2011-05-04 (Wed)✎
『私の訪ねた路線』 第19回 下北交通・大畑線 〔青森県〕
《路線データ》
営業区間と営業キロ 廃止時運行本数 廃止年月日 転換処置
下北~大畑 18.0km 10往復 ’01/ 4/ 1 下北交通バス
輸送密度 / 営業係数(’83・国鉄時代)
1084 / 457
※ 旧国鉄・大畑線からの第三セクター移管線
《路線史》
この路線は、国防上の重要地点である津軽海峡沿岸地域に鉄道を通すべく改正鉄道敷設法の別表第1号に計画を記された国策上重要な建設線であった。
これは大間にあった海軍要塞の施設強化に伴うもので、1937年に着工されて1939年に下北~大畑の現存区間が全通している。 その先も『大間線』として大間までの建設が進められたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、未成のままに工事は中断された。
戦後しばらくは海産物と木材の輸送に活況を呈していたが、陸路の整備により輸送がトラックに切り換えられるなどして輸送量が減少していった。 また、旅客輸送の方も、本州の北の果てをゆく路線という事で元々人口の絶対数が少なく、ジリ貧状態であった。
1980年の国鉄再建法では、貨客共に営業成績の不振が問われて第一次の廃止対象線に指定される。
これは大間にあった海軍要塞の施設強化に伴うもので、1937年に着工されて1939年に下北~大畑の現存区間が全通している。 その先も『大間線』として大間までの建設が進められたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、未成のままに工事は中断された。
戦後しばらくは海産物と木材の輸送に活況を呈していたが、陸路の整備により輸送がトラックに切り換えられるなどして輸送量が減少していった。 また、旅客輸送の方も、本州の北の果てをゆく路線という事で元々人口の絶対数が少なく、ジリ貧状態であった。
1980年の国鉄再建法では、貨客共に営業成績の不振が問われて第一次の廃止対象線に指定される。
国鉄との転換協議ではバス転換に傾いたものの、1984年になって“元祖・レールバス”で有名な南部縦貫鉄道(1997年運行休止、2002年廃止)が大湊線とセットでの引き受けを表明し、転換協議は混沌状態となる。
南部縦貫鉄道としては、大湊線と一緒に引き受ける事で社名の如く『縦貫』を達成する事と、同社の現存区間が経営危機に瀕していて、比較的輸送量のある大湊線とセットで引き受ける事で経営危機を立て直す思惑があっての事だった。 だが、この大畑線の沿線に経営基盤を持つ下北バスが、その防衛の為に大畑線の受け入れを表明し、バス転換が回避された経緯がある。
転換の受け入れが民間会社であったケースは廃止転換線の中でも黒石線の1例のみで、バス会社の引き受け例は皆無であった。 引き受けを表明した下北バスは鉄道事業経験は皆無であったが、協力企業であった京浜急行電鉄の指導を受け、社名を『下北交通』に改めて鉄道事業に乗り出す事となった。
だが、経営状態は芳しくなく、また設備も旧態依然のままで、設備更新時期が近づくと同時に転換交付金が底をつき、結局廃止される事となってしまった。 廃止年月日は、2001年3月末日をもって・・である。
南部縦貫鉄道としては、大湊線と一緒に引き受ける事で社名の如く『縦貫』を達成する事と、同社の現存区間が経営危機に瀕していて、比較的輸送量のある大湊線とセットで引き受ける事で経営危機を立て直す思惑があっての事だった。 だが、この大畑線の沿線に経営基盤を持つ下北バスが、その防衛の為に大畑線の受け入れを表明し、バス転換が回避された経緯がある。
転換の受け入れが民間会社であったケースは廃止転換線の中でも黒石線の1例のみで、バス会社の引き受け例は皆無であった。 引き受けを表明した下北バスは鉄道事業経験は皆無であったが、協力企業であった京浜急行電鉄の指導を受け、社名を『下北交通』に改めて鉄道事業に乗り出す事となった。
だが、経営状態は芳しくなく、また設備も旧態依然のままで、設備更新時期が近づくと同時に転換交付金が底をつき、結局廃止される事となってしまった。 廃止年月日は、2001年3月末日をもって・・である。
大畑~野辺地の乗車券
「南部縦貫鉄道の七戸までつなげたなら」と
「南部縦貫鉄道の七戸までつなげたなら」と
儚い夢を思い描く
これは“If”論であるが、南部縦貫鉄道が大湊線と共に受け入れていたなら、南部縦貫鉄道線の既存区間と共に、この大畑線も存続していたかも・・と思えるのは私が能天気だからであろうか。 だが、地方自治体の援助があり、鉄道愛好家のサポーターを多く持つ同社なら、何かとイベントを放つ事も可能だったと思えるのだが。
《乗車記》
ワテがこの路線に乗車したのは、大間崎見物のついで・・であった。 今思い返すと、南部縦貫鉄道線の事といい、何ともったいない事をしたのか・・という後悔の念が湧き出てくる。 しかしこの当時は、旧国鉄廃止線に挙げられた路線の大方にケリが着いた頃で、ワテ自身も鉄道から興味が離れつつあった頃だったのだ(今はまた、“ナンチャッテ○鉄”として復活しているが)。
だから、「あまり憶えていない」というのが実情だが、それでも他のサイトさんで掲示している大畑線の駅の写真などを見て、地図やあの時の事を思い返して語っていこうと思う。
国鉄時代の1985年までは全列車が大湊駅発着であったが、下北交通に譲渡移管されてからは、下北駅が発着駅となっていた。 車両は今も動体保存をされている・・という国鉄払い下げのキハ22(下北交通ではキハ85となっていた)であった。 下北交通の車体塗装があまり好きでなかったので、またもやコレを撮らない・・というもったいない事をしている筆者であった。 教訓としては、何でも撮っておいた方がいいという事だろう。
下北駅を出た列車は、大湊線から大きく右へ反れて湾曲しながら北上していく。 程なく、海老川という市街地の外れの駅に着く。 ここは地元の高校の最寄駅との事で、棒線駅でブロック造の待合室だけの駅ではあったが、乗降者は多かったみたいである。
次の田名部は、むつ市の役所所在地駅だが、市街地の中心は港のある大湊のようである。 ここは途中駅では唯一、駅員配置駅である。 また、転換後に下北交通の社紋を連想させるような造の駅舎に改築されたようだ。
大畑線の利用客は海老川駅の高校生と市内中心部の田名部駅、そして終点の大畑以外はほぼいないようで、これより先の途中駅は全て無人駅で、また譲渡転換時に多少の補修を受けただけで朽ちるに任せた放置状態であったという。
途中の無人駅が示す通り、田名部のむつ市街地を過ぎると、荒涼とした原野とも言えない荒地帯を進んでいく。 途中、早書沼という桜やツツジの名所となる沼の畔をゆくが、もし大畑線の写真を撮るとしたなら、この辺りの花の季節が狙い目だったかもしれない。 今は、もう手遅れの事なのだが。
やがて、廃止6年前から早々に冬季休業駅となった樺山に着く。 駅舎は下北カラーに塗り直されているが、利用者は下北めぐりをするライダーくらいで、夏場はライダーハウスと化していたみたいだ。
陸奥関根・川代・正津川と国道上の小集落の駅に停車していくが、大畑に向かうにつれて周囲の民家が増えてくる。 やはり、大畑は下北半島ではむつ市に次ぐ町なのであろう。
『国定公園・下北半島』の
観光スタンプ
やがて、終点の大畑。 こちらの駅も田名部駅と同じ形に改築されている。 また、東北有数の観光地であろう宇曽利湖や恐山、そして薬研温泉、本州最北端の大間崎などの観光の拠点である事から、バスが各方面へ鉄道の便数を越える数で設定されている。 もちろんワテも、このバスに乗り継いで大間崎を目指したのだった。
なお、路線史で記述したように、大畑から先、大間から津軽海峡を通って戸井に至る壮大な計画の遺構が未成線跡として残り、未成線や廃線跡を辿る鉄道ファンの聖地となっているようである。
- 関連記事
スポンサーサイト
No title * by オータ
かつて大畑はフェリー港でもありまして、室蘭との航路も比較的近年まで存在していました。乗ってみたかったです…
No title * by 風来梨
こんばんは。 私は1度だけ函館~大間の便に乗船した事があります。 東日本フェリーの「びすぱ」(東日本フェリーの愛称は全てひらがな)だったかな・・。
時は若かりし頃の放浪旅時代です。 大間から、仏ヶ浦を周って鳥海山など、東北をジグザグにめぐった思い出があります。
でも、仏ヶ浦は、こんな事でもなければなかなか訪れる機会がないかもしれませんね。
時は若かりし頃の放浪旅時代です。 大間から、仏ヶ浦を周って鳥海山など、東北をジグザグにめぐった思い出があります。
でも、仏ヶ浦は、こんな事でもなければなかなか訪れる機会がないかもしれませんね。