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